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インタビュー時:67歳(2011年9月)
関係:夫(妻を介護)
診断時:妻62歳、夫63歳
2007年に妻が若年性アルツハイマー型認知症と診断される。妻・長女の3人暮らし。独立した子が別に5人いる。夫はコンビニ経営していたが、妻に認知症の症状が出始め、レジを任すことができなくなり、閉店。認知症全国本人交流会への参加は、妻にとっても夫
にとっても転機になった。現在、妻はガイドヘルパーを利用。自立支援医療を申請したので、医療費負担が減り、助かっている。
語りの内容
その富山の、あの、交流会でね、そらあ元気もらいましたね。あれでね、もう、家内が変わりました…。あのね…(涙)…家内の思いの中で…自分自身がね、戻った。……人に、人には言えないね…そういうことが、3日間の、もう最後になってから…(涙)…自分からね、言えるようになったんですよ。……それからね、やっぱり彼女自身がやっぱり…もう、どなたの前でも、もう、自由にね…しゃべれるようになった。……そやから、彼女自身も、今、いろんなとこへ行って言ってることは…「私は今までね…今までやってることができんようになってるけども、今は…皆さんの前でどんなことでもね、もう言えるようになりました、楽しいです」ということを本人自身が…言ってるんですよね。……そやから、この…交流会で…同じ立場の仲間の中にね、やっぱり……入れた。また、同じ仲間がおるということでね…まあ彼女自身も大きな自信にね、やっぱりつながったということやと。
本人、本人はね、やっぱり、あのー、はっきり言うたことは、やっぱり、あのー、「一般の方の中に入ると、やっぱり、『あ、あの人、ちょっとおかしいんじゃない』とかね、いうことのね、もう視線が分かる」って言うんです。一緒に話とってもね。もう、そういう態度がやっぱり分かると思います、僕も、はっきり言うて、うん。それがね、やっぱり感じるいうこと、今になってはっきり言うてますね、うん。
ところが、交流会行ったら、みんな一緒やから。うん。もう同じことを言うても、ああ、これね、あれはこの病気なんやと、うん、誰も一緒なんやというふうに、みな理解者ばっかしやから、うん。本人ね。あの、ほかの方の本人がおっても、ご家族がおっても、うん、平気で一生懸命聞いてくれるわけ。うん。何回同じこと言ってもね。で、そんなことでやっぱり本人自身がね、やっぱりこう、そういうとこ行くと、もう気楽にしゃべれてる。うん。それ、一般との差がね、やっぱはっきり自分でも、やっぱり感じてるわけ。そういうことですね。
インタビュー家族13
- 音楽療法は歌によって昔の記憶を取り戻して、生活上できなくなっていたことをできるようにする。ピアノの伴奏に合わせて妻が何曲も歌えることに感動して涙がこぼれた
- 「歌があんだけ歌える」というのが本人の自信となり、自分にとってもプラスになっている。音楽療法を始めてから話が長くなり、理解力も出てきたような気がする
- ボランティアに行っていた介護施設の職員から妻が字を書けなくなっていると言われ、家で便箋に書いた文字を見てみたら四角の升の中に収まっていなかった
- 交流会で看取りの話が出るのが嫌だ。妻がまだ元気だというと「うちも何年前まではそうだった」などと言われる。前向きでいたいので、そういう話は聞きたくない
- 富山で3日間にわたって開催された認知症本人の交流会に参加してから妻が変わった。同じ立場の仲間の中に入れたことが大きな自信につながっている
- 認知症は誰もが表に出すのを嫌がる病気だと思う。でも、若い世代でもなる病気だから隠してはいかんと思う。公表を通じて、当事者である妻も自分も元気をもらっている
- 本人を前に「認知症で、もう治らない」と宣告されたが、今は良かったと思える。交流会で、本人に知らせていない家族に多く出会うが、早く話した方がいいと勧めている
- 人前にどんどん連れて出ることが一番大事と思う。情報が入ってくるし、それで自分も変わっていく。隠し事なく話すことで、家の中も明るくなる
- 自立支援医療の手続きをして、さらにもう一度役所に足を運んで(老人医療費助成制度の)医療証をもらうと、精神科以外でも1日の支払いが最大500円ですむので助かる
- まだ60過ぎの妻が認知症で治らないと聞き、ここまで苦労をともにしてきて、これから楽しくやっていきたいと思っていたのにと、とにかく大きなショックを受けた
- こわごわ病院に連れて行ったのに、妻の前でいきなり「認知症や。進行性の病気で治らへん」と言われ、きつかった。病名はともかく治らないというのは、妻を外して、話してほしかった
- 夫婦でコンビニを経営していたが、妻の体調変化をみて、何かあれば後悔してもしきれないと、コンビニを閉めた