月別アーカイブ: 2023年3月

医療的ケア児の家族の語り

入院時に親は付き添うのが当然のように言われる。仕事の都合はそっちのけで、不自由な生活を強いられることに驚いた(テキストのみ)

「(子どもは)気管支炎だから、入院してくれって言われた」と。
「そうなんだ」と、「分かりました」って言ってて、「では、お父さんかお母さん、どちらかは、今日からお泊りしてください」って言われたんですよね。

ここから多分、皆さんよく言う医療的ケア児あるある話になるんですけど、びっくりするわけですよ。もう人生の中でそんなこと想像もしたこともなかったんで。
「え、今日からですか」「はい、今からです」と(笑)。
「いつまでですか」「それは分かりません」そりゃそうですよね。

え、僕、明日ミーティングあるんですけどとか、っていうね。
あなたは?みたいな(目で看護師から)、当然しらーっと見られる。
僕が個人的な問題を頭に思い浮かべても、泊まって当然ですからっていう。

最初の多分、最大の衝撃がまずここに来ますよね。
ある日突然、自分の予定が未来永劫(えいごう)、立たなくなる瞬間がここから始まるわけですよね。
仕事の予約とか打ち合わせとか、僕、人の前でしゃべる仕事が多いんですけど、そういうセミナーとかはね、例えば大きな会場で、講演会とかセミナーがもしあったとしても、全キャンセルしなきゃいけない。病室からずっとやるわけにいかない。

うちの場合は身寄りがいないんで、お姉ちゃんの保育園の迎えもあるんで、絶対1人はもう張り付かなきゃいけないわけですね。
で、また医療的ケア児の場合は、マーゲンチューブとか大体、看護師さん入れてくんなかったりして、「お父さんお願い」とか言うんですよ、病室にいると。

これもね、後であるある話になるんですけど、結局、他人に替えてもらえなくなるんで、多分、もし身寄りがいても、おじいちゃんおばあちゃんじゃできないんですよね、きっとね、そういうことはね。
病院だったら少なくとも、その間は看護師さんが入れてくれたり、病院の先生が入れてくれる可能性、全然あるんですけど、にしてもやっぱり、泊まったりするっていうことっていうのは、僕も今まで、そういうことがあることすら知らなかったんで、楽観視。
そのときも大丈夫だろうと、3日4日行けばなんとか出るだろうと思って。

で、そこからが、突然の問題が幾つか起きるんで、足掛け半年間ぐらい入院生活は続くわけですね。
だから途中、もう諦めの境地が入るわけ。これ普通の生活もうできないなと。
身寄りもいないし、お風呂も行けないでしょ。1時間も代わってもらえないから。
1時間ぐらいは代わってもらえるんだけど、その病院お風呂もなかったんで。
まあ、男だからいいんだろうと思ってたんですけど。

もう5分も目離せないわけですよね、子どもってね、当然。特にチューブ付いてたりするからね。

医療的ケア児の家族の語り

同僚は自分の子に障害があると知っている。急な休みにも対応してくれ感謝しているが、気を遣われしんどいこともある(音声のみ)

仕事先の人はみんな知ってます。自分の子どもがそういう障害児だっていうことはみんな知ってます。はい。

――生まれて割とすぐに話されたんですか。

そうですね。生まれたときもどうしても数日間は無理やり休まなあかんような状況だったので、ある程度上のほうには話を通してっていう。

――実際に、お仕事の途中で帰らなきゃいけないとか、何日間かは仕事を断らなきゃいけないっていうこともあったんですか。

ありましたね。
どうしても調子が悪くなったら、すぐに帰らしてもらってっていうのもありました。
奥さんのほうがインフルエンザにかかって付き添いができないっていう状況になってくると、数日間はどうしても病院に入れなかったので、その間は自分が休み取ってっていうふうにはしてましたけど。

――仕事先の同僚、上司、部下、あるいは取引先とかいろいろあるのかなと思うんですけど、そういう職場環境上は恵まれてるなとか、あるいはこういうふうにもう少し対応してほしいなとか、何か思われたことはありますか。

いや、そういうのはないですね。比較的自由にさせてもらってるんですけど、逆に気を遣われ過ぎてしんどいなっていうときはあるんで。はい。
普通に接してもらうようにはしてます。はい。

――気を遣われるっていうのは?

過敏っていうんじゃないんですけど、仕事中に奥さんから電話があったら、内容も知らずに帰れよっていう感覚で。はい。
すぐに帰ってやれよって言うんですけど、全然違う用件で掛かってきとんですけどね。はい。
そういうのがあって。
で、その当時仕事場におった人は、ある程度理由を並べないと帰れないとかいう差があったので、その辺はちょっとしんどかったですね。

医療的ケア児の家族の語り

夫に仕事をしてもらわないと生活できない。夫も出世欲や向上心もあるだろうが、私一人でケアを担うのもつらい(音声のみ)

夫についてはやっぱり仕事をしてもらわないと、生活していけないので、そこは大事なんですけど、そっちばっかりになると今度、私が自分で全てをこなすのに、ものすごい大変なんです。
もっと手伝ってほしいっていう気持ちもあったりして、よくそういうところでは、ぶつかったりしますね。

仕事としてのキャリアを伸ばしたいっていう、男の人の野望じゃないですけど、そういうのもあるので、資格を取るためにチャレンジしたりとか、夫は社会人になってからもう一回大学に行きだしたりなんかしたんですけど。

自分のやりたいことを優先させていく夫を見て、私は自分はやりたくてもできない状況にあるし、働きたくたって働けないし、家や子どものことも守ってますので、そういうところで障害児を抱えて、夫婦でやっていくっていうのは、とっても難しいなって考えるところがありますね。

通常のご家庭よりも離婚率が高いなんてよく言われてますけれども、それもほんとにちょっと分かるなと思うところもあります。
こっちも何やってほしいな、こういうときは手を貸してほしいなって期待してしまうところもあるんですけれど、その期待が外れると、怒りもこみ上げてきちゃって、言ってしまって、またそれをきっかけにけんかになったりとか、そういうこともありますね。

夫にも、医療的ケア児を抱えてどうかと聞いてみたんです。
夫としては、家庭と仕事のバランスっていうものを取るのが、すごく難しいっていうことを言っていて、仕事は仕事で手を抜けないので、やっぱりこなさなきゃいけなかったり。
んー、抱えてるものが大きければ、それだけ自分もいっぱいいっぱいになったりすると。
家は家でそういう大変な状況で、妻が大変なのも分かってはいるけど、自分にゆとりがなかったり、やれる状況じゃなかったりっていうところも、夫からしたらあるんで。
なので、その辺のバランスっていうのは、男としてはとても難しいって言っていました。

医療的ケア児の家族の語り

教員で平日も土日も夜しか家にいられず、家では疲れて寝てしまうことも。夫婦ともケアに完璧を求めすぎずにいようと思っている

まず勤務自体は、朝7時半ぐらいに出勤をし、帰宅はそのときにもよるんですけれども、早ければ6時、遅ければ10時ぐらいですかね。休日に関して言うと、部活動の顧問を持っているものですから、土曜日、日曜日か、かなり不定期な状態。基本的には、土曜日は、必ず部活動の指導に行く。日曜日はたまにお休みかなっていうぐらいです。

――そうすると、平日だとしたら6時以降に帰宅されて。またそこで夜、ご自身の睡眠時間っていうのは取れていらっしゃるんでしょうか。どのぐらいありますか。

普段の場合ですと、大体僕は早ければ12時、遅ければ2時ぐらいまで、介護のほうの分担をしていて。
で、そこから先、休ませてもらうようにはしているんです。
けれども、そのときの体力的な部分だったりとかで、だいぶ時間が早まって、自分自身が寝てしまったり、落ちてしまったりとか、そういうふうなことは、結構頻繁にあるんじゃないかなと思います。
あんまりそこの部分で、がちがちにしないようには心掛けてます。

結局、きっちりではなくても、続くことが必要なのかなっていうふうにして考えています。
僕のほうもそういうふうにして、「あ、ごめん、できなかった」っていうふうなときがあってもいいし、逆に妻のほうだって当然、「あ、ごめんなさい、ここは思わずちょっと寝てしまいました」とかっていうふうなのがあっても、お互いにそこは、はい。

息子である彼のほうに、「ありがとう」っていうふうにして言って、その時間は、残念ながら誰もケアをしていないっていうふうな状態が生まれたりしていると思います。

でも、そこまで、駄目だよ駄目だよっていうふうなのが入ってしまうと、きっとこのタイプの生活ってできないかなと思います。うん。
最悪、何かが起こってしまった、そのときに、モニター音で気付けるっていうふうな、最低限そこの担保さえできていれば、後の部分は、少し、抜けがあっても仕方ないやぐらいの気持ちでやらないと、続かないんじゃなのかなって個人的には思っています。
少なくとも今、僕はそういうスタンスで、この生活を続けています。

医療的ケア児の家族の語り

自宅で学習教室を開業した。自分の精神的よりどころとしても、医療的ケア児の親のチャレンジとしても仕事をしたいと思った

――このお仕事を始められたタイミングっていうのは、お子さんが何歳ぐらいのときで、どういうきっかけで始められたんですか。

(自宅での学習教室は、息子が)小学校入学の1年前に始めたんですね。
ちょうど体調が入学に向けて落ち着いてったみたいな感じがあるんですけど、一通りの手術終わって、入院回数も減ったりして、私も生活が少し楽になるかなっていう、今、思えばそういう時期に。
自分自身が、子どものケアで(心が)完全にどっか行っちゃってた時期に、思い付いてるんですね、仕事したほうがいいっていうの。
それはいろんな側面で、仕事をすることが自分にとっては、私にとっては間違いなく、救いになるって感じたので。

まず、自分自身にとってもそうですし、それから自分を完全になくしちゃって、もうただゾンビのように生きている私にケアされている息子にとっても、きっとそうだろうし。
また元気な母が一番いいだろうっていう意味でもそうだし、夫だけが経済力であるっていうときに、これはもう世の中全般の仕事する女性と共通の考えになりますけど、その状態でいいのかって。

自分自身っていうもの、自立感みたいなものとか、逃げ場のない感じとか、あとは、絶対仕事はできないだろうって言われてしまってるかのようなこの環境。
重度障害の医ケアの子で、24時間介助で、医療的ケアもあって、もうあなたは仕事できませんって言われてる、この環境に対しても、社会に対しても、ほんとにそれでいいとみんな思ってるのかっていう(笑)、そういうとこへのチャレンジ精神ですよね。

私と同じように埋もれちゃってるお母さんたちに対して、みんなを勇気付けたり、皆さんのヒントになるような働き方を私が見い出せないかとか、他のお母さんたちも先々トライできるような突破口をつくれないかとか。
そういう思いが、子どもの入学前の時期にわわわーっと自分の中で盛り上がりまして、今のスタイルの仕事をする前にも1つ、パートみたいなのもトライしてみました。

それでも支援してくれる制度がまだまだ整ってないので、この分野に関してはケアラーである母親が就労するっていうのは、なかなか、今現在でもまだ十分ではないって感じてます。
だからこそなんかやらなきゃっていう思いが強くて、とりあえずスタートしてみたいと思って行動起こしたら、こっからはほんとに見えない力の導きじゃないですけど、そんな感じで幸いにもそれを可能にしてくれるような企業さんに出会えたり、そちらの担当の方々が、すごくご理解のある方だったり。
あとは訪問看護さんとかヘルパーさんたちが、後押ししてくださったり、「何とかしてみませんか」って言って、皆さんがフォローしてくださったっていうの、ほんとにそこら辺はラッキーの連鎖で実際、仕事開業する(まで)にこぎつけたというか。

やってみたらやってみたでいろいろとあるんですけどね、決してこれがうまい方法なのかはいまだに分からないどころか、ちょっとなかなかお勧め皆さんにできない。
お母さんたちにこれいい方法あるよって簡単に言えるほど楽じゃないっていう現実は今もあるんですけど。
でもそんな形で、何とかかんとか仕事をするっていう一つの形は、私は今、身を持ってやってみてるっていうとこですね。

医療的ケア児の家族の語り

自分でできる仕事を模索していた矢先、着物リメイクの先生に出会い、地元で起業した。やりがいのある仕事で地域にも貢献したい

本当にタイミング良くというか、私の友達が、「着物リメイクをされてる先生が高齢で後継者を探してるよ」っていうお話があったんですね。
そのときと同じくらいに、私の祖母が亡くなって、和裁をしてたんですけど、その家を片付けるときに着物がたくさん出てきたんです。

で、「これを何とかしたいね」っていう話をしているときにそういうお話が来たので、「じゃあちょっとその先生に会いに行ってみる」って言って、会いに行ったら、すごく気さくな先生で、いろいろやってみたらすごく面白くって、私が着物の魅力にはまってしまって。
一着作ってみたのを、学校のお母さんたちに見てもらったら、みんなが「えっ? 私も欲しい」って言ってくれて。

家でできる仕事なので、国の機構でよろず支援機構とかっていうのがあるんですね。
起業家の方の支援をするっていうのをタダでしてくれるところがあるって聞いたので、そこの扉を開いたら、あれよあれよといろいろ話が進んで、2年半前に事業を始めたんです。

学校のお母さん、今、医療的ケアのお母さんたちに声を掛けて。
ミシンが得意な方には小物づくりをちょっとお願いして、そんなに高いお金であれはできないんですけど、縫うのが苦手な方は着物をほどいて洗うっていうお仕事を、これで1着幾らっていうふうに決めてそれでお願いしたり。

――1年半前から始められて、その前と後とでは結構、ご自身の生活っていうかは、変わりましたよね。

違いますね、うん。もちろん娘の介護をしながらだったりとか、今日みたいに娘がいないときに集中して縫ったりとかするんですけども。
これがストレス発散になってたりとか。
あとは、医療的ケア、そういう支援学校行ってお母さんたちと会って話したりってそういうことはあっても、やっぱり社会に取り残された感っていうのはすごく娘が小さいときからあって。

社会との結びつきというか。
私も税金払いたいとか、そういう思いがあったりとか、いろんな思いがあって、それが今ちょっとできてるっていうのが、ああ、生きているっていうか、自分の人生を歩いてるっていう気持ちになります。

医療的ケア児の家族の語り

家でPC作業などを受けていたが、家にあるピアノを使って、先生と生徒をマッチングするビジネスを自宅で開業することを思い立った

息子を出産して(元の職場に)帰る気満々でした。
勤めていた企業に普通に産休申請しまして、復職する気満々でしたので、自分の荷物も全部置いてですね(笑)。
後輩への引き継ぎも終えて、みんなから「元気な赤ちゃん生んで戻ってきてくださいねー」ということで、気持ちよく送り出していただいて、出産したらこんなことになりましたので、もちろん保育園も見つかるわけもなく、はい。

会社に相談をしましたところ、産休と育休は目一杯取っていいから、その中で何とか続けられる方法を見つけられないかというふうに応援していただいて、1年半ですね。育休産休取って。

それでも、居宅訪問型の、何て言うんでしょうか。訪問看護師さんの資格を持った方が、居宅訪問の保育士として働いてくださるサービスが、ちょうど5年前、息子を出産した年に始まった年だったんです。

それを自分の住んでる自治体で、認可してもらえないかというふうに願っていたんですけれども、残念ながらですね、私の育休・産休期間にはそれが実現せず、今は実現してるんですけれども、もう泣く泣く会社を退職しまして、はい。

で、会社退職した後はその会社から個人の業務委託契約という形で、家でもできるこのパソコンのデータ処理ですとか、原稿を書いたりですとか、そういったことの単発のお仕事をいただいたりとかしながら、社会とのつながりを持っていました。
息子の病状が安定して過ごせるようになったときに、家にこう、ふと見るとですね、お兄ちゃんが使っていたピアノが昼間誰も弾かれない状態で置いてあることに気付きまして。

主人と相談をして家でこのピアノを使って、先生を私たちが採用して、生徒さんを募集をして、マッチングできるようなビジネスって始められないだろうかということを始めて、今ちょうど丸3年たちまして。

息子の介護と育児と家事を、家の中で仕事をすることによって両立させる今のスタイルにたどり着いたということで、一から仕事を起こした形です。
そうでないとなかなか、こういう24時間介護をしてる中で企業に通勤をするということは、大変ハードルが高くて。
今の働き方を、もう自分たちでつくったという形になります。

――おうちで起業されてから家族の役割ですとか、生活スタイルっていうのは変化しましたか。

変わりましたねー。
まず息子が退院して帰ってきて、呼吸器ついてますので、半径2メートル以内ぐらいに、大人がいないといけないという状態です。
私が外に出るのは訪問看護さんがいる間に、ごみを捨てに行くか、銀行に行くか、ちょっとパンを買いに行くかの30分ぐらいの用事でないと、外出ができないので、全ての日常、日用品の買い物は、お父さんと双子の兄に現在委ねられております(笑)。

学校周りのPTAですとかそういったものも、全てお父さんが(笑)やってくれるようになったというのは、劇的な変化ですね、はい。

医療的ケア児の家族の語り

公認会計士の資格を持っていたが、次女のケアが必要で会社に戻ることはできないと思い、かねてから考えていた独立を決意した

上の子のときの育休明けに、子育てしながら仕事してるので。
周り同期がみんな昇進していく中で、私だけやっぱり昇進ができなかったりして。
今の職場で続けていくのは、なかなか無理があるかなっていうのは。

頑張ってる女性の方もいっぱいいるんですけど、そういう方々は、何かを犠牲にされている。
私は犠牲にできるものが、もうこれ以上ないっていうふうに思ったので、今の状態ではちょっともうこれ以上、上にはいけないなと思った中で、自分のプライドを考えたら、もう今の職場にはいられないっていうふうに思っていたので。

どっちにしてもいずれは独立という、自分で細々とでもやっていきたいなって、せっかく資格も取ったしってのは思ってたんですね。
今回、次女の病気のことがあって、もう完全に復帰は無理だと。
ちょっとこの状態で今の職場に戻るのは、いろんな意味で難しいと思って。

そういう意味で独立の背中、次女に押してもらったかなと思っているので。
そこは全然、後悔してない、逆に良かったなと思ってます。

――今も、ぼちぼちっていう感じでお仕事は、なさってらっしゃるんですか。

そうですね、結局次女の関係でいろんなとこに顔を出してく中で、会計士なんです、独立しようと思ってるんですっていうのを、時々話に出すようにしました。
すると、じゃ一緒に仕事しませんかとか、コラム書いてみませんかとかって感じで、今はボランティアなんですけど、そういう感じでこう、簡単なお仕事をいただいたりとかはしてるので。
今まで会計士としてやってきた仕事とは、全然違う方向性なんですけど。
そういうことを生かしながら、できる簡単なお仕事みたいのもいただいたりしてるので、そういうのを今ちょこちょこやってる感じです。

医療的ケア児の家族の語り

復職を希望し保育園を探したが断られた。子どもとの生活も楽しかったが、仕事復帰の気持ちが強くなり、今はフルタイムで働いている

この子が(産まれる)破水する日まで働いてて(笑)。
仕事終わって、そのまま夜破水しちゃったんですけど。
そこから何のあいさつもせずに入院しちゃったので(笑)。
でも、もちろん復帰するつもりでいて。

当時って育休がマックス1年しか取れない、今3年ぐらい取れるじゃないですか。
でもそのとき1年しか取れなかったので、1年たつ頃に、私一応、市役所の保育課に行ったんです。保育園探すところ。
こういう子が入れるとこ、あまりにもうち(ケアが)あり過ぎて、(保育園)ありますかって言ったら、ありませんって。

で、「お母さん」って言って、「こういう子はおうちでお母さんの愛情の下で育つのが一番幸せなんですよ」って言われたときに、ふうん、そうなんだと思って(笑)。
ちょっとびっくりしちゃって。そういうふうに言われて。あー、そうなんだと思って。

この人は、自分の子に障害があったら同じことを思うのかなって思いもあって、もやもやしながら、取りあえずは無理なんだなと思って、一回退職しました。今の職場を。

――じゃ、育休を1年取って。

取って、そのまま預け先がないので、退職しますって言って退職して。
ただ、ずっと病院の付き添いをして、もう全然病院から出られない生活とかをしてる中で、もちろんこの子の母親として過ごすのも楽しかったんですけれども、ずっと悶々としてて。

何とかちゃんママだけの自分だったので、やっぱちょっと働きたいなって思って。
看護師だったので、派遣のバイトってあるじゃないですか。本当に短時間からで。
で、明日この仕事入れますかって電話が来て、明日入れますとか、そんな感じのすごく融通が効く、あ、明日は無理ですとかいう感じの仕事をして。

で、それで少しずつ、調子がいいときとか行き始めて。
で、ちょうどこの子が7歳のとき、2011年に復帰した感じです。正社員で。
少しずつ回数とかを増やしてって。はい。

――例えば午前中2時間来れますかって言われたときに、その2時間はどういうふうにやり繰りをするんですか。

家族だったりとか、大体、夜勤から始めたし。
当直のバイトだったりとか、昼間の半日からとか徐々に始めてって。
でも、家族に協力してもらって、時間作らせてもらって、行きました。

――それはパパさんだったり、お母さん。

そうですね。

――仕事復帰してから、パートタイムに復帰してから、もっと仕事したいみたいな気持ちに変わりましたか。

そうですね。仕事は仕事の大変さがあるんですけど、ずっと24時間子どもと向き合ってるよりかは…。
私の中では、健常な子であろうと障害のある子であろうと、子どもは好きなんですけど、お兄ちゃんのときも職場復帰してるので。
それとこれは別で。
仕事をガッとして、子育ては子育てでガッと向き合うっていう生活のほうが、多分合ってたのかな。

医療的ケア児の家族の語り

生活保護の申請時に、電子レンジ、冷房、車も所有できないと言われたが、どれも生活には必須で主治医が意見書を書いてくれた

生活保護をもらうにしてでも、当時は簡単じゃなかったですね。当時は冷房も駄目、電子レンジも駄目、車も駄目で、「(子どもを)施設に預けてください」って市の担当から言われて。もうちょっと理解不能でしたね、相手が言ってることが。
私は預ける気はもうほんとになかったので。

生活保護をね、(申請)しようと思って。
個人の主治医に相談したら、その主治医の先生が、自分が(意見書を)書くからって言ってくれて、その主治医が話をして。
結局先生は、施設に預けてても、施設ができないようなケアをこのお母さんはやって、この子育ててるのに、行政が守らなくてどうするんだっていうことを言ってくださってみたいで、それで下りたんですよね。

電子レンジも使わせてもらえるようになったし、冷房も使わせてもらえるようになった。
当時はそういう時代ですよね。
なかなかご理解っていうか、こういう世の中じゃなかったんだと思いますね。

生活保護をもらってるおかげで、私は何のお金の心配もなく最後までこの子を育てることができたので、ありがたい制度だなとは思ってますけど。
まあ当時いろいろやってた頃は、不平不満っていうか、怒りと伝わらないむなしさと、いろいろあったと思います。
でも、結果が良ければいいんじゃないでしょうかね。うん。

生活保護のその当時の金額っていうのは、月にどれぐらいだったんでしょう。

多分ですね、20万近くはもらってたと思います。
息子が障害児の加算を別にもらってたので、18万かそれくらいじゃないかなと思いますね。うん。
だから十分ですよね、医療費もかからないし。
この子は後半、医療費まともに加算すると、300万はかかってましたからね。
それの3割って、払えませんよね。2年間も。

生活保護だから、言われますよね。
家にも帰らないし、2年間帰らないし、医療費は莫大にかかるので。
そこで特定慢性疾患※を取ったんですよ、先生が。
だから、行政の絡みというのがですね、慢性疾患が通ったので、慢性疾患で全部補助してもらえて、最後までいただいたんですけど。うん。

※小児慢性特定疾病制度のこと。小児慢性特定疾病に該当する場合、申請により医療費の自己負担分を補助を受けることができる。
詳細は、小児慢性特定疾病情報センターHPを参照ください。