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インタビュー時:65歳(2011年3月)
関係:長女(実母を介護)
診断時:実母75歳、長女51歳
1998年に実母がアルツハイマー型認知症と診断される。長女はもともと実母・息子と3人暮らし(実父死亡、夫と離婚)だったが、息子の独立を機に、自営の仕事をするために母と離れ、遠方で独り暮らしをしていた。母が診断されてから遠距離介護を2年したが、身体がもたず母親を呼び寄せて同居する。その4年後にはグループホームへ入所、一時退所させて同居、現在は介護老人保健施設を利用。
語りの内容
次は父のことで、警察官だったんですけども。警察官はね、給料が安くてって。もうその話の繰り返し、繰り返しで。で、わたしは最初はね、何か父も苦労して、仕事してね。あの、それこそ夜も寝ないでっていうかな、そういう終戦直後でしたから、そういうことで、あの、一生懸命やってきて、もう66歳になった途端に亡くなってしまったっていうか、そんな感じだったので。で、その父をけなしてることになりますよね。だから、すごく最初、嫌だったんです。うん。でも、あのまあ、病気だ、だよねって思って、だんだんそういうことに対して、うん、あのー、理解、理解っていうのかな、せざるを得ないですもんね。
で、大丈夫になってっていうことが、いろいろ次々と起きて、うん。その次は、あの、あれなんですね、今度、お父さんとお母さんが元気かっていうことにすごく関心持って。で、1つ1つそういうことを言わなくなって、うん。で、父のことに、父じゃないや、あの、わたしの父ね、のことに関しては、あの、亡くなった後ね、何回忌とかいうのがあって、「一緒に行こう」って言ったんですけども、何か…そういうのね、あの、「法事に行ったらお金かかるから、あんた1人で行っといで」いう感じで。で、「だって、あの、喪主はお母さんだよ」って言っても、「知らないよ、そんな、近くに行ったから、ご飯作ってあげただけ」とかね、父の(笑)。ええっ?!みたいな(笑)。だんだんそういう感じになって、忘れてってるんですよね。うん。そういうのはちょっと悲しいなと思いましたけど。
インタビュー家族11
- 自分が旅行に出かけているうちに、母が弟に電話をして、自分が家のお金を全部持って逃げたと言ったことが、決定的な大事件だった
- 精神科にかかっても母の攻撃性が収まらなかったとき、糖鎖のサプリが脳にいいと聞き、取り寄せて毎日飲ませていたが、飲みにくいうえ高いので続かなかった
- においがするものが嫌いな母には向かないと思ったが、植物系のアロマが気に入って、それで気分の浮き沈みが激しかったのが安定した
- 以前は母が警察官だった父の給料が安かったという愚痴を繰り返すのが嫌だったが、次第に父のことも忘れて法事にも行かないと言うようになったのはちょっと悲しい
- 母は娘の家にいても自分のうちと思えないらしく、父のご飯を作らなくちゃと言って出て行ってしまう
- 母はどんどん外に出ていき、疲れて倒れるまで歩く。娘が「帰ろう」と言っても帰らないが、知人がたまたま通りかかったように装って「送ろうか」というと素直に帰る
- アルツハイマー型認知症の母は何をしていてもいつ怒りだすかわからないので、腫れものに触るように過ごした時期が3~4年はあった
- 母がお店でアラ汁が出たときに怒りだしたのは、どうやって食べればいいかわからなくなってしまったからではないかと後から気づいた
- 何度もけがを繰り返し、片時も目を離せない、何をやるかわからない状態になったため、もう限界だと思った。ケアマネージャーに相談し、少しでも母の気に入りそうな施設を探した
- 母がゆったり過ごせる、居心地の良い施設を探した。グループホームはこれまでの生活の延長線上で暮らせることを大切にしていて気に入った。老健施設は病院的で母が嫌がった
- 母が入所したグループホームは薬の飲ませ方や車いす移動に疑問を感じた。拒否するとはいえ検診や入浴等しておらず、老健に相談するといじめかもしれないと言われて移ることにした
- 施設に入る日、これ以上一緒に暮らせないことを説明し、写真を撮ったら、母は決死の覚悟の顔をしていた。施設に入ったら、母は自分から「よろしくお願いします」とあいさつした
- 施設に泊まったのは入所半年で一度だけ。毎日でも泊まれるのかどうかはわからないが、家から遠いので、移り住むということも考えてみたが、仕事もあるので難しい