月別アーカイブ: 2023年3月

医療的ケア児の家族の語り

退院前に夫と小3だった双子の兄も2日間の研修を受けた。三男を在宅で受け入れる気持ちが家族内でぐっと高まった

先生のお考えが「お父さんも(急変時の対応が)できなきゃ駄目」というふうに、言ってくださったので。
主人も会社を何度も抜けて、蘇生の方法だったり、救急車を呼ぶシミュレーョンまで全部やりました。
セリフですよね。
電話をかけて、呼んでっていうのも、尋常じゃない精神状態の中でないと、やはり救急車は呼ばないので、そういったときの対応ですね。
全部主人と一緒に行って。

あとは双子のお兄ちゃんですね。
小学校その頃は4年生だったかな。
3年生4年生の頃だったんですけれども、お兄ちゃん2人にも2日間の研修を組んでもらいまして。
チャイルド・ライフ・スペシャリストという資格を持った方がその病院にはおりましたので、お兄ちゃんたちに対してぬいぐるみを使って、カニューレはこう入ってるよ、人工呼吸器はこうやってつながってるよ。
なので、君たちはこういったものを触っていいか、いけないかでいうと、どっちかな。

弟くんの病気はこういう病気で、こういうことが起きたらすぐ大人を呼ぶこと、お母さんを呼ぶこと。
で、自分でやっていいのはここまでだよというふうに、2日間プログラムを組んで教えていただいて、最後は卒業試験まで準備されて(笑)。

お兄ちゃんたちも、弟を迎えるためのチームの一員としてですね、そこで自覚がぐっと芽生えたんじゃないかなと思っております。

医療的ケア児の家族の語り

第1子を生後5か月で亡くし、第2子を妊娠したときに迷いながらも出生前診断をした。異常なしだったが生まれるまで不安だった (音声のみ)

で 、一応その羊水検査を受けようかと思ってたんですけど、その矢先にちょっと切迫流産になってしまって。ま、結局ちょっと受けられなくて。まあ、逆に受けてたら、そのときにもう病気が分かってたと思うんで、そのとき自分たちがどうしたかっていうのは、ちょっと今となっては、うーん、なんていうか、もうあんまたらればで話しても意味がないことなので、そこはあんま考えてないんですけど、でも、2 番目にじゃあいざ生まれるってなったときに、やっぱりすごく不安は不安で。あの、どんな子でももちろんかわいいっていうのは、その上の子のときに分かってるんですけど、なんかまた、その、長生きできないって言われたりして、あの、本当にもう身を八つ裂きにされるようなあの苦しみは、を味わうのかと思うと、それはどうしようっていうことで、すごく考えて。
 あの、ま、結論はでなかったんですけど、結論出ないまま出生前診断受けたんですね。で、あの、受けるときも、その結果が出るまでも、もうすごい、こんなに人生で緊張だったり不安したこと、に思ったことはないっていうぐらいすごく不安で。でも、結果が、一応その検査では異常はなかったっていうのを聞いたときは、本当にもう、うちの夫と腰を抜かすくらいもう、腰が抜けるぐらいもう本当に緊張が取れたっていうか、もうよかったっていうか、安心したっていう気持ちがあって。

下の子のときも、考 えてはいたんですけど、もし陽性だったらどうするかっていうのは、えと、主人と話して、あの、もうそのときに陽性だったら、もう陽性だったときに考えようっていうふうに、その時点では結論を出していたんです。で、ニプトの、ニプト外来の先生にも、もうちょっとそういうふうにしか今決められませんっていう話はして。で、なんか、もし陽性だったらっていうのは、なんかこれはもしかしたら逃げの回答になってしまうかもしれないんですけど、あの、私、上の子のときに、たらればで考えたり、もしこうだったらとか、なんか、そう考えることの意味のなさっていうのをすごく痛感したんですね。で、明日もどうなるか分からない中で、こう、なんか、毎日必死で生きてきて 、だ から、そうなったらそうなったとき考えようって思って。結局最後の、最終の、なんか、結論がそれだったんですね。なんで、うーん、なんか、どうしてたかなっていうのは分かんないですね。

という不安を、まあ、超えて、だんだん、あの、安定期には入ったんですけど、でも、やっぱり、あの、生まれるまで何があるか分からないっていうのは、自分が上の子のときに一番よく分かってるので、本当に、なんか、もう安定期だから大丈夫とか、なんか、今度は元気に生まれるよとか、結構周りからそういうなんか無責任なこと言われる度に、私だってそう思ってたよって言い返してやりたくなるのをぐっと堪えてっていうのがあって。実際、本当にその微妙な気持ちを分かってくれたのは、GCUの師長さんと、あとうちの夫と、あの、病院の産科の看護師さんたちぐらいで。なんか、結構、周りの人との関係を割とシャットアウトして 、2 人目も帝王切開はもう分かってたので、なんか手術台の上、最後手術台の上に乗るまでもう不安で。なんか、そうなんですよ、生まれてちょっと産声を聞くまでがもう、本当になんかもう、全然緊張が取れなかったですね。

医療的ケア児の家族の語り

息子のケアに慣れてきた頃、下の子が生まれた。まだ手のかかる時期だが、下の子がいることで家族全体で楽しい時間が増えた

今、上の子が15歳で下が1歳と、だいぶ年の離れたきょうだいなんですが、なかなか24時間介護をしている生活の中で、きょうだいのことまでできるだろうかっていうのも最初はあったのと。

ただ、(息子が)受傷する前には「きょうだいが欲しい」と言っていた部分もあって。
私たちも、この生活が日常というか、私たちにとってはこの生活が普通になって、この中でもゆとりができたというか、何とかなるんじゃないかというところと。

あとは、医療的ケアがある先輩ママさんたちが、ごきょうだいを育ててらっしゃるのも見てきたり、お話を聞いたりで、何とかなるんじゃないかっていうところもあって、踏み切れたというのも1つですね。

実際にお兄ちゃんよりも(下の子に)手が掛かるというか(笑)。
まだ生まれてから、1歳くらいなので、一番手が掛かる時期なので。
医療的ケア児がいることでの手が掛かるというよりは、普通にきょうだいがいることでの手が掛かるというイメージはありますけれど、にぎやかになったのと。

そしたらやっぱり、呼吸器の回路とかを下の子は分からないので、引っ張ってしまったりとか、いろいろする危険はたくさんあるんですけれど、ちょっと引っ張られてもお兄ちゃんニコニコしてるんですよね。

ベッドのほうに(下の子の)近づいてくる足音がすると、来た来た来たーみたいな感じで「ヒーッ」ていう顔をするときもあって。
怖いではなくて「やられるんじゃないか」っていうドキドキ感は、時々表情として読み取れることはあるんですけれど(笑)。

全般としてきょうだいがいることは、上の子にとっても楽しみというか、楽しい生活がプラスになった部分もあるのかなと思っています。

医療的ケア児の家族の語り

出産事故で怖い思いをしたにもかかわらず、翌日にきょうだいはたくさん欲しいと夫婦で話し合った

息子を産んだときに、(出産)事故でこういうふうになってしまって、すごく怖い思いをしたので、また次にって普通は思えないのかもしれないんですけど。
私たちは何か自分たちでも不思議なぐらい、産んだ、その怖い経験をした翌日に、きょうだいをいっぱいつくろうねっていう、夫婦でそういう約束をしたんですね。

もともといっぱい欲しかったですけど、よりその気持ちが強くなった。
で、それは、息子を見てくれるきょうだいをつくりたいとかではなくて、何だろう、こう、わちゃわちゃしたい。
家族でわちゃわちゃしたいっていう気持ちが大きくて、きょうだいいっぱい、家族いっぱい増やそうねっていう形で。

なので、きょうだいの下の子たちには、お兄ちゃんを将来面倒見てねとかは言いたくない。
だけど、子どもたちが自然と、あ、おにいちゃん、私たちでみるよって言ってくれればそれはそれでありがたいですけど、それをきょうだいに押し付けようとかっていうのは思ってはいない。
ただ、仲のいいきょうだいになってくれたらいいなっていうのは、すごく思っています。

でも、多分思春期とか、それぞれの年齢で抱えてくる問題っていうのはあるので、そこに向き合っていく大変さはきっとあるだろうなっていう覚悟はしてる。
そのためには、どっちのきょうだいもいっぱい、愛情注いでいくのがいいんじゃないかなって思ってます。

医療的ケア児の家族の語り

次男は兄とその友人たちがゲームをしている姿をみて楽しんでいて、その空間が親としても嬉しかった(音声のみ)

上の子の同級生たちに家まで遊びに来てもらって、そこに下の子もいる形で遊んでいたので、割と同級生の子たちは下の子のこともちっちゃいときからよく知っててですね。

(次男は)このお兄ちゃんと友達が自分の周りで遊んでるのが好きなんですよ。
友達たちが遊びに来てくれるのが好きで、友達とゲームしてるのを見てるのが楽しいみたいですね。

そういう形でちっちゃい頃から過ごしてきてたので、割とお兄ちゃんの友達たちは、来るたびに下の子にもあいさつしてくれますし、そこに一緒にいる空間つくってくれてる感じですねえ。

それに対して上の子が特別に何かをしてることはないかもしれないですけど、一緒に遊んでる感じになってます。
中学校になってから、そういう機会が減っちゃったんですけどね。
まあ、コロナっていうのもあったんで、そこはちょっと残念なんですけど。

医療的ケア児の家族の語り

お姉ちゃんが妹と遊んでいる姿をみて、私は障害児を育てているのでなく育児をしていると思えた

一番やっぱりお姉ちゃんがすごく力になってくれました。
子どもの素直さみたいなところがあって、私自身が身構えてても、純粋にお姉ちゃんの目には障害のある妹ではなくて、ただの自分の妹だったので、一生懸命、歌を歌ってくれたりとか、おもちゃで遊んでくれたりとか。

それを見た時に…当時(次女の)反応があまりなく、大きな音にびっくりしないし、まぶしさに目を細めたりもしないから、耳が聞こえてるのかも、目が見えないのかも分からなくて。
でも、そういうのって関係ないんだなーって。

私は私の娘として、お姉ちゃんと同じように育ててあげればいいんだと思えました。
寝てる下の子の横でお姉ちゃんが高く積み木を積み上げて、それをガシャンと崩してあげたりとか、こういうのも刺激になるし、そういうふうにしていこうって、娘に対する、何て言うんですかね、向き合い方ができたところが、それだったのかなーと思って。

それからは反応があってもなくてもどっちでもいいので、絵本を読んであげる、手遊びをしてあげる、散歩に連れてってあげる。
普通の子っていう言い方もおかしいんですけど、私は障害児を育ててるんじゃなくって、子どもを育ててるんだっていう意識を持って、娘と向き合うようになって。

そうすると、ケアの一つ一つも、育児の一つになって、しんどいと思ってたことも、割と生活の一部でやっていけるようになって。
私がそういうふうに向き合えばお姉ちゃんも向き合ってくれるし、周りの人も同じように向き合ってくれるので。

あと一番お姉ちゃんに我慢させたくなくって。
妹がこうだからきょうは遊びに行けないよ、これはできないよ、それはやらないでっていうのを絶対にしたくなかったので、なるべくお姉ちゃんの希望をかなえるために、それこそ真冬の公園にお姉ちゃんが行きたいと言えば、(妹を)毛布にくるめて吸引器持って行ったりもしてましたし。

それがいいか悪いか分からないけれども、やっぱり娘の刺激になったし、上の子の経験にもなったし、今のうちの基本になってると思います。

医療的ケア児の家族の語り

長男が中学生になったころ、弟を学校に連れてきてほしくないと言ったことがある。その気持ちは親としても理解できた

――今お兄ちゃんはどんなふうに弟さんに接してますか。もうだいぶ大きいですね。

(長男は)もう大きいから、いろいろ手伝ってはくれますけど、それでも中学校に上がったときに、またガラッと環境が変わるじゃないですか。
小学校の友だちはみんな(弟のことを)知ってるし、かわいがってくれるけど、中学校はもちろん違う小学校からも来るから、弟の存在知らない子もいるので、「連れてきてほしくない」って言ったことがあって。

なんか隠すようなときがあったときに、ずっとお世話になってる主治医の先生に、そんなこと言うんですって相談したら、「お兄ちゃんには、お兄ちゃんの子ども(同士)の世界があるから、必ず、また大丈夫になる時期があるから、そういうときは決して無理して行かないで」って言われて。

今はそうしてよかったと思います。
だから、お兄ちゃんが嫌だったときは連れていかない時期もありました。

――大丈夫になる時期が来たのはいつですか。

いつだろう。高校生?
でも、もう(お兄ちゃんの学校に)行くことがなくなっちゃったんですよね。
だけど、そのときにお兄ちゃんが、連れてこないでほしいって言いつつ、「こんなこと言ってごめん」って言ったのが、逆に、ちょっと切ない。

なんだろう、そんな思いをさせちゃったお兄ちゃんに対して。
でも、そうだよなと思って。
自分にはきょうだいいなかったけど、やっぱり他人と違う姿とかしてると、みんなが見ますよね。
それって、変な意味合いで見てるわけじゃなくっても、やっぱ傷ついたりもするじゃない。
特に思春期の頃って。

例えば、「誰あれ?誰の弟?」っていう会話が聞こえただけで、別に悪口じゃないのに、なんか傷ついたりするじゃないですか。
そういうのって、お兄ちゃんの立場になって想像したときに、無理に連れて行くときじゃないなって思って、授業参観とかは必ず預けて行ってました。

医療的ケア児の家族の語り

食事中、娘の行動で注目を浴びて恥ずかしかったようで、息子が「もう一緒に食べたくない」と言った。ついにこの時が来たと思った

旅先で、朝ご飯は大きい会場で、家族単位で食べることありますよね。
その時に、娘を部屋に1人にするわけにもいかないので、一緒に連れていくんですけど、(娘が)もう拒否で。
そこにいる時に奇怪な声とか、奇怪な行動とか、ガシャンガシャンって音もすごくて。

そういうのが起こると、やっぱり他の人たちからの目線があるじゃないですか。
私たちは親だから、まだどういうふうでも受けていられるし、「これ、何々だよ」とか言って、「駄目だよ」とかね、「これ、こんなことしてもいいよ」とか。

いつもはさせないんですけど、「携帯使っていいよ」とか。
落ち着く方法をいっぱい、「絵描こか」とか、とんでもない会話とかいろいろして、興味を持たせて。
取りあえずこの食事をね、食べさしていただこうかなって思うんですけれど、それでも聞かん時とかっていうのは、ほんとに大変で。

そこでちょっと恥ずかしい思いして、弟がですね。
「もう俺は、一緒に食べたくない。おいしそうなご飯も、こんなのはもう嫌だ。」

もうここから、あれしたいとかの、そういうようなところがありまして。
ああ、来たか…この、何て言う、この感情を持つ時が来てしまったなっていうのはあります。これが実は最近で、それまでは結構うまくいってたので。

娘が食べない分、いっぱい食べられるしっていう意味で、ちょっと前は良かったのに、今は同席する恥ずかしさっていうのが出てきまして。
そこは今、この子の課題かなって思っていますね。
どうしようかな。

お姉ちゃんを理解させるのは難しいけれど、そこを何とかしてあげたいな。
外食の楽しさとかいう。
なるべく個室っていうふうにはしてるんですけれど。

医療的ケア児の家族の語り

ケアの負担から次男に冷たく当たってしまったとき、長男も自分と同じように接するのを見て反省し、2人をかわいがって育てることに決めた

きょうだい児は、本当にいっぱい問題があって。
なかなかね、医療的ケアのある子どもばっかりに目がいくので、きょうだいの子がね、つらい思いしてると思います。

そんな中で、「何でこんなに仲いいの」ってよく言ってもらえるんですけど、昔、(次男が)退院してすぐのときに、医療的ケアがたくさんあり過ぎて、私がもう本当にパニックになってしまって。
本当につらくて、子どもに冷たく当たってしまったときに、長男のほうも弟に冷たく当たることが多くて。

私の姿を見て同じことをしているんだなっていうのを思って。
それで考え直して、私が本当に2人とも、かわいがってる姿を見せることが、「僕はこんなに愛されているんだ」っていうのが分かって、長男も弟を愛するっていうか、うん。
まあ、そうですね(笑)。

かわいがっている姿をお兄ちゃんがちゃんと見てることで、お兄ちゃんも弟をかわいがれるというか…。
本当に仲良く2人ともしてくれてるので、助かってます。

医療的ケア児の家族の語り

兄達が小学校の友達に「俺の弟かわいいだろ」と紹介していて、これでいいんだと自己肯定感が高まった

4年生のときに、小学校に連れて行ったんですね。
兄が2人いるんですけど、兄の1人目がですね、校門まで迎えに来てくれて「お母さん、こっちだよ」って言って。

で、休み時間みんな遊んでる中で、兄のお友達がみんな「あ、これ」うちの息子の名前を呼んで「弟でしょ」って。
「そうだよ、俺の弟だよ。かわいいだろ」っていうふうに(笑)兄が紹介してくれてですね。

私もどういう反応するかなっていうのが、正直怖かったところがあったんですけれど、兄が「かわいいだろ」って、自分の弟を紹介したときに、なんて私は恥ずかしかったんだと、もう大変反省しましてですね。

そうしたら周りの子たちも「かわいい、かわいい」って言ってくれて。
「何これ?」「これ呼吸器だよ」「何これ?」「サチュレーションだよ」っていう(笑)。
「サチュレーションモニターだ、触んなよ」って言いながら、兄が説明してるんですね。

管もいっぱい付いてますから「これ、どうしたの」「うちの弟は呼吸できないんだよ。おまえ触んなよ」(笑)と言って、兄が一生懸命バギーを押しながら、小学校の中に入れてくれたのを今も覚えてるんですけど、もう大変ありがたかったですね。
そこで、この子連れていいんだって、私も自己肯定感が育まれてですね。

それからはもう、積極的に連れては行くんですけど、やはり子どもよりも大人の方のほうが、受け入れられる受け入れられないが、表情ですぐ分かりますので、難しさを感じるのは大人のほうですね。