インタビュー時:43歳(2019年11月)
関係:娘(実母、祖母を介護)
診断時:母62歳、娘38歳、祖母88歳(3人家族)
20年ほど前に、娘(一人娘)は起業し実家から独立した。2015年頃から母の異常行動に悩まされ、ピック病を疑うも、母の激しい抵抗に遭い受診させることができなかった。ほどなく母は万引で警察に保護され、起訴・裁判を経て、前科一犯となった。裁判後に入院した病院の精神科で、前頭側頭型認知症で大脳皮質基底核変性症*の疑いがあると診断された。そのような中、祖母が2019年の夏に脳梗塞で倒れて認知症が進み、現在は、母と同じ特別養護老人ホームに入居している。
*難病支援センター「大脳皮質基底核変性症」の項を参照
プロフィール詳細
M.K.さんの母親は中学を卒業後、祖母とともに東北から上京し、21歳で美容室を開業し一家を支えてきた。M.K.さんも美容関係の仕事で起業し、20年ほど前に独立。実家から車で30分程のところで暮らしている。実家では、母が祖母の世話をしながら、美容室を続けていた。
M.K.さんが最初に母親の言動に異変を感じたのは、2011年の東日本大震災時の時だった。当時58歳の母に「大丈夫?」と電話をすると、「かわいいぬいぐるみを買ったけれど要る?」と聞かれ、こんな時になんと呑気なと、驚いた。その後、毎日のように職場に訪れたり、着信拒否にしないと仕事ができないほど電話がかかってくるようになり、親と縁を切る方法を真剣にネットで検索した。そんな折、高校時代の友人から、「お母さんの様子がおかしいのでは?」という連絡を受け、初めて母親の病気を疑うようになった。認知症の電話相談で、“つきまとい”や温和で優しかった母が祖母に手を上げるなど“性格の変化”を伝えると、ピック病(前頭側頭型認知症の1つ)かもしれないと告げられた。母親に受診しようと促すと、尋常ではない怒り方をされ、最後にはハサミを向けられた。病院からは、敷地内に入ってくれれば職員が対処すると言われたものの、そこまで母を連れていくことができなかった。
郷里の叔母と母を受診させる相談をしていた矢先、母がコンビニエンスストアで万引きをして、警察に保護されるという事件が起こった。初犯ではなかったため、店員による通報で120円のパンを万引きした現行犯として逮捕された。自宅では、母が無断で取ってきたと思われるトイレットペーパーや靴や衣服が大量に見つかった。
裁判に当たって、認知症の可能性があるので一旦病院を受診させてほしいと申し入れたり、医師の所見を提出したりしたが、62歳の若さで、見た目も認知症には見えないので、言い逃れのための方便としか思われず、起訴に至った。母はずっと「お母さん、何も悪いことしてないのに…」と言い続けていた。証拠の映像もあり、盗んだことには間違いないが、病気でそういう行動を取ってしまったのに、証拠があるのに罪を認めないのは許せないとして起訴され、裁判に至った。遊びに時間を使うこともなくずっと働き詰めの人生で、「死ぬまで美容師をやるんだ」と言ってた母が、名前で呼ばれず、番号で呼ばれている姿を見ると、M.K.さんは涙を抑え切れなかった。国選弁護士から、「一日も早く拘留から解放されるには、罪を認めて罰金を払うしかない」と提案を受け、母は子供が教わるように、罪を認めるための受け答えの練習を弁護士とした。その時は、前科のことなど考えるゆとりもなかったが、やはり理不尽な思いが残る。その一方で、美容院でお客様に怪我をさせたり、車で人身事故を起こしたりしていたらと考えると、万引きで捕まってよかったとも思う。
出所後は、普通の状態ではない母の姿を近所の人に見せたくない思いで、すぐに精神科のある病院に入院させた。そこで、前頭側頭型の認知症で大脳皮質基底核変性症*の疑いがあると診断を受けた。画像診断では脳が委縮して小さくなってしまっており、お母さんの頭の中って空っぽなの?とビックリした。入院中は攻撃的で落ち着きなく動き回るし、目に入ったものを勝手に部屋に持ち帰ったりしていたので、1年で病院から有料老人ホームに移った。その後、要介護3と認定され、特別養護老人ホームに入れるようになった。
実家に残った祖母は、最低限自分のことはできていたが、2019年の夏、脳梗塞で倒れて認知症が進んで、母と同じ老人ホームに入居することになった。一度母と祖母を会わせたが、まだ母よりは少ししっかりしている祖母が、母のぼーっとした顔を見て、「こんなところにいないで早く店を開けなさい」と怒るのを見て、母と祖母の部屋を別の階にしてもらった。
M.K.さんは、母を避けていた間に病気が進んでしまったのかもしれない。もっと母と向き合っていればと後悔している。それとともに、お店の人や警察、人を裁く立場にある人たち、社会の多くの人に前頭側頭型認知症のことを知ってもらいたい。そうすることで、母のような思いをする人や心を痛める家族が少しでも減ることを願っている。
*大脳皮質基底核変性症:難病支援センター「大脳皮質基底核変性症」の項を参照
M.K.さんが最初に母親の言動に異変を感じたのは、2011年の東日本大震災時の時だった。当時58歳の母に「大丈夫?」と電話をすると、「かわいいぬいぐるみを買ったけれど要る?」と聞かれ、こんな時になんと呑気なと、驚いた。その後、毎日のように職場に訪れたり、着信拒否にしないと仕事ができないほど電話がかかってくるようになり、親と縁を切る方法を真剣にネットで検索した。そんな折、高校時代の友人から、「お母さんの様子がおかしいのでは?」という連絡を受け、初めて母親の病気を疑うようになった。認知症の電話相談で、“つきまとい”や温和で優しかった母が祖母に手を上げるなど“性格の変化”を伝えると、ピック病(前頭側頭型認知症の1つ)かもしれないと告げられた。母親に受診しようと促すと、尋常ではない怒り方をされ、最後にはハサミを向けられた。病院からは、敷地内に入ってくれれば職員が対処すると言われたものの、そこまで母を連れていくことができなかった。
郷里の叔母と母を受診させる相談をしていた矢先、母がコンビニエンスストアで万引きをして、警察に保護されるという事件が起こった。初犯ではなかったため、店員による通報で120円のパンを万引きした現行犯として逮捕された。自宅では、母が無断で取ってきたと思われるトイレットペーパーや靴や衣服が大量に見つかった。
裁判に当たって、認知症の可能性があるので一旦病院を受診させてほしいと申し入れたり、医師の所見を提出したりしたが、62歳の若さで、見た目も認知症には見えないので、言い逃れのための方便としか思われず、起訴に至った。母はずっと「お母さん、何も悪いことしてないのに…」と言い続けていた。証拠の映像もあり、盗んだことには間違いないが、病気でそういう行動を取ってしまったのに、証拠があるのに罪を認めないのは許せないとして起訴され、裁判に至った。遊びに時間を使うこともなくずっと働き詰めの人生で、「死ぬまで美容師をやるんだ」と言ってた母が、名前で呼ばれず、番号で呼ばれている姿を見ると、M.K.さんは涙を抑え切れなかった。国選弁護士から、「一日も早く拘留から解放されるには、罪を認めて罰金を払うしかない」と提案を受け、母は子供が教わるように、罪を認めるための受け答えの練習を弁護士とした。その時は、前科のことなど考えるゆとりもなかったが、やはり理不尽な思いが残る。その一方で、美容院でお客様に怪我をさせたり、車で人身事故を起こしたりしていたらと考えると、万引きで捕まってよかったとも思う。
出所後は、普通の状態ではない母の姿を近所の人に見せたくない思いで、すぐに精神科のある病院に入院させた。そこで、前頭側頭型の認知症で大脳皮質基底核変性症*の疑いがあると診断を受けた。画像診断では脳が委縮して小さくなってしまっており、お母さんの頭の中って空っぽなの?とビックリした。入院中は攻撃的で落ち着きなく動き回るし、目に入ったものを勝手に部屋に持ち帰ったりしていたので、1年で病院から有料老人ホームに移った。その後、要介護3と認定され、特別養護老人ホームに入れるようになった。
実家に残った祖母は、最低限自分のことはできていたが、2019年の夏、脳梗塞で倒れて認知症が進んで、母と同じ老人ホームに入居することになった。一度母と祖母を会わせたが、まだ母よりは少ししっかりしている祖母が、母のぼーっとした顔を見て、「こんなところにいないで早く店を開けなさい」と怒るのを見て、母と祖母の部屋を別の階にしてもらった。
M.K.さんは、母を避けていた間に病気が進んでしまったのかもしれない。もっと母と向き合っていればと後悔している。それとともに、お店の人や警察、人を裁く立場にある人たち、社会の多くの人に前頭側頭型認知症のことを知ってもらいたい。そうすることで、母のような思いをする人や心を痛める家族が少しでも減ることを願っている。
*大脳皮質基底核変性症:難病支援センター「大脳皮質基底核変性症」の項を参照
インタビュー家族42
- ピック病を疑うも、母の激しい抵抗に遭い受診させることができなかった。その直後、母は万引で警察に保護され、起訴・裁判にかけられることになった
- 結構大きな冷蔵庫にチョコレート、大福やケーキ類がたくさん入っていた。明らかに食の好みが変わっていたようだ
- 母はコンビニで120円のパンを万引きして現行犯として保護された。裁判所に、診断書を提出して診察を受けさせてほしいと願い出ても、門前払いされた
- 温和で優しい母が祖母に手をあげたので、調べてみたら、人格がガラッと変わる、攻撃的になるということで、ピック病にいきあたった
- 母が毎日職場に来たり、1日に何回も電話してきたりで、親と縁を切る方法をネットで探した。あの時、逃げずにちゃんと向き合っていればよかった
- 東日本大震災の際に、母に「大丈夫と?」と電話をしたら、「かわいい人形を買ったけれど要る?」と返事をされて、「今、なぜその話?」と不思議に思った