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インタビュー時:34歳(2012年7月)
関係:長女(実父を介護)
診断時:実父64歳、長女27歳
1997年父が56歳で脳梗塞となり、退職。 一人娘である長女と両親の3人暮らしで、19歳から生活と介護を支えてきた。しかし、2005年に父がアルツハイマー型認知症と診断され、状態が悪化。母も体調を崩し、長女は介護離職した。経済的にも追い詰められてうつ状態となり、一時は死を考えた。今は週1回のデイサービス、1~2カ月に1回のショートステイを利用しながら在宅介護中。
語りの内容
何だろうな。私が、あの、友達とか知人にしてもらって、ああ、うれしいなって、素直に思えたのが、ていうか、すごく介護してる家族側がネガティブなスパイラルに入ってしまってるときだと、どんなにいい言葉を言ってもらっても、な、何、みたいな感じにやっぱり、素直に受け取れない時期っていうのはあるなってすごく思っていて。で、その中で、あの、そういうふうにまったく思わずに、すーって心に入ってきたのは、あのー、お宅の家の状況は、今、あなたの大変さは正直、私はわからないし、代わってあげられないし、で、かといって、手伝ってあげるっていうのとかも難しいかもしれないけど、でも、あのー、あんたは、彼女が言うには、「あんたはお父さんのことを忘れないようにしているじゃない」っていう話で、「そうだね」っていうことを言ったら、あの、「私があんたを忘れないから、だから、あの、介護してるっていうのが大変な時期とかは、例えば、お互い連絡は全然取らないかもしれないし、私があなたに、私に連絡をしてしまうと、ああ、遊び行きたいのにっていうふうに思って、そこで、自分が遊びたい気持ちと介護の板挟みになっちゃって、苦しめちゃうとよくないから、連絡しない。で、だから、私のほうが落ち着いたときに電話ちょうだい」、っていうふうに言ってくれた子がいて。で、「それまでの間は、連絡もメールもしないけど、私はあなたのこと忘れてないからね」っていうふうに言ってくれたのが、ああっ、すごいうれしいって、やっぱり思いましたね。
で、ああ、そうかと思って。完全に孤立してたって思ってて、で、その、一緒に会うことだったりとか、そういうのが、あの、友達のつながりだって私は思ってたんですけど、あ、そうじゃないんだなって、すごく思っていて。で、だから、あのー、彼女は今でもたまーにしか、本当にやっぱり連絡はしないんですけど、たまにこう、「もしもし」って電話をすると、「あ、何、今、落ち着いてんの」「どっか、ごはん食べ行く」ってすぐポンって言ってくれるので。あの、孤立してるって自分たちがわかってる中で、それをわかった上で、でも、あの、押しつけがましくなく、手伝えないけど、ちゃんと覚えてるからね、で、存在は忘れてないからねっていうのを、口に出して言ってもらうことって、たぶん、そうそうないと思うんですよ。それを言ってくれたのが、すごくうれしかったですね。
だから、今、私も同じような立場にいる方とかに、やっぱりそういうふうに言われてうれしかったので、それは伝えてますね。で、地方に住んでる方とかだったら、それこそ本当にやっぱり、滅多に会うことはできないですけど、ま、でも、空つながってるし。で、あの、「忘れてないからね」っていうの、やっぱり私も同じことを言ってもらってうれしかったから、また言ってあげると、やっぱり、その、向こうの人たちも、あ、何かどうせ忘れられちゃってると思ってたんだけど、違うんだっていうふうに、何かちょっと安心してくれる、っていうのがあるみたいなので。
あ、少なくとも、私のやっぱり近しいところで介護心中があったっていうのと、プラス私がもう、その、言ってみたら、あの、当事者になり得てたっていうことがあるので、もう極力、あのー、そういう孤立した人たちっていうのは、やっぱりなくしていきたいなと思いますしね。
インタビュー家族30
- 父がつけていた日記に、頭の中にもう1人違う人がいる気がすると書かれていた。昭和世代の人なので不安を表に出すことはできなかったのだろう
- 母は父の健康管理について自責の念を抱いていたので、認知症かもしれないと思ってもそれを認めたがらず、専門医にかかるよう勧めても中々行こうとしなかった
- 近くの脳神経外科で長谷川式の検査を受けることになったが、防衛本能からか父は「そんなくだらない質問をするな」と怒り出し、部屋を出てしまった
- 父が家じゅうに虫がいると言ったり、見えない敵に杖で殴りかかったりするのを見て、脳神経外科を受診する決心がつき、アルツハイマー型認知症と診断された
- 厳格だった父は娘の前ではいいところを見せようとしてかえって混乱するので、父の視界に入らないようにして見守りタイミングよく手伝うようにしていた
- いつも「三角食べ」をしていた父がごはんだけ先に食べてしまったり、おやつのバナナをひと山全部食べてしまったりするのは、何かおかしいと思っていた
- 踏むと音が出るセンサーマットを区から貸してもらって、二重に置いてまたぎ越せないようにした。GPSも外してしまうので、必ずかぶる帽子の中に仕込んでおいた
- まともに父と会話できた時の話をメモしておき、数日後でも調子がよい時にその話をすると話がつながっていくのに気づいた
- 「あなたがお父さんのことを忘れないように私もあなたを忘れない、いつでも電話して」という友人の言葉がとても響いた。自分も同じ立場の人にはその言葉を伝えている
- 私がうつ状態になっていることに気づいてくれた人が、脳梗塞の父にしているリハビリについて話す場を作ってくれた。それがすごく助かった
- 出会いは家族会やインターネットと色々だが、同じ問題に直面してる家族介護者同士、共感しあっておのおのが心のバランスを取っているように思う
- アルツハイマーという診断を伝えようとすると、父は「自分も家族も分からなくなる病気なら自分で死ぬ」と首をくくろうとした。「私たちは忘れない」と話すと落ち着いた
- 父を在宅で看るために介護離職したが、両親は年金を前倒しでもらっていたので2人で12万円しかないところに、保険適用分を超えた介護費用が10万円を超え、生活できなくなった
- 母も倒れてしまったので、父も母も看ることになった。父の徘徊が頻繁になり、ケアマネージャーも娘が看ることを前提に話すので、介護離職せざるを得なかった
- 父が倒れて、内定をもらっていた百貨店への就職をあきらめ、手っ取り早く稼げる仕事に就いた。不動産業はノルマが厳しいが収入がいいので選んだ
- 認知症の父は元気で当分お迎えは来ないと思いつめ、ガス栓をひねった。犬が吠えたので我に返って慌てて止め、母と共に一晩わあわあ泣いて新たな覚悟ができた
- 唾液が気管に入ってむせたら、口から泡を吹き、もうダメだと思ったが、少しして深い呼吸をし、血の気が戻ったように感じた。救急車を呼んだらてんかん発作だと言われた
- そろそろ胃ろうを考える時期にきている。長生きはしてもらいたいが、旅立つときは自然に送ってあげたい。調整は難しいだろうが、できれば家族3人揃ったところで見送りたい
- 離職するまではバランスが取れていたが、1年ぐらいすると外と接触がなくなり孤立感を感じて眠れなくなった。昼夜逆転して食欲もなくなり、手を洗いたくてしょうがなくなった