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診断時:51歳
インタビュー時年齢:56歳(2016年7月)
2006年頃から計算ができない、字が書けない、靴下を丸められない等が気になり、受診。うつと診断されたが、年賀状の字を見た友人に勧められ、神経内科を受診。2011年アルツハイマー型認知症と診断された。診断時は公務員(調理関係)で息子・娘と同居。2014年より休職中。インタビュー時、息子は独立、娘は留学中で1人暮らし。平日はデイサービス、訪問リハビリ、ヘルパー等を利用し、週末は当事者の交流会、友人との会食を楽しんでいる。
語りの内容
あの、丹野(智文)さんは、うーんと、テレビでわたし「ガイヤの夜明け」で1回見ていたんですけど。ああ、こんな人がいるんだって、そんときは、その、そういう感じで見ていたんですけど。その人が、その、こっちのほうに来るっていうふうに知ったんで、「え、行く、行く、絶対行く」とかって言って。で、それで、あの、1人で電車に乗って行ったんですね。
で、そしたら、えーと、乗って、その、出発を待っていたら、何か、4人ぐらい、だっだっだっだっと、団体さんが来て、あの「セーフ!」っていう感じで乗って来た人たちがいて。それで、ふっと見たら丹野さんが乗っていたんですよ。わたし、びっくりして。絶対、これ丹野さんだと、絶対丹野さんだと思って、こう、自分で1人で思いながら、ちらちらちらちらちらっと見ながら、間違いかな、でも、そうだろうな、あ、でも、オレンジの(リストバンド)しているから、丹野さんじゃないかなとかって、ずっとこうやって、こう、ちらちらちらちらってしていたんですけど。そしたら、駅、駅違う、あの、1個来たときに、その1人の人が、丹野さんの隣ぐらいに座っていた人がどいたんですよ、降りるために。そこで、わたしは、するするすると丹野さんのところに行って「丹野さんですか?」って声をかけて。で、ほっていう感じだったんですけど。ああ、「わたし、今から、丹野さんの講演を聞きに行こうと思ってて、わたしも若年性認知症なんです」とかって、そういう話をして、で、その講演会場に行くまでずっとお話していて。すごい、もう、嬉しくて、いろんな話を聞けて。で、それで、講演会のほうに行って、で、楽屋のほうにも行かしてもらえて。で、また、そこでも、お話、で、初めてだったんですね、その、講演会に行くっていうのが、認知症の。そこで、丹野さんのお話を聞いて、もう、涙、涙。もう、すごく、うわー、同じ考えの人がいるって、同じ思いをした人がいるって、ほんとに、もう、それが、もう、ほんとに、もう、嬉しかったですね。
ほんとに、今まで、何か、うじうじうじうじしていた自分が、もう、そのときに、ほんとに、こんなうじうじしていちゃ駄目だって、何かやらなくちゃって、自分がやれることがあるんだから、何かやらなくちゃって。うーん、そう思いながら、あの、とにかく、そこから出かけれるときは、もう、どんどんどんどん出かけようって。で、いろんな人と話もしょうって。そう思いながら。で、ね、その、認知症の人たちは、みんな、そうだと思うんですけど、やっぱり、あのー、すごい、ね、大変な思いをしたりとか、そういう…ことがあるから、ね、ほかの、ほかに認知症になった人が、また、そういう思いをしないように、あのー、みんなが、あのー、理解してもらえるようにっていう、そのための、何か、わたしも、そういうことで声をあげることによって、悲しむ人が1人でもいなくなればいいなと思って、どんどん、あのー、そういう人たちが増えるような活動もしてきたいなと。そういうことがやりたいなっていうのがちょっとずつそんな気持ちが出てきたりとかして。
インタビュー本人16
- 以前はデイサービスの送迎車や捨てた薬の包装から認知症だと知られるのが恥ずかしいと思っていたが、今は人に助けてもらいたければ「言ったほうが勝ちだ」と思う
- 単純な作業をしてヘルパーに「上手にできましたね」といわれたときはショックで、担当を替えてもらった。人に助けてもらってばかりの自分の存在価値があるのか悩んでしまった
- 家族の交流会では当事者の女性は自分だけだったので、しばらく遠ざかっていた。2年ほどして行ってみると同年代の女性の当事者が来ていて、意気投合していろいろな話をした
- 丹野さん(本文参照)の講演会を聞いて自分と同じ思いをした人がいることに感動。自分でも認知症になって悲しい思いをする人を一人でもなくすために何かやりたいと思うようになった
- 計算を間違える、字がうまく書けない、ビールをコップに注げないなど、やりにくいことが増え、最初は年のせいと思っていたが、あまりにひどいので受診したらうつと言われた
- 年賀状の字がおかしいことに気づいた友人に受診を勧められ、アルツハイマー型認知症と診断された。振り返ると10年前から症状が出始めていたが、認知症とは思わなかった
- もしかしてと思いながらも違ってほしいと願っていたが、認知症と診断がついた。渡辺謙の映画で見たぐらいの印象しかなくて、ああなってしまうと思い悲しくて娘と泣いた
- レジ袋に商品を入れるのも、財布からお金を出し入れするのも苦手で時間がかかってしまう。困ったときはお店の人にSOSを出して手伝ってもらうようにしている
- できないことがあると病気の進行かと思うが、先のことを考えてもしようがない。きっと誰かが助けてくれるから不安はない。不安があったときそこにつけいられて詐欺にあった
- アリセプトとメマリーを飲んでいるが、飲み始めてから夢をよく見るようになったくらいで、効果を感じることはない。それでも「飲んだら治る」と思いながら飲んでいる
- 娘が頼んだことをやってくれないのは母親の病気を受け入れられずに苦しんでいたからだった。元気に外に出掛けていく姿を見せることが娘にとってもいいことではないかと思う
- 友達が息子に「母ちゃんのこと頼むよ」といったとき、後ろ姿で「任せろ」というように手を振ったのが忘れられない。先のことはわからないので今日一日を一生懸命生きていく
- 紹介状を書いた町医者に検査結果を報告しに行ったら「若年性認知症は5年で廃人になる」と言われた。別の病気でかかっても認知機能を試すような質問をするので行くのをやめた
- 月曜から金曜までほぼ毎日介護サービスを利用している。ヘルパーには家事やお金の計算を手伝ってもらい、訪問リハの作業療法士とは財布からのお金の出し入れを訓練している
- 病気でできなくなったことについて、職場で「努力が足りない」といわれることもあり、悲しかった。少し手助けしてもらえれば仕事を続けることができるので、理解してほしい
- お年寄りが病院のトイレで出口がわからなくて困っていた。自分もしゃれたデザインの蛇口やトイレの鍵に苦労するので、認知症の人に使いやすいトイレを作ってもらいたい