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インタビュー時:62歳(2012年9月)
関係:長女(実父母を介護)
診断時:父81歳、母80歳で診断されたのは長女52~54歳の頃
2002年に2世帯同居の実父が脳血管性認知症の診断を受け、2年後にレビー小体型認知症と判明。同じ頃、実母もアルツハイマー型認知症の診断を受けて、しばらくひとりで2人の介護をしていたが、父の脳梗塞をきっかけに母は有料老人ホームに入所。2006年秋、父は肺炎で入院中し、そのまま帰らぬ人となった。その後、母に腎臓がんが見つかったが、本人の意思もあって手術はせず、2011年秋に自宅に引き取り、亡くなるまでの3カ月間、在宅で看取った。
語りの内容
―― 先ほど、その、外へ出ていっちゃうっていう話をされてましたけど、ちょっと、ちょっと本当に体験したことがない人間からすると、本当、想像があまりつかないのは、その、どのぐらいの頻度でそういうことが起こるのか。
毎日(笑)。
―― 本当に毎日なんですか。
毎日です。
―― はあ。
で、それが治まったのは、今言った、その施設、あの小さい、デイサービスの小さい規模のところに行くようになったら治まっちゃったんです、突然。で、なぜかなと思ったけど、結局、自分の存在価値っていうのがはっきりして、これは認知症すべてに言えるのかもしれないですけども、認知症対応にね。その、10人あまりのグループ、ほとんど毎日8人ぐらいって伺ってましたけど、8人ぐらいのグループなんですけど、顔なじみが8人そこに揃ってお話をして、それから顔見知りの職員がいて、で、一対一のコミュニケーションが、朝の10時から夕方4時までね、できるっていうことで、その、父がそこに多分、存在価値っていうか、自分が今生きてる状況っていうのを、そこで確認したんじゃないかなって、後から感じたんですね。で、そうすると、父がそこにいて、何々さんという人間としてそこできちっと一日過ごせて。で、家に帰ってくると、家族はもう、あの何だ、言わなくても当たり前の存在、空気のような存在だから、今度、父は多分、混乱が始まるのかなという気もしたんですね。何かまだ自分、夜寝てからも、自分がしなきゃいけないことが何かあったんじゃないかとか、そういう何かいろんなこと考えてたような気が、今思うとそう思うんですね。
で、その、デイサービスに行ってる間は、対する人間が何人かいて、こう、コミュニケーションがあって、自分の存在がしっかりはっきり分かって。で、どこに行ってるっていうのも父の場合は分かってるので、で、迎えに来てくれる誰それさんっていうのもきちっと分かってて。帰りも、その、何々君とさようならして、そこの、一日、自分の仕事が終わるみたいな。ところが、帰ってきて、いざ、また環境が自分の家になって、自分の家ではあるんだけど、いや、何かし忘れたことがある、みたいな、何か毎日そんな感じでした。うちの場合はね。これはまた本当、皆さん、うちと違うと思うんです。だけど、何かし忘れたことがあるみたいな感じで、外に毎日出てく。だけど、そのデイサービスに行ったら、その時間は、その、混乱する時間はだんだん減ってきて、で、最終的には全然外行かないでも済むようになっちゃった。何か気が付いたらもう全然行かなくなった。
インタビュー家族34
- 父が真夜中に外に出ていくことが何度か続いておかしいとは思ったが、記憶力や判断力に何の問題もなかったので、認知症になるとは思ってもいなかった
- 父が脳血管性認知症という診断で2年間通った病院では5分診療で空しく感じていた。ケアマネージャー(ケアマネ)に紹介された開業医に行ってみたら、レビー小体型だとすぐにわかった
- レビー小体型認知症に抗認知症薬は劇的に効くが、次第に副作用が出て、飲み続けられなくなることが多い。家族会では薬の分量を微調節して穏やかな日々が送れているという話を聞く
- 幻視を抑えるために出されたグラマリールを飲んだ途端に動けなくなり、口からよだれを垂らして廃人のようになった。ネットで調べたら同様の症状の人がいた
- レビー小体型認知症にはアリセプトがよく効くが、パーキンソン症状を抑えるための薬も飲む必要があり、そのバランスが難しい。父は薬剤過敏だったので、ほとんど薬は飲めなかった
- レビー小体型認知症の父は最後まで理解力があって「自己」がしっかりしていたが、アルツハイマー型認知症の母は「本来の母」が消えてしまったようだった
- 父が「会社の部下たちが来ている」と言って、誰もいない部屋でテレビに向かって椅子を人数分並べてニコニコしていたのを見て、息が止まりそうになった
- 解剖してみなければ本当の病名はわからない中で、医師は診断名をつけている。それでも特定のタイプに特化した家族会があるのは病気によってケアの仕方が違うから
- 失禁で汚れてしまったシーツと布団を、父が浴槽に入れていたのを見つけてイライラしたが、あとから思うと父は父なりに解決しようとしてやったことなのだろう
- 夜中に階下で物音がして見に行くと、レビー小体型認知症の父が、アルツハイマー型認知症の母を車いすに乗せ、真っ暗な室内をぐるぐる回っていて、どうしたらいいかわからなかった
- 介護の言葉では「徘徊」というが、父が夜中に出かけていくのには、せん妄状態(※)で見えている家の前の行列について警察に相談しに行くといった、はっきりした理由がある
- レビー小体型認知症の父はせん妄状態で元気よく歩きだすが、我に返った瞬間に脱力してドサッと倒れてしまうので、誰かがついていないと危ない
- 父の徘徊はデイサービスに行くようになったら突然治まった。おそらくその場に家では見つからない自分の存在価値を見出せたのではないか
- レビー小体型認知症の人は、いきなり後ろから声をかけられると驚いて抵抗することがある。それが施設では「不穏」とされてしまうが、正しい対応をすれば問題はないはずだ
- 父がある日突然、娘である自分に向かって「あなたは副社長だ」「娘は嫁に行ったはずだ」と言い出した。20分ほどの出来事だったが、私がショックで寝込んでしまった
- 父のお気に入りの椅子に誰かが座っていて気持ち悪いからどうにかしてくれ、といわれたので、塩を置いてお浄めをすると翌朝「現れなかった、よかった」と言っていた
- 脳梗塞のあとは父の幻視やせん妄も規模が小さく可愛くなって、自分も慣れて来たので父と一緒に幻視を楽しめるようになった
- 両親2人の介護に限界を感じていたとき、主治医から、レビー小体型の父のほうが繊細なケアが必要だから母を施設に預けるように言われた。決断して踏み出すまでが勇気が要った
- 母は施設に入れられることを嫌がり「鬼娘」とののしったが、また帰ってこられるからと言ったら納得して行ってくれた。ホームでケアを受けるようになると落ち着いて、穏やかになった
- 親子3人でタッグを組んで頑張ろうと認知症の両親の介護にのめり込んだ。夫や子どもたちは両親の変化を自然に受けとめ、きりきりしていた私とバランスが取れていたと思う
- レビー小体型認知症の家族会のニューズレターでは、今後は積極的に医師に働きかけていくことにした。家族目線で医者の気持ちを引っ張り出したい
- 仲のいい夫婦で父を尊敬していた母は、父のことを「ぼけちゃった」と悔しがっていた。亡くなってからわかったが、母なりに認知症を勉強し、いろいろ考えていたようだ
- 父がレビー小体型認知症だと診断され、医師に気をつけることを教えてもらい、2年間のもやもやが晴れて在宅介護を続けることができた。父も原因がわかって嬉しかったと思う
- 失神して救急搬送された際に胃ろうにするかどうかの選択を迫られた。主治医の助言で父の意思を確認したら、まだ頑張りたいから胃ろうをつけると言った
- 母に腎臓がんがみつかり、手術をするかどうか悩んだ。本人に聞いてみたらその日はクリアで「一日考えさせてくれ」といい、翌日も覚えていて手術はしないとはっきり言った
- 肺炎になってしまい、父も病院に行こうというので、連れていったらそのまま入院となり1カ月後に亡くなった。最後まで治そうと頑張った姿はこれまでの父の生き方が出ていた