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インタビュー時:58歳(2021年10月)
関係:母
医療的ケアのある子:長女29歳
四国在住。実母と娘の3人暮らし。
娘は出産時の回旋異常で重度の脳性麻痺となった。
当初は経鼻チューブから栄養を取っていたが、何度も練習し生後4か月頃から経口摂取が可能になった。
胃食道逆流症もあり口腔・鼻腔吸引、喘息のため吸入は今も必要。
娘は地元の小中学校の特別支援学級に通った。
娘が幼児期から、障がい児者の親の会の活動をしている。
娘が成人したとき、社会人としてどう生きていくかを考えた。
現在、児童館での交流や自分のできることを活かし、社会人として生きる娘を応援している。
語りの内容
当時(1990年代)、重度の娘のような、そのときにはチューブ栄養はしてなかったですけれども、始終、喉がゴロゴロしていたりとか、座位も取れない寝たきりの子で、座位保持型の車椅子に乗って、自分で動くこともできない。
手足を自分の意思で動かして、何かできるわけではない。
そういう重度の心身障害の子どもを、地元で受け入れるっていうことは前例がないことだったので、交流であっても非常に、ハードルは高かったです。
何度も話し合いを進めて、教育委員会の人も交えながら、園長と幼稚園の先生方と、主任の先生方との話し合いを進めました。
当時まだ離婚していなかった夫も、別居中だったんですけれども、家族全員の同意がなかったらというふうなことを園長がおっしゃったので、別居中の夫まで引っ張り出して、話し合いに参加させたこともありました。
そういうふうな中で、じゃあいいですよ、お母さんが付き添うならばいいですよということで、月1回の幼稚園の交流が始まりました。
それが地域の子どもたちとの、まず初めてのいい出会いになったと言えると思います。
そんなふうにしていく中で幼稚園だとお母さんたちが、幼稚園に子どもを迎えに来るわけですね。
で、その時間帯辺りにも一緒にいたいと思ってしてると、だんだん娘のことを、他のお母さんたちも知るようになってきてくれました。
小学校への入学に関しては、一緒の地域に住んでいるんだから行って当たり前だと、お母さんたちが応援してくれるような、そういう流れになってきて。
小学校入学も、地域の人たちの後押し、お母さんたちの後押しがあり、ずっとその交流の様子を、毎回毎回、記録に残して、それを教育委員会に持っていくようなこともしていました。
教育委員会の人たちがその意味を理解してくれて、逆に教育委員会のほうから校長先生に、娘のことを受け入れてくださいと、最終的にはお願いをされたようです。
そういうお願いが来たのでということで、最後まで当時の、小学校の校長は受け入れに対して前向きではなかったんですけれども、教育委員会からお願いの連絡が来たので、娘さんを受け入れますということで。
ただし、保護者の待機が条件ですということで、小学校の入学がかないました。
もう、入学する年の2月のことでした。
インタビュー31
- 私の母は孫のケア、日常の家事も含め一番の応援団だ。祖母として常に愛情深く接してくれ私たち親子にとって心のよりどころだ
- 地元の友達を作りたいという思いで、幼稚園での交流を始めた。他のお母さんたちも応援してくれ普通小学校への入学が実現した
- 高校は特別支援学校かと思っていた矢先、普通学校を受験する選択肢もあると聞き、娘も望んだため、受験を決意した
- 普通高校を3回受験しすべて不合格だったが、定時制高校の校長先生が学校開放の制度を設け、娘が通える環境を作ってくれた
- 毎日親が付き添ったことで他の子たちとの交流が活性化し、プールに入ることも認めてもらえ、得られるものがたくさんあった
- 成人した娘が、児童館で子どもたちと交流する活動を社会貢献事業として認めてもらい、謝金を娘の口座に振り込んでもらっている
- 経鼻栄養は外れたものの、娘は食べることが苦手だった。あやして口が開いた瞬間に入れる形でなんとかペースト食を食べさせた
- 29歳の娘はぜんそくの発作や、コロナワクチン接種をきっかけに、小児科から大人の診療科の受診を勧められ、移行期間中だ
- 娘が成人して社会人としてどう生きていくかを考えた。最初に行ったのは選挙だ。コミュニケーション機器で投票を完了したときは感無量だった
- 修学旅行は秋芳洞の内部で集合写真を撮る予定だったが、車いすではいけない。周囲の保護者が別の所で撮ればよいと提案してくれた
- 障害に対する拒絶反応から思わず「障害児なんていらない」と口にしたが、子どもの懸命に生きる姿に何とか助かってほしいと願った