インタビュー時:43歳(2019年1月)。
関係:長女(インタビュー時70歳の実母を介護)
診断時:母70歳、長女43歳
2018年5月、元気だった母の食欲がなくなり、7月に大腸ポリープが見つかる。衰弱がひどく切除できず、総合病院に入院。幻覚やせん妄も見られ、老人性うつの疑いで同月、精神科のある病院に転院。10月にレビー小体型認知症と診断された。仙骨の褥瘡と発熱により、半年の間に5箇所も医療機関を変わることになった。認知症の母を主に支える家族は父で、兄や自分は独立して近くに住んでいる。9月には自分も下血し、潰瘍性大腸炎と診断された。
プロフィール詳細
H. Tさんは、関東に在住。夫と娘と息子の4人で暮らしている。H. Tさんの両親は車で40分ほど離れたところに住んでおり、母親はヘルパーとして働く中、孫たちの運動会のお弁当づくりなど厭わずにH. Tさんを助けてくれていた。 H.Tさんも母親と同じ会社でヘルパーとして働いていた時期がある。
母親の体調に異変を感じたのは2016年、母が68歳の頃である。それまで、母は1日1万歩、歩幅を広く歩くことを目標にしていたが、H. Tさんの目からは歩幅が狭くなってきたように感じられた。その後、匂いがわからなくなったようで、料理の味付けに自信がないと話し始めた。2017年の5月には、子どもたちの運動会のお弁当作りを初めて断られた。人が変わったように元気のない姿に、H. Tさんは不安を覚えるようになった。
2018年5月頃、母はよく悪夢を見るようになり、不眠を訴えるようになった。その後、下痢になったことをきっかけに食欲がなくなっていった。H. Tさんは、母を連れて近所のクリニックに通ったり、鍼(はり)に通ったりと手を尽くした。
6月21日には総合病院を受診し、ようやく下痢の原因と思われる3cm大の良性の大腸ポリープが見つかった。がん専門病院を受診したものの、母の衰弱が激しく、「これではポリープは取れない」と言われ、7月11日に元の総合病院に入院することになった。入院後、近くのクリニックで処方されていた胃潰瘍の薬(H2ブロッカー)や食欲増進のための薬剤(ドグマチール)は、せん妄を起こす可能性がある薬剤としてすぐに中止となった。総合病院で入院してからの母は、何度もトイレに行きたいと言い、たった5日ほどで歩けなくなった。その頃には、幻覚やせん妄を起こすようにもなっていた。いろいろな検査を受けたが、原因は見つからず、食事は取れない状態のまま、7月24日に老人性うつの疑いで精神科のある病院に転院した。
母は、入院直後は「もう仕方がない、仕方がない」とつぶやき、H. Tさんには「子どものことをしっかり見て、私のことはいいから……前を向いて生きていきなさい」と、まるで自分の行く末を分かっているかのようだった。
精神科でもなかなか診断がつかずに、心筋シンチグラフィーなどの画像診断を受け10月10日にようやくレビー小体型認知症と病名がついた。すでに、手の震えや体が斜めに傾いていくパーキンソン様症状も見られており、医師からもレビーである可能性は伝えられていた。H. Tさんは、母親にも病名を伝えようとしたが、「聞きたくない」と拒まれた。
精神科入院中に経管栄養も始まり、オムツもするようになり、歩けないのにトイレに行こうとしてベッドの下に横たわっていることもあり、やむなく拘束も始まった。母が混乱しているうちに色々なことが進んだので、手当を受けるたびに母は叫ぶようになった。看護や介護に入る前に一言でも声かけがあれば、母ももう少し穏やかに過ごせたのではないかと思う。少なくとも、人として扱ってほしかった。
急性期の精神科病棟を3ヶ月で退院し、老健に入所すると、車椅子に乗って生活ができたので、食事も口から取れるようになった。だが、40度熱のある日が続き、1ヶ月も経たないうちに急性期の病院に入院することになった。医師からは「覚悟をしておくように」と言われたが、急性期の病院にかかわらず、看護師も皆優しく、急に母の手もよく動くようになり、自分の手で食事が取れるようになった。ここも長くはおられずに、長期治療ができる病院に転院した。わずか半年の間に5箇所の医療機関を変わり、本当につらかった。両親宅のエリアの地域包括センターのケアマネジャーに相談すると、「方向性も決まっていないのに電話してこられても困る」と言われ、心が折れた。
母が総合病院に入院した7月には、H. Tさんも下血し、潰瘍性大腸炎の診断を受ける。
2015年から何か母に怖いことが起こるのではないかと一人で心配し続けたことがストレスになったのかもしれない。H. Tさん自身の体調が悪い日もあり、夫は「お義母さんは施設でみるしかない」と決めた。
2018年12月、母は療養型病院に移ると、スタッフは皆、介助前の声かけもしっかりしてくれて、母も穏やかになりテレビも見るようになった。だが、どこへ移っても「覚悟はしておくように」と言われる状況に変化はない。
母親の体調に異変を感じたのは2016年、母が68歳の頃である。それまで、母は1日1万歩、歩幅を広く歩くことを目標にしていたが、H. Tさんの目からは歩幅が狭くなってきたように感じられた。その後、匂いがわからなくなったようで、料理の味付けに自信がないと話し始めた。2017年の5月には、子どもたちの運動会のお弁当作りを初めて断られた。人が変わったように元気のない姿に、H. Tさんは不安を覚えるようになった。
2018年5月頃、母はよく悪夢を見るようになり、不眠を訴えるようになった。その後、下痢になったことをきっかけに食欲がなくなっていった。H. Tさんは、母を連れて近所のクリニックに通ったり、鍼(はり)に通ったりと手を尽くした。
6月21日には総合病院を受診し、ようやく下痢の原因と思われる3cm大の良性の大腸ポリープが見つかった。がん専門病院を受診したものの、母の衰弱が激しく、「これではポリープは取れない」と言われ、7月11日に元の総合病院に入院することになった。入院後、近くのクリニックで処方されていた胃潰瘍の薬(H2ブロッカー)や食欲増進のための薬剤(ドグマチール)は、せん妄を起こす可能性がある薬剤としてすぐに中止となった。総合病院で入院してからの母は、何度もトイレに行きたいと言い、たった5日ほどで歩けなくなった。その頃には、幻覚やせん妄を起こすようにもなっていた。いろいろな検査を受けたが、原因は見つからず、食事は取れない状態のまま、7月24日に老人性うつの疑いで精神科のある病院に転院した。
母は、入院直後は「もう仕方がない、仕方がない」とつぶやき、H. Tさんには「子どものことをしっかり見て、私のことはいいから……前を向いて生きていきなさい」と、まるで自分の行く末を分かっているかのようだった。
精神科でもなかなか診断がつかずに、心筋シンチグラフィーなどの画像診断を受け10月10日にようやくレビー小体型認知症と病名がついた。すでに、手の震えや体が斜めに傾いていくパーキンソン様症状も見られており、医師からもレビーである可能性は伝えられていた。H. Tさんは、母親にも病名を伝えようとしたが、「聞きたくない」と拒まれた。
精神科入院中に経管栄養も始まり、オムツもするようになり、歩けないのにトイレに行こうとしてベッドの下に横たわっていることもあり、やむなく拘束も始まった。母が混乱しているうちに色々なことが進んだので、手当を受けるたびに母は叫ぶようになった。看護や介護に入る前に一言でも声かけがあれば、母ももう少し穏やかに過ごせたのではないかと思う。少なくとも、人として扱ってほしかった。
急性期の精神科病棟を3ヶ月で退院し、老健に入所すると、車椅子に乗って生活ができたので、食事も口から取れるようになった。だが、40度熱のある日が続き、1ヶ月も経たないうちに急性期の病院に入院することになった。医師からは「覚悟をしておくように」と言われたが、急性期の病院にかかわらず、看護師も皆優しく、急に母の手もよく動くようになり、自分の手で食事が取れるようになった。ここも長くはおられずに、長期治療ができる病院に転院した。わずか半年の間に5箇所の医療機関を変わり、本当につらかった。両親宅のエリアの地域包括センターのケアマネジャーに相談すると、「方向性も決まっていないのに電話してこられても困る」と言われ、心が折れた。
母が総合病院に入院した7月には、H. Tさんも下血し、潰瘍性大腸炎の診断を受ける。
2015年から何か母に怖いことが起こるのではないかと一人で心配し続けたことがストレスになったのかもしれない。H. Tさん自身の体調が悪い日もあり、夫は「お義母さんは施設でみるしかない」と決めた。
2018年12月、母は療養型病院に移ると、スタッフは皆、介助前の声かけもしっかりしてくれて、母も穏やかになりテレビも見るようになった。だが、どこへ移っても「覚悟はしておくように」と言われる状況に変化はない。
インタビュー家族41
- 毎日1万歩が目標だった母の歩幅が狭くなり、匂いもわからなくなり味付けに自信がないと話し始めた。母の姉も匂いが分からないので姉妹で似た老化現象かと思った
- 母は、まるでこうなっていくことがわかっていたかのように、「子どものことをしっかり見て、私のことなんかいいから…前を向いて生きていきなさい」と言っていた
- 心が折れることもあるが、納得のいかないことや疑問には声を上げていろいろ助けを求めていくことも大事だ
- 介護度が上がると負担が軽くなると思ったら、逆だった。病気の母を心配したいのに、次行く場所や、お金の心配をいつもしなきゃいけないことが、ほんとにつらい
- 精神科の病棟では、いきなり口に歯ブラシを入れられるような感じで、母は触られると「いやー」と叫んだりしていて、正直人間として扱って欲しかった
- 本人は混乱していく怖さの中にいる。穏やかに過ごせる環境づくりのために、働いている人がやさしい気持ちで見守っていける態勢がもっとできるといい