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インタビュー時:49歳(2019年11月)
関係:母
医療的ケアのある子:長女16歳(逝去時)
首都圏在住。夫、長男、長女の4人家族。
長女は生後まもなく、ぐにゃりと反り返る姿勢をとるなど、2つ上の長男とは異なる様子があった。
検査しても原因はわからず、1歳頃にたん吸引、4歳頃に胃ろうと経管栄養が必要になった。
24時間続くケアで安心して眠ることができず心身ともに限界だったが、当時は子どもを見るのは母親の仕事として、ヘルパーや訪問看護の利用がなかなか認められなかった。
あきらめずに説得し、制度利用を少しずつ認めてもらうようになった。
語りの内容
結婚するまでは、普通にOLをしていたんです。
主人が会社員ではあったんですけれど転勤の多い会社で、日本各地をどうしても転々とすることが、ある程度可能性として高いなってことがちょっと分かっていたこともあって。
私は、専業主婦というか、一時期でも固定をしてどこかでフルタイムで働くっていうことがちょっと難しいなと思っていました。
当時は、子供を産むだろうというふうに(笑)、想定をしていたこともあるので、子育てが一段落したら、また働けるようになるかな、ぐらいに考えていたんですけれど、いざ1人目のお兄ちゃんが産まれて次、娘が産まれて、どんどん家族が増えていき。
まあでも、娘が産まれてからは、ちょっと入退院があまりにも多くて、私も24時間介護で掛かりきりで、もう睡眠時間もない。
自分の生活もままならない状態で、経済的な問題もあるんですけど、それ以上に自分の命を守ることのほうが本当に大事だと思っていたので、まず働くっていうことは、気持ちはあったんですけど、ちょっと難しいなっていうふうに思っていて。
でも、娘のある程度障害が分かっても、本当にたくさんの方にお世話になっていることもあって、何か社会に貢献できるようなかたちも含めて働きたいなっていうふうに思っていたもので。
でも、そのためにはどうしたらいいんだろうっていうことを考えたときに、まあ、たまたまなんですけど、公募した懸賞論文ですとか、キャッチフレーズとか、そういったものが、次々に当たってというか入賞して、ちょっとした主婦のお小遣いになっていたんですよね(笑)。
もしかしたら、こういうことも仕事にできるのかな、書くっていうことも仕事にできるかもしれないっていうことを思い始めて。
娘が、小学校1年生に上がったタイミングで、私も、何かの1年生になろうと思って、夜間のライタースクールに通い始めました。
1年間かけて、書くスキルをゆっくりと身に付けていき、出会ったご縁から、少しずつ自宅でできる仕事を増やしていきました。
1日8時間どこかに行って、社員として働くっていうようなことは娘を育てていたときはできなかったので、最初はテープ起こしといって作家さんの取材した原稿のテープを一生懸命文字で起こすような家でできることを始めました。
そのうちに幾つかのデータをまとめたりする仕事のようなもの、その後は、だんだん原稿を書けるようになってくると、自分が取材に行ったものですとか。
コピーライターになるときには、ある程度クライアントの方のご意向を聞いた上で、コピーライティングをさせていただくっていうことの機会は少しずつ自宅でできるようにもなってきましたね。
そういった案件を少しずつ増やしていって、仕事を増やしていきました。
インタビュー01
- お兄ちゃんはわがままを言わずに育ってしまった。サポートの学生ボランティアにわがままを聞いてもらうようにした
- 特別支援学校で娘のケアは看護師では対応できないと言われ、自分が付き添い、トイレも自由に行けず、気持ちを休める暇はなかった
- 懸賞論文が当たり、自分は文章を書くことが得意なのではないかとライタースクールに通い、今の仕事になった
- 夜間のスクールに通うため、周りの手を借りた。忙しかったが隙間時間を見つけやりくりする能力が身に着いた
- 制度やサポートについて行政に訴えるときには、なぜ必要なのかがわかるように情報を客観的に整理して伝えることが大切だと思う
- 身体障害児用車いすの費用補助のため1歳半頃に身体障害者手帳を申請した。抵抗はあったがその後多くの支援サービスを受けられた
- 2010年頃、短期入所の予約は申し込み方法が施設ごとに異なっていた。自らマネジメントしながら、予約申請するしかなかった
- 自分の身体を休ませ上の子と過ごすために宿泊の短期入所を利用したが、準備が大変で1週間あっても自由になるのは2、3日だった
- 経鼻経腸チューブが抜けると病院で入れ直してもらわねばならない。チューブに触らないようヘルパーに娘の手を握っていてもらった
- 夜中の体位交換や見守りのため夫婦で睡眠時間をずらしていた。自分の運転で娘を学校に送るので、寝不足にならないように注意した
- 娘は16歳で急変して亡くなった。いつかはと覚悟はしていたものの、その喪失感は大きくしばらく何をみても涙が止まらなかった