月別アーカイブ: 2023年3月

医療的ケア児の家族の語り

雨が降ると歩いてバス停まで行くのが難しく、移動支援とは別に生活サポートという事業の契約をする

あとは、雨が降ると、歩いてバス停まで行くっていうのが難しくなってくるので、そういうときはまたその移動支援っていうのとは別に、生活サポートっていう事業の契約をします。
ただ、その事業所によっては生活サポートはやってなくて、移動支援と身体介護はやってますとか、ほんとに事業所によってばらばらで。

また、天気も途中までは晴れてたけど、途中から雨が降ったとか、ものすごい風が吹いてさすがに歩いては行けないとか。
そういう途中で変わっていくものの対応みたいなのが、それも事業所によってなんだとは思うんですけど、うちはとても、今、良い関係ができてるので、臨機応変に事業所さんと、のほうで考えて、やってくれてはいます。

ただいっとき、事業所さんのほうから、新しく自分の事業所の傘下にグループとして新しい事業所ができたので、使ってみませんかって勧められたことがあって。
同じ町内の方でとても親切な方だったので、「あ、じゃあ」って言って、そちらの新しい事業所を使ったんですけど。
ある日、「雨が、降りそうです」って、「今日どうしましょう」っていう連絡をもらって、「じゃあ、いつもどおり生活サポートに切り替えてもらって」って言ったら、「うち生活サポートは取ってないんです」って言われて、それじゃあできないねって。

やれるところ、やれないところっていうのがほんとに事業所によって違うし、そこを選んでくっていうのは難しいなあとは思いますね。

医療的ケア児の家族の語り

息子が亡くなり40歳で看護学校に入学した。学生時代は人生を楽しむ気持ちになれなかったが、働き始めてから楽しめるようになった

――今、ご自身が訪問看護師として医療者になられたわけですけれども、訪問看護師になりたい、って思われたのは、どのぐらいのタイミングだったんですか。

最初からです。(息子と過ごしたいという)私の最後の願いをかなえてくれた、(訪問看護)ステーションのナースの姿勢っていうんでしょうか……。在宅で、私の経験を生かすとか、そういうことではなくてですね、私が受けた看護が、私の中にぐーっときたので、私はそういう看護師になりたいって。働くんだったら訪問看護師に行きたいなと思って看護師になりました。そこはもう最初からですね。訪問看護師に最終的にはなりたいなと思ってたので。

――お子さんがもう生まれて、小さい頃から、タイミングがあればなりたい。

それは(息子が)亡くなった後ですよね。主治医から、息子が亡くなった後の自分の生き方を考えときなさいって言われたんですよ。言われてたんですけど、「考えきれるわけないですよ、先生」って。「まだ生きてるもん」って。「嫌だ、そんなの考えるの」って言って。

でも亡くなった瞬間から考えていかないと、いつまでも生活保護をもらえるわけではないのでですね。ヘルパーの免許を先に取ったんですけど、やっぱり違うよなって思って。でも、勉強得意じゃないので、看護師になれないと思ったんですよね。だけど、やってみようかなって思って、人生で初めて勉強しました。はい。

――お幾つのときに。

40(歳)です。

――周りは20代の方が多かったと思うんですけど、看護学生時代のお話も教えていただけますか。

息子が4月に亡くなって、受験をしたのは翌年の2月です。おかげさまで入学をさせていただいて。ただですね、私は、長い間、障害を持つ社会っていうんですか、まあ世の中が100あったら、私は10、20ぐらいの中で生活をしてたもんですから。そして、私は息子の母親として、そこにはいられないわけですよね。

私の前にあったことは誰も知らない。自分の中で存在することが、とっても違和感があって、苦しくて。まず呼び名が違うんですよね。今までは、「何々ちゃんのママ」って本名で呼ばれない。この子のママで呼ばれる。でも、新しい今から生きていく社会では、名前で呼ばれることがすごく違和感があって。で、心を開けない…うん、それがほとんど学生の時代は続いてましたね。最後まで。だから、この子の社会に戻りたい戻りたいってずっと思ってましたし、何を人って考えてるのか分からんなって、いつも思ってました。

――実際、訪問看護師になられてからは心が開けない部分は変わったっていう。

私、罪悪感とかっていうことではないと思うんですけど、訪問看護師になるまで、ある大きい病院に勤めてたんですよね。4年か5年ぐらい。で、学生時代くらいまでは、自分がね、楽しむとか、おいしいものを食べるとか…そういうのができなかったんですよね。

しちゃいけないとかっていうことも思ってなかったと思うんですけど、無意識のうちに、どうしても自分に課してしまう性格があるのか、一方で両親の介護もしてたもんですからね。息子が食べれなかったので、あんまり食べるっていうことにも関心がなくて…とにかく一生懸命勉強して、看護師になりたいと思って。

卒業をして、訪問看護に行く前の、大きい病院に行って、そこで心がばーってほぐれていったような気がします。うん。ちょうど同じ年の仲間と仲良くなって、で、旅行に誘ってもらったりとか、韓国の化粧を教えてもらったりとか。楽しむっていうんですかね。もうそろそろ自分のために生きていいっていうのかな。もう、それから歯止めがかからなくなって(笑)。

医療的ケア児の家族の語り

体が限界を迎えて動けなくなり5日ほど入院した。自分は超人じゃないし1人じゃ限界があると思い知った

――実際に倒れられた経験があるってことですか。

慢性的な寝不足と気を張りっぱなしなので、心より体が限界を迎えて、頭痛がひどくて動けなくなって嘔吐(おうと)しちゃったりとか。
あとは、体を顧みなさ過ぎて、腰を壊して、私の場合なんですけど、動けなくなって救急車で運ばれて5日ほど入院しました。

――その間、お子さまどうされたんですか。

息子は幸か不幸か、そのときちょうど検査入院で病院に入院してたんですね。
で、もうそろそろ退院っていうときにやってしまって、で、救急車で運ばれながら、息子の病院に、(本来は)毎日面会に行かなきゃいけなかったんですが、きょうは行けません、当分、行けませんっていう電話をして。

息子の病棟ではちょっと、事件になったそうです。
私が手術するんじゃないかとか、あとはやっぱり急性期の病院なので、短期入所の病院に移したほうがいいのかっていうふうにちょっと騒動になって。
で、下の子は主人や主人のお父さんが見たり、あとは、私の実家にお泊まりに行ったりっていうふうにして、何とか過ごしました。

悔しいけど自分は超人じゃないんだっていうのを思い知って、1人じゃ限界があるって。
それまではほんと、周りの気遣いの言葉が、気遣いじゃないふうに受け取っていたので、休めって言われても、私なんか休んでる場合じゃないでしょ、なんでそんなこと言うのっていうふうに思っていたくらいでした。

だから、みんながみんなそうじゃないとは思うんですけど、結構、退院直後のお母さんって、そうなってる可能性が高いので、本心から休んでくださいって言っても、受け取ってもらえない場合があるかもしれないです。

医療的ケア児の家族の語り

子どもが退院して最初の1か月は緊張で寝ることもできず、休んでいいよと言われても罪悪感を感じた

退院後の最初の1カ月は本当に肉体的にも精神的にもつらかったです。
もう自分たちしかいないので、訪問看護さん来てくれても、せいぜい1時間程度なので、その間に何かあったら自分の判断が全てになるので怖いし、正直、夜間も落ち着いては寝れなかったです。

いまだにですけど、アラームが鳴ったり、息遣いがちょっと変わっただけで起きるんですね、せき込んだりとか。
もうこれは母親特有なのかもしれないんですけれど。
最初の1カ月を越えたら、少し心に余裕は持てるようになりました。
だから最初の1カ月が、親としてはある意味、山なのかなーっていう。
だんだんリズムが掴めてきたりとか、ここでちょっと他のことができるとか、少しだけだけど気が抜けるとか。

退院してくるお母さんって、私もそうだったと思うんですけど、気が張って自分がやらなきゃって思っているので、もうほんとに自分を顧みないんですよね。
乱暴な言い方なんですけれど、倒れて初めて自分の限界値を知るんですよね。
それまでは、「休んでください」って言われたり、例えば「短期入所でお子さん預けて、休んでいいんですよ」って言われても、私の場合でしたけど、罪悪感を感じました。
自分のことより子どものことって思っていたので、そういう方が多いんじゃないかなって思うんですけど。

1回、自分の限界値を知るまで、ちょっと周りには迷惑掛けるんですけど、そこで自分の限界値を知って、初めて、周りに助けを求められるところはあると思うんですね。
だから、周りに「休んでいいよ」って言われるのが受け入れられなかったりというのがあるので、周りの方はこう、お母さんが多少倒れても、カバーできるぐらいの環境でいてくれたらいいんじゃないかなーと思います。

医療的ケア児の家族の語り

起きている間は子どもの体調や機械を確認する作業に追われる。訪問看護の時間がもう少し長ければランチに出かけたい (音声のみ)

今考えると、とっても幸せな生活をしてたなって思うんですけど、何でも自由にできた時間。
仕事に行って、家に帰ってきて、ご飯を作って食べて、休みの日に出掛ける。
当たり前のことですけど、それがもう全くできなくなってしまったんですね。

仕事に行くこともできない、ご飯を食べるにも子どもが泣いてギャーギャー言ってたら、吸引しないといけない、呼吸器の圧を見ないといけないとか、心拍数見ないといけない、呼吸の状態を見ないといけない、もうご飯食べる時間がないんですね。
ほんとに何気なく携帯触ってた時間も存在しなくなる。
最初はほんとに戸惑ったし、なんでここまで、この子に自分の時間を奪われないといけないんやろかって、思ったのも事実です。

今だと、朝起きてきて主人がまだ出勤しない時間に、私が起きてきて洗濯して、お風呂場洗ってって、家事をこなして、その間主人が見てくれてるので。
で、出勤するわっていうタイミングで変わって、ご飯を胃ろうから注入をしたりとか、そういう準備とか後片付けとか。
で、自分がご飯食べて、そうこうしてたらもう注入も終わって、注入のポンプを洗ったりとか、そんなんしてたら、朝いち、訪問看護の方が来られて朝のケアとかをし、息子のケアをしてくださって、その間に朝から晩ごはん作ったり、掃除したり、ちょっと買い物に行ったりとか、訪問看護の方に頼んで出てって。

訪問時間、1時間半とか2時間とかその日によって違いますけど、その時間になったら交代して、そっからまた注入したり、かん腸したりガス抜きしたり、呼吸状態見たりとか、いろんなことを確認してたら、もうあっという間に夕方になってて。
で、また次の注入が始まってみたいな状態なので。

今うちは毎日訪問看護の方に来ていただいてて。
その日によって訪問時間が違うんですけど、割と長めには来ていただけてるほうだし、週5回も入ってるので、割と環境的にはいいほうかとは思うんですけど、やっぱりそれでも、その1時間半とか2時間の間に家のことをやって、家事をやってってやったら、別に自分が休む時間はないんですね。

なので、こう、1カ月に1回でも2回でもいいんですけど、その訪問時間、訪問看護さんの訪問時間をもう少し延ばせるような仕組みがあれば。
例えば4時間あればランチ行って帰ってくるとかできると思うので、少しレスパイト的要素を含めた、訪問看護の利用時間を作ってもらいたいなって思います。

医療的ケア児の家族の語り

妻からは控えるよう言われるが、帰宅後のお酒は精神衛生上必要でもあり、夜のケアは少し飲みながらすることもある(音声のみ)

――ケアのために、眠っちゃわないように、お酒は控えてるようになったっていうお母さんが多いんですけれども、ご自身はそういった会社の飲み会だったり、アルコールとかそういうことについてはどうでしたか。

(お酒を飲むことを妻に)極力、許してもらってたんです。
許してもらってたのかどうか分かりませんけど、妻はもっと控えてほしかった、それも言われたこともありますし、家で飲む量に関しても、結構、言われてたんですけど、僕はそれをゼロにしないので、もう多分、諦められてるとは思うんですよね。

仕事上必要だっていうところはそんなにもなくて、研究室で何かしらあったときに飲みに行くっていうことがあったぐらいですかねえ。
割と家で飲むことに関していろいろお小言は、いろいろもらいましたね。

ただなかなかそこは難しいですよね。
僕自身の精神衛生上の問題もあるし、そこの兼ね合い、なかなか難しいところですね。
ただ今は割ともうそういうのが、外で飲むというのがないので、どうなんでしょう。
年を取ったというのもありますし、だいぶお酒の量が減ってきてるので、という意味では、夜でも、飲んでても僕は吸引するときは吸引してるんで、割とその折り合いというのが、妻の望むところではないけども、折り合いをつけられるところでつけてる形ですかね。

割と僕のほうが夜遅くまで起きて、起きてる間ケアをして、妻に先に寝てもらうみたいな形にしてたんですけど、何もせずに起きてるっていうのはできなくてですね。
逆に、1杯飲んだほうが長く起きてられるというような形もあったんで、そういう時期も結構長くあったかもしれないですね。

医療的ケア児の家族の語り

入院中は院内での帳簿つけも気分転換になった。漫画やドラマの続きを楽しみにし、時には友達とテニスをすることもあった

仕事自体は(子どもが)退院してきた時点で、あまりできないなってことは分かっていたので、私自身がやらなきゃいけない経理以外は、もう全部アルバイトさんを雇ってやってもらってた状況で。ほぼほぼ、工場の仕事は手伝ってなくて、帳簿をつけるとかお金を動かすようなことをやっていただけなので。

ヘルパーさんが来てる、お昼寝してるおとなしいときにちょこっとやる、夜、寝た後やる。
長い入院の時間には全部、領収書持って病院で暇なので、やってたりはしましたね。
それが苦痛といえば苦痛なんですけど、病気のことから、離れられるっていう部分もあるので、気分転換にはなってました。
1ヶ月に1回、帳簿をつければいいだけなので。ストレスにはなるけれども気分転換にもなっていたという状況があるのと。

私、漫画が好きなので、漫画を読む時間みたいな。
子どもにあんぱんまん(の本)を借りに行くついでに自分の漫画も借りてきて、読んでました。漫画を開くと、そこは別世界なので。
別冊マーガレットとかだと発売日がありますよね。
そういうのを楽しみに生きている。続きはどうなるんだろうって。

連続ドラマも、すごい楽しみに見てましたね。子どもには、ドリルをやらせながら、私は、イケメンの出てるドラマを見て。
来週があるっていうのはいいことかな。続きがあるっていう、ちょっとした楽しみがあってよかったなーと思うんです。

テニスもやってて、近所のテニスコートで友達とやってたんです。
連絡が来て「この日、(コート)取れたよ」って言われたら、私の体調と子どもの体調と、夫の体調と、ヘルパーさんが来てくれるかどうか、あと天気。
全部、揃わないといけないので、なかなか行けないんですけど。

ヘルパーさんも、日曜日でも、お母さんが行きたいというテニスで、この日だったら大丈夫ですよって行かせてもらえたので。
前々からの準備は結構あるんだけど、予定があるっていうのはいいことだなと思って。(予定を)入れてましたね。

結局、3ヶ月に1回も行けないし、入院してますとか、結局、行けなかったりもするんですけど。
予定があって友達と会うとか、テニスの予定があってよかったなとは思います。

医療的ケア児の家族の語り

那覇マラソンに参加した際、日中預かり支援を利用できたり、地元ボランティアの温かい支援を受けたりした

私、マラソン好きなんです。
那覇マラソン走るのに沖縄に行くっていう、友だちと行く、子どもも連れて行く、うちの母もみんなで行くってときに、沖縄にこういう障害のある子を昼間、日中一時支援みたいな制度で預かってくれる、旅行者も預かりますよっていう事業所があることが分かって、そこを使おうと思って。

市役所に電話したら、「そんな旅行中にほかの市町村で使うなんて、今までそんなの聞いたことがない。や、ちょっと無理ですね。それ、何で使うんですか」って言うんです。
だから「あ、マラソン走るとき預けたいんです」って言って(笑)。
「あー、そうですよね、無理ですよね」って言い、思いながら一回切ったんですよ。

しばらくして、数日してからまた(電話)掛かってきて、「お母さん、走ってきてください」って。
要は、その制度を使えるように、他の市町村で使えるように調整してくれたらしくて、すごいうれしかったですね。
ゴリ押ししたわけでもなく、正直に言うことって大事なんだってちょっと思いました(笑)。

ホテルに泊まって、旅行したりするんですけど、そこの現地の看護師さんにマラソン大会走るって言ったら、何かお手伝いできないでしょうか、嫌じゃなければホテルに行って、ご飯食べてる間に、ボランティアさせてもらえませんかとかって言ってくださって。
なんていい人と思って(笑)、お願いしたりして。

大変なこともいっぱいあるけど、真っすぐ生きてれば、うーん、いい人ばっかりに巡り逢います(笑)。
この子と一緒にいると。なんだろう、不思議ですよね。
不思議な力が働いて、いろんな人の優しさに気付いたのもこの子が生まれてからだし、気付かなかっただろうし。
自分の多分ものの見方も変わったかもしれないですね、もしかしたら。

今まで、周りは変わってないのかもしれないけれども、周りの優しさに気付かなかっただけなのかちょっと分かんないですけど、変わった気はします。うん。

――マラソンが好きっておっしゃってたんですけど、マラソンをどのように楽しんでるのか。

マラソンは、1人の時間になれるってことと、無になれる。好きな音楽を聴きながらっていうのが好きですかね。
達成感ももちろんありますけど。完走したっていう。
だけど、速く走ることとか、順位がとかそういうことじゃなくて、やっぱ無になれる時間っていうのはすごい貴重かなって思います。うん。

――マラソンって練習が要るじゃないですか。大会とかに出るには。そういう時間はどうやって確保してるんですか。

子どもが調子いいときに学校行ってる間とか。
時間ってないようで作ればあるので。
だから、練習量は普通の人に比べたら全然短いですけど、ほどよく体動かすと疲れて、また逆にそれがエネルギーになったりするんで。
気分転換が一番おっきいかもしれないです。走ってることって。

医療的ケア児の家族の語り

夜間のスクールに通うため、周りの手を借りた。忙しかったが隙間時間を見つけやりくりする能力が身に着いた

そのときだけは、もう本当に1年ぐらい前から、私が夜間、学校に行けるように体制を整えて、夜の学校は夜7時から始まるんですけれど、1時間ぐらい前には、私が自宅を出ないと学校の授業に恐らく間に合わないだろうっていうこと。

6時に出られるようにするためには、それまでに娘のいろんなケアとかを、ある程度人に任せていたり体調も落ち着いていないと駄目だよねっていうことで、ヘルパーさんとか、訪問看護師さんとか、いろんな人たちにお世話になって、その時間までにある程度体調を整えて。

私が出掛けて、主人はだんだん時間が早く帰ってくるようになったんですけど、やっぱりどんなに遅くても9時ぐらいだったんです。
でも、その時間だと私は出られないので、その(スクールの)ときだけは夜遅くても7時までに帰ってくるようにっていうかたちにスケジュールを組んで。

それでも6時から7時はどうしても空き時間が出てしまう。
お兄ちゃん1人には任せられませんので、そこだけは、ちょっと遠くに住む義理のお父さんやお母さん、私の両親にも手伝ってもらい、主人が帰ってくるまでのほんのわずかな時間だけ、見ていただくような体制を整えて何とか通えるようにしましたねえ。

課題も出るんですけど、課題をする時間が取れなかったり、最初は結構その時間をつくるのがなかなかね、思うようには。
行ったら行ったで授業を受けても、1週間に1回あるので、次の週までには幾つか課題が出るので、その課題もしなくちゃいけない。
でも、その課題をこなす時間、どうやって取るんだろうっていうことを、もうとにかく時間を確保するのがすごく、自分にとっては問題で、それこそ課題で(笑)。

そのうちにだんだん空き時間を見つけるのが上手になっていくんですよね。
そうか、ここの注入と注入をしている間はヘルパーさんにお願いして、私は別の部屋で少し、1時間だけ時間をもらおうと。
空いているこの1時間で、私がこの間、やった取材のテープ起こしをしようとか、この1時間で原稿を書くまでのラフを考えようとか、そういっていろいろと仕事の手順を細分化して、その一つ一つこなすためのスケジュールっていうかたちの管理を考えましたね。

医療的ケア児の家族の語り

懸賞論文が当たり、自分は文章を書くことが得意なのではないかとライタースクールに通い、今の仕事になった

結婚するまでは、普通にOLをしていたんです。
主人が会社員ではあったんですけれど転勤の多い会社で、日本各地をどうしても転々とすることが、ある程度可能性として高いなってことがちょっと分かっていたこともあって。
私は、専業主婦というか、一時期でも固定をしてどこかでフルタイムで働くっていうことがちょっと難しいなと思っていました。

当時は、子供を産むだろうというふうに(笑)、想定をしていたこともあるので、子育てが一段落したら、また働けるようになるかな、ぐらいに考えていたんですけれど、いざ1人目のお兄ちゃんが産まれて次、娘が産まれて、どんどん家族が増えていき。
まあでも、娘が産まれてからは、ちょっと入退院があまりにも多くて、私も24時間介護で掛かりきりで、もう睡眠時間もない。

自分の生活もままならない状態で、経済的な問題もあるんですけど、それ以上に自分の命を守ることのほうが本当に大事だと思っていたので、まず働くっていうことは、気持ちはあったんですけど、ちょっと難しいなっていうふうに思っていて。

でも、娘のある程度障害が分かっても、本当にたくさんの方にお世話になっていることもあって、何か社会に貢献できるようなかたちも含めて働きたいなっていうふうに思っていたもので。
でも、そのためにはどうしたらいいんだろうっていうことを考えたときに、まあ、たまたまなんですけど、公募した懸賞論文ですとか、キャッチフレーズとか、そういったものが、次々に当たってというか入賞して、ちょっとした主婦のお小遣いになっていたんですよね(笑)。

もしかしたら、こういうことも仕事にできるのかな、書くっていうことも仕事にできるかもしれないっていうことを思い始めて。
娘が、小学校1年生に上がったタイミングで、私も、何かの1年生になろうと思って、夜間のライタースクールに通い始めました。

1年間かけて、書くスキルをゆっくりと身に付けていき、出会ったご縁から、少しずつ自宅でできる仕事を増やしていきました。
1日8時間どこかに行って、社員として働くっていうようなことは娘を育てていたときはできなかったので、最初はテープ起こしといって作家さんの取材した原稿のテープを一生懸命文字で起こすような家でできることを始めました。
そのうちに幾つかのデータをまとめたりする仕事のようなもの、その後は、だんだん原稿を書けるようになってくると、自分が取材に行ったものですとか。
コピーライターになるときには、ある程度クライアントの方のご意向を聞いた上で、コピーライティングをさせていただくっていうことの機会は少しずつ自宅でできるようにもなってきましたね。
そういった案件を少しずつ増やしていって、仕事を増やしていきました。