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インタビュー時:54歳(2021年7月)
関係:母
医療的ケアのある子:長男15歳(逝去時)
九州在住。長男を2006年に亡くし現在一人暮らし。元夫とは離婚。
妊娠中に胎児に水頭症の可能性を指摘され自然分娩で出産した。
原因は不明なまま、入退院を繰り返し、口腔鼻腔内吸引、経鼻経管栄養、導尿など医療的ケアが増えていった。
10歳で気管切開と胃ろう、その後人工呼吸器も必要となった。
夫と離婚後は養育費と生活保護を受け生活していた。
長男が亡くなってから看護師を目指し、現在訪問看護師として働く。
語りの内容
向こう(前夫)は家庭があったので、いろいろはもちろん言いませんけれども、(息子の)命に関わってくるようなときには、連絡をしてたんですよ。
そのたびに来てくれてたんですよね、彼は。
最後、亡くなる1週間ぐらいの期間、毎日来てくれて。最後の病名がMDS、異形成骨髄性白血病だったんです。それを彼に伝えて、もうおそらく駄目だろうって、分かってたので。
初めてかもしれないね、夫婦で息子のことを真剣に話したのは。うん。
私は、息子が亡くなることは、ほとんど誰にも言ってなかったので、彼に伝えて、「この子を死なせたくない……私はこの子がいなかったら生きていけないから、死なせたくないから助けて」って言ったら、彼は…「逝くか逝かないかを決めるのは、息子自身が決めるんだ」って…だから、それを見守るしかないって言ったんですよね…。
それから毎日、病院に来てくれて、一応、最後の瞬間も連絡はするっていうふうに決めてたので、来る来ないは彼が決める。
で、連絡をしたら来てくれて…そして、最後に抱いてもらってね……。
亡くなったときも、真ん中に息子がベッドで寝てて、両端に彼と私がいたんですけど、ぼろぼろ男泣きに泣きながらですね…「苦労を掛けてすまなかった」って、私と息子におわびの言葉を言ったんですけど…私は、彼にね、謝らないでほしいって。
決して私は、2人で生きてきたことが不幸ではなかったので、夫婦としては縁がなかったけれども、父親としての、できる限りのことはしてもらったと思うので、謝らなくていいって……。
私が最後にできる(のは)、この子に、母として父親に会わせるっていうんですかね。
会いたいと思っても言えないからですね、息子は。
彼に覚えててほしかったんですよね。
あなたの子どもはこれだけ一生懸命生きて、頑張ってるよって。
彼に記憶としてとどめてほしかった。だからもう感謝しかないですね、彼にはね。
インタビュー27
- 生活保護の申請時に、電子レンジ、冷房、車も所有できないと言われたが、どれも生活には必須で主治医が意見書を書いてくれた
- 息子が亡くなり40歳で看護学校に入学した。学生時代は人生を楽しむ気持ちになれなかったが、働き始めてから楽しめるようになった
- 息子と日本中を旅行した。ディズニーランドのホテルでは使い方が分からないシャワーに四苦八苦したのもいい思い出だ
- 息子の輸液をやめてお別れするときがきた。なかなか決断できない自分に、医師団が自分たちもその決断を背負っていくと言ってくれ決心できた
- 元夫は息子が亡くなるまでの最後の1週間毎日病院に来てくれた。夫婦としては全うしなかったが、父親として精一杯やってくれた
- 息子が生きているときは自分が強くいなければと泣けなかった。亡くなってから信頼できる人に息子の話をすることで心が癒されることに気づいた