インタビュー時: 52歳(2021年2月)
関係:母
医療的ケアのある子:長女7歳(2016年逝去)
首都圏在住。夫、長男21歳、次男20歳、義母の5人家族。自営業。
長女は2歳半頃まで元気に育っていたが、3歳で発達障害、睡眠時無呼吸症候群と診断され、マスク型人工呼吸器が必要になった。
その後、感染症で呼吸状態が悪くなり、気管切開、経鼻経管栄養、吸引も必要になった。
5歳で中枢性肺胞低換気症となり、さらに呼吸状態が悪化し7歳の時に亡くなった。
特別支援学校のスクーリングで楽しそうにしていた長女を思い、今は特別支援学校を作る活動を行っている。
プロフィール詳細
自営業で経理等を担当している。
第三子の長女を2016年に7歳で亡くした。
長女は2008年に3200gで生まれ、保育園に入って元気に過ごしていたが、2歳半頃から落ち着きがなくなり、お昼寝中の呼吸音がおかしいと保育園で受診を勧められた。
いくつかの病院で検査を受けたところ、3歳になって、知的発達の遅れはない発達障害、睡眠時無呼吸症候群と診断されて、夜間BiPAP(マスク型人工呼吸器)を装着することになった。
3歳の冬頃に、風邪から肺炎になって呼吸状態が悪くなり、ICU(集中治療室)に2週間入院し、気管内チューブを入れて人工呼吸器をつけた。
その後、回復して退院したものの、保育園は「お昼寝の対応が難しい」と、午前中しか預かってくれなくなり、自営業の仕事をしながら、午後は家で長女を見る生活となった。
それから、長女は繰り返し風邪で呼吸状態が悪くなってICUに入院するようになり、入院中に低酸素脳症となったことで人工呼吸器が外せなくなり、気管切開をした。
医師からは「どこまで回復するかは分からない。治療法がない」と言われたが、子どもだから回復するかもしれないと期待をもってリハビリに励んだ。
当初24時間必要だった人工呼吸器が夜間のみになって一般病棟に移ることができ、徐々につかまり立ちができ、口から食べられるようにまで回復した。
退院前に訪問看護や居宅介護支援など利用できるサービスをすべて整えて、退院することができた。
しかし、人工呼吸器を外した昼間はスピーチバルブを使い始めたが、こちらの言葉は理解しているようだが、泣いたり叫んだりしていた。
その後少しずつ話ができるようになるが、保育園には行けなくなり、療育(児童発達支援事業)に移った。
その後、5歳のときに中枢性肺胞低換気症(中枢神経系の障害により血中の二酸化炭素濃度に応じた呼吸の調整ができない状態)になり、呼吸状態がかなり悪くなった。
治療法がなく、自費で高額な横隔膜ペーシング(横隔膜にペースメーカーを埋め込んで呼吸管理する)手術も受けてみたが効果がなかった。
手術後の入院中に、起きている時も人工呼吸器をつけられるようになったので、少しずつ慣らしていき、小学校入学直前に退院することができた。
しかし、小学1年生の最後の頃に、経管栄養も受けつけなくなり、事故で亡くなった。
長女が亡くなってからの最初の半年は、小さな子どもを見るのもつらかったが、時間が少しずつ解決してくれていることを感じている。
人工呼吸器を使い始めた後の長女は、呼吸状態が悪くならないように、「人工呼吸器をきちんと装着すること」が大切だった。
だが自分で気管切開のカニューレと一緒に人工呼吸器を外したり、動いてしまったりすることがあり、「動く医療的ケア児」であることで、日常的に目が離せない大変さがあった。
2人がかりのケアが必要な時は頼めば家族は助けてくれたが、家事と自営業の経理も担いながら、1人でがんばっている部分が多く、睡眠不足で大変だった。
精神的に追いつめられたこともあったが、長女が動けて見守りが大変という理由で、短期入所などではあずかってもらえず、病院での手術前検査入院の1ヶ月以外は、子どもから離れる時間がほとんどなかった。
この頃は、子どもに関わる人たちとのたわいもない会話が気分転換になっていた。また、好きな漫画やドラマの続きを楽しみにして、生きていた。
また、居住県の特別支援学校が遠方で、距離的に近い隣接する自治体の特別支援学校に長女を通わせたいと希望したが、教育委員会から受け入れられず、居住県の特別支援学校の訪問学級を選択しなければいけなかった。
スクーリングで月一回学校に行くと、他の子どもと会うのが、とても楽しそうであった。
家の近くに通える特別支援学校がなく、楽しく学校に通わせてあげたかったという気持ちが、自分には強く残っている。
そのため、今、居住自治体に特別支援学校をつくる署名活動を行っていて、色々な人と出会えている。
長女を世話していた大変だったころの自分のために、この活動をしているのだなと感じている。
第三子の長女を2016年に7歳で亡くした。
長女は2008年に3200gで生まれ、保育園に入って元気に過ごしていたが、2歳半頃から落ち着きがなくなり、お昼寝中の呼吸音がおかしいと保育園で受診を勧められた。
いくつかの病院で検査を受けたところ、3歳になって、知的発達の遅れはない発達障害、睡眠時無呼吸症候群と診断されて、夜間BiPAP(マスク型人工呼吸器)を装着することになった。
3歳の冬頃に、風邪から肺炎になって呼吸状態が悪くなり、ICU(集中治療室)に2週間入院し、気管内チューブを入れて人工呼吸器をつけた。
その後、回復して退院したものの、保育園は「お昼寝の対応が難しい」と、午前中しか預かってくれなくなり、自営業の仕事をしながら、午後は家で長女を見る生活となった。
それから、長女は繰り返し風邪で呼吸状態が悪くなってICUに入院するようになり、入院中に低酸素脳症となったことで人工呼吸器が外せなくなり、気管切開をした。
医師からは「どこまで回復するかは分からない。治療法がない」と言われたが、子どもだから回復するかもしれないと期待をもってリハビリに励んだ。
当初24時間必要だった人工呼吸器が夜間のみになって一般病棟に移ることができ、徐々につかまり立ちができ、口から食べられるようにまで回復した。
退院前に訪問看護や居宅介護支援など利用できるサービスをすべて整えて、退院することができた。
しかし、人工呼吸器を外した昼間はスピーチバルブを使い始めたが、こちらの言葉は理解しているようだが、泣いたり叫んだりしていた。
その後少しずつ話ができるようになるが、保育園には行けなくなり、療育(児童発達支援事業)に移った。
その後、5歳のときに中枢性肺胞低換気症(中枢神経系の障害により血中の二酸化炭素濃度に応じた呼吸の調整ができない状態)になり、呼吸状態がかなり悪くなった。
治療法がなく、自費で高額な横隔膜ペーシング(横隔膜にペースメーカーを埋め込んで呼吸管理する)手術も受けてみたが効果がなかった。
手術後の入院中に、起きている時も人工呼吸器をつけられるようになったので、少しずつ慣らしていき、小学校入学直前に退院することができた。
しかし、小学1年生の最後の頃に、経管栄養も受けつけなくなり、事故で亡くなった。
長女が亡くなってからの最初の半年は、小さな子どもを見るのもつらかったが、時間が少しずつ解決してくれていることを感じている。
人工呼吸器を使い始めた後の長女は、呼吸状態が悪くならないように、「人工呼吸器をきちんと装着すること」が大切だった。
だが自分で気管切開のカニューレと一緒に人工呼吸器を外したり、動いてしまったりすることがあり、「動く医療的ケア児」であることで、日常的に目が離せない大変さがあった。
2人がかりのケアが必要な時は頼めば家族は助けてくれたが、家事と自営業の経理も担いながら、1人でがんばっている部分が多く、睡眠不足で大変だった。
精神的に追いつめられたこともあったが、長女が動けて見守りが大変という理由で、短期入所などではあずかってもらえず、病院での手術前検査入院の1ヶ月以外は、子どもから離れる時間がほとんどなかった。
この頃は、子どもに関わる人たちとのたわいもない会話が気分転換になっていた。また、好きな漫画やドラマの続きを楽しみにして、生きていた。
また、居住県の特別支援学校が遠方で、距離的に近い隣接する自治体の特別支援学校に長女を通わせたいと希望したが、教育委員会から受け入れられず、居住県の特別支援学校の訪問学級を選択しなければいけなかった。
スクーリングで月一回学校に行くと、他の子どもと会うのが、とても楽しそうであった。
家の近くに通える特別支援学校がなく、楽しく学校に通わせてあげたかったという気持ちが、自分には強く残っている。
そのため、今、居住自治体に特別支援学校をつくる署名活動を行っていて、色々な人と出会えている。
長女を世話していた大変だったころの自分のために、この活動をしているのだなと感じている。
インタビュー14
- 通学にタクシーを利用するしかないが補助の範囲を超えると経済的負担が大きすぎて、訪問教育を選ばざるを得なかった
- 24時間呼吸器が必要になり、学校をどうしたらいいか悩んでいたところ、県の支援学校の先生が病院に通う形で訪問教育が始まった
- 訪問教育でしかできなかった学びや体験ができ先生には感謝しているが、訪問籍では通学の機会は月1回だけで不平等なようにも思う
- 入院中は院内での帳簿つけも気分転換になった。漫画やドラマの続きを楽しみにし、時には友達とテニスをすることもあった
- 亡くなって半年は何もする気になれなかったが、当時、地域に通える特別支援学校を切望していたことを思い出し、現在設置にむけた活動をしている
- 子どもは嚥下ができず、唾液が肺に入り込んでしまう状態で、感染症でICUに入ることを繰り返すうち、人工呼吸器が必要になった