インタビュー時:67歳(2020年8月)
関係:妻(夫を介護)
診断時:夫61歳、妻57歳
公務員の夫は配置転換後から辞職を口にし、妻との合意もないまま、半年の休職後に54歳で退職。その後も無為に過ごす夫にストレスを覚えた妻は訪問ヘルパーの仕事を始め、互いに干渉しない生活の自由を一時は楽しんだ時期もあった。しかし、夫の動作や発言に異常を感じ、大腸憩室炎で入院時(61歳)に全身の検査を勧めてもらい、前頭側頭型認知症と診断された。娘と二人三脚の在宅介護で穏やかに過ごしたが、7年後に夫は歯磨き中に倒れ、寝たきりとなり入退院を2回繰り返し、心機能低下により69歳で逝去。自宅で看取った。
プロフィール詳細
M.B.さん夫妻は関東圏在住、娘と息子は別所帯。夫は公務員で、怒りだすと食器を投げつけるような気性の激しさがあった。夫が54歳の時、職場の配置転換後から辞職を口にするようになった。M.B.さんは関西の大学に通う息子の卒業までは無理と意見したが、夫は実母の忌引き休暇中にそのまま仕事に行かなくなってしまった。半年の休職期間中も、全く話し合いに応じず、毎日ダラダラと過ごす夫の姿にストレスが募り、お互い干渉しない生活を提案すると夫はあっさりと了承した。M.B.さんは資格を生かして訪問ヘルパーの仕事を始め、合間に旅行やスポーツなど結婚以来味わったことない自由な日々を楽しんだ。
夫は自分で毎朝ウィンナーと玉子焼を作って食べ続け、決まった時間にパチンコに出かけ昼の食材を買って帰宅する生活を繰り返した。当初はパチンコで勝った玉を調味料に替えていたが、途中からすべてミニカーに交換するようになった。孫のために取ってきたのかと思って箱にしまうと、「俺の車をどこに隠した」と怒り出したこともあった。上手だった運転も車をぶつけたりするようになり、座位から立ち上がるにもテーブルを引く反動を使わないと立ち上がれず、歩き姿も背中を丸めて歩幅もチョコチョコと年寄りのようになっていた。心配事が増える中、61歳で大腸憩室炎で入院した際に、治療拒否や徘徊がみられたため、医師に「これを機に全身の検査をしましょう」と説得してもらい、退院後すぐに脳の検査を受けた。認知症専門医からは、「前頭側頭型認知症で、3年後には今の状態ではいられない」と、介護認定を受けるように勧められた。
会話も計算も普通にできていたので、脳の病気と気づかず、我がまま勝手者と決めつけていたことを申し訳なく思い、在宅介護を決めた。仕事を続けていたM.B.さんは、子供がまだ小さく勤めに出ずにいた娘に「家での待機も仕事の内だから、お母さんのお給料を半分受け取って」と懇願し、介護に協力してもらった。病気は隠さず近所の人や友人に事情を説明し、夫が外食する店にも「お金を払わないことがあれば連絡して欲しい」と伝えるなど、みんなの力を借りることにした。
寄り添うことで本人が穏やかであれば、自分も楽だということが分かってきた。せめて好きなものを食べさせてあげようと毎日同じ中華料理店に通ううちに、3年で10kg近く体重が増え、定期健診で糖尿病と診断された。夫を説得して家での食事に切り替え、半年で7kgの減量に成功し糖尿病は改善した。要介護1から3へと移行したものの、穏やかに7年が経過した。このまま穏やかな日が続いていくと思っていたある日、いつもより食べる速度が遅いことに気づくと、体幹が傾き始め、歯磨き中に崩れるように倒れてしまった。翌日病院の検査で、側頭葉の著しい萎縮を指摘され、ほどなく言葉も声も失い寝たきり状態になり、意思疎通は手をギュッと握り返してもらうことでしか取れなくなり、一気に介護5になった。
ひと月後、夫は高熱を出し、自分ひとりでは病院に連れていくこともできずに、以前に腸で入院した病院に相談しに行くと、「そんな時には救急車」だと言われ、さらに今後は脳も腸も一緒に診てくれる総合病院の地域連携室に連絡するようにアドバイスを得た。その後、夫は再び熱を出し、その総合病院に救急搬送してもらった。胃瘻の希望を聞かれたが、夫婦で決めた「口から食べられなくなったら、延命措置はしない」という方針を子供達も尊重してくれた。ヘルパーとしてグループホームでの仕事を通して認知症の人の身体介護や食べる力に合わせた介護食の作り方を身につけていたM.B.さんは在宅介護を継続し、夫は退院4日後の訪問診療時には医師が驚くほどに回復した。月2回の訪問診療、訪問入浴を利用しながら介護を続け、数ヶ月後、夏の暑い盛りに突然の意識障害で再び救急搬送されたものの、今回は看取りの話し合いにも参加し、週2回の訪問診療に訪問看護も加え万全の体制を整えて自宅に戻り、再び奇跡の回復を遂げた。11月に入って、心臓の数値が悪化し心停止が何時起きてもおかしくないと言われ、1週間後には徐々に食べられなくなり、家族全員に囲まれて過ごした翌朝、夫は69歳で眠るように最期を迎えた。
夫は自分で毎朝ウィンナーと玉子焼を作って食べ続け、決まった時間にパチンコに出かけ昼の食材を買って帰宅する生活を繰り返した。当初はパチンコで勝った玉を調味料に替えていたが、途中からすべてミニカーに交換するようになった。孫のために取ってきたのかと思って箱にしまうと、「俺の車をどこに隠した」と怒り出したこともあった。上手だった運転も車をぶつけたりするようになり、座位から立ち上がるにもテーブルを引く反動を使わないと立ち上がれず、歩き姿も背中を丸めて歩幅もチョコチョコと年寄りのようになっていた。心配事が増える中、61歳で大腸憩室炎で入院した際に、治療拒否や徘徊がみられたため、医師に「これを機に全身の検査をしましょう」と説得してもらい、退院後すぐに脳の検査を受けた。認知症専門医からは、「前頭側頭型認知症で、3年後には今の状態ではいられない」と、介護認定を受けるように勧められた。
会話も計算も普通にできていたので、脳の病気と気づかず、我がまま勝手者と決めつけていたことを申し訳なく思い、在宅介護を決めた。仕事を続けていたM.B.さんは、子供がまだ小さく勤めに出ずにいた娘に「家での待機も仕事の内だから、お母さんのお給料を半分受け取って」と懇願し、介護に協力してもらった。病気は隠さず近所の人や友人に事情を説明し、夫が外食する店にも「お金を払わないことがあれば連絡して欲しい」と伝えるなど、みんなの力を借りることにした。
寄り添うことで本人が穏やかであれば、自分も楽だということが分かってきた。せめて好きなものを食べさせてあげようと毎日同じ中華料理店に通ううちに、3年で10kg近く体重が増え、定期健診で糖尿病と診断された。夫を説得して家での食事に切り替え、半年で7kgの減量に成功し糖尿病は改善した。要介護1から3へと移行したものの、穏やかに7年が経過した。このまま穏やかな日が続いていくと思っていたある日、いつもより食べる速度が遅いことに気づくと、体幹が傾き始め、歯磨き中に崩れるように倒れてしまった。翌日病院の検査で、側頭葉の著しい萎縮を指摘され、ほどなく言葉も声も失い寝たきり状態になり、意思疎通は手をギュッと握り返してもらうことでしか取れなくなり、一気に介護5になった。
ひと月後、夫は高熱を出し、自分ひとりでは病院に連れていくこともできずに、以前に腸で入院した病院に相談しに行くと、「そんな時には救急車」だと言われ、さらに今後は脳も腸も一緒に診てくれる総合病院の地域連携室に連絡するようにアドバイスを得た。その後、夫は再び熱を出し、その総合病院に救急搬送してもらった。胃瘻の希望を聞かれたが、夫婦で決めた「口から食べられなくなったら、延命措置はしない」という方針を子供達も尊重してくれた。ヘルパーとしてグループホームでの仕事を通して認知症の人の身体介護や食べる力に合わせた介護食の作り方を身につけていたM.B.さんは在宅介護を継続し、夫は退院4日後の訪問診療時には医師が驚くほどに回復した。月2回の訪問診療、訪問入浴を利用しながら介護を続け、数ヶ月後、夏の暑い盛りに突然の意識障害で再び救急搬送されたものの、今回は看取りの話し合いにも参加し、週2回の訪問診療に訪問看護も加え万全の体制を整えて自宅に戻り、再び奇跡の回復を遂げた。11月に入って、心臓の数値が悪化し心停止が何時起きてもおかしくないと言われ、1週間後には徐々に食べられなくなり、家族全員に囲まれて過ごした翌朝、夫は69歳で眠るように最期を迎えた。
インタビュー家族49
- 夫は座っているとき、立ち上がるのにテーブルを引いてその反動を使わないと立ち上がれず、前こごみでおじいさんのように歩くようになっていた
- 腸の持病で入院中に、「院内を徘徊して困る」と夜中に呼び出された。点滴の棒につかまりながら、「俺は何でこんなところにいるんだ」と、言い出す夫はやっぱりおかしい
- 寝たきりになった夫が高熱を出したため腸の病院に相談に行くと、「そんな時には救急車」だと言われ、総合病院の地域連携室を紹介してくれた
- 近くに越してきた娘の家への行き方を教えたら、道の名前は分かるが、どう行くのかが分からないと言う。行く気がないから分からないのだと思ったが、それが病気だった
- 介護のために家の改築を考えた時に、「僕の退職金をお前が全部使うのか」と、夫が言い出したので、建替えに踏み切った。新しい家でも夫がトイレに迷うことはなかった
- タバコをやめさせるため、薬を使ったら寝たきりになったが、火事を出されたら困るので全介護を覚悟で禁煙を優先した
- 子供がまだ小さく勤めに出ずにいた娘に「家での待機も仕事の内だから、お母さんのお給料を半分受け取って」と懇願し、介護に協力してもらった
- 同じ認知症でもアルツハイマーの家族会だと自分にはメリットがない。同じ病気の家族と話すことで共感と安らぎを感じた
- 夫は54歳で息子が大学在籍中に会社を勝手に辞めてしまった。話し合いにも応じずに、以来互いに干渉しない生活が始まった
- 夫は、毎朝、卵焼きとウインナーを食べて、9時45分に家を出てパチンコに出かけ、昼の食材を買って12時15分に帰宅する生活を繰り返した