月別アーカイブ: 2023年6月

医療的ケア児の家族の語り

亡くなって半年は何もする気になれなかったが、当時、地域に通える特別支援学校を切望していたことを思い出し、現在設置にむけた活動をしている

いろんなことを話せるようになって(子どもが亡くなったことへの気持ちは)少しずつ時間が解決してくれるのかなーとは思います。今年になって、娘の着てた服をようやく整理できた。3年間たんすに詰まったままだったんですけど、少しずつね、前を向いて歩いてるのかなあと思います。

その中でやっぱり(特別支援学校設置の)署名活動をしてるっていうのが、大きいと思うんですよね。
心残りだったことを変えていく。結構そういうお母さん多いですよね。
風しんの予防接種を受けなかったことで、子どもが障害を負ってしまったから、その風しんの予防接種を浸透させようと頑張ってるお母さんとかいますしね。

子どもが亡くなったことで、自由になる時間があるというものもあるんですけれども、その中でできることを一つ一つやっていくことが、自分に対する供養じゃないかなと思うんですよね。
別に娘のためにはならないですけどね、今さらね。

学校ができたからって、(自分の子が)学校に通えるわけではないんだけど…。
何のためにやってるのとかもよく言われるんだけど、多分、自分のためにやってるんだろうと思います。

――お子さんのことからもう離れたいっていう…思い出すから、つらいから離れたいっていうふうにはならずに。

結構、半年ぐらいは封印されていましたよ。
何もせず、やってたんですけど、小さい子を見るだけで嫌っていうか、思い出したくもないというか、思い出すと泣いちゃうみたいな感じだったんで。

でも、半年ぐらいたって、学校を作りたいと突然思ったんですよねー。だから結構、時間が解決してくれるし、こういう活動を始めているから、救われてる部分が大きいんだと思います。

医療的ケア児の家族の語り

息子が生きているときは自分が強くいなければと泣けなかった。亡くなってから信頼できる人に息子の話をすることで心が癒されることに気づいた

泣いてる暇がないっていうふうに自分も思ってて。
特に旦那と離婚してからはですね、私が守るんだって、私が手となり足となりっていうところがあったので。

まずね、子どものことを話すときに、涙をこうこらえるっていうんですかね。
泣かない習慣を付けてしまってたらしくて、その先生が言われました。
「泣けなくしたのは僕たちだ」って。
「お母さんに背負わせてしまうことが多くて、医療者として、泣けないお母さんにしてしまったのは僕たちの責任だね。ごめんね」って、先生が言われたんですよ。

で、「お母さん、今から(息子のことを)どんどん人に話して、そこを泣ける親になってほしい」って。
「泣くことで悲しみやつらさを流してほしい」って言われたんですけど…ずっと泣けなかったんですよ。

まずできることは、話そうと思って、自分が心を許せる人には、息子のことを、今の勤めてるところもそうですし、学生のときもそうですし、その前に勤めた病院のところでも話すようにしました。
そしたらだんだん心がそうなってきたんですかね。癒されるっていうか。

けど、基本私の中には、そうなってみない(自分の子を失ってみない)と分からない心情っていうのは絶対にあると思ってるので、分かってもらおうとかっていう思いでは話してないんですよね。

私たち、仲間でもいっぱい子どもを亡くしてるお母さんはいらっしゃるんですけど、人それぞれ違うんですよね、受容の仕方が。

私はですね、とっても元気っていうか、心が病んだりとか、ご病気になられたりしてる方もいらっしゃるんですけど、私はほんとに根っから強いのか、逆なんですよね。

もともとの強さっていうのもあるんだと思いますし、もう1つは、後悔がないです。
子どもにああしてやればよかった、こうしてやればよかったっていう後悔がない。
自分より先に死んでしまった子どもがいるということは、とってもつらいんだけれども、一生懸命私はこのときに、もう早く亡くなるかもしれないから、このときに、こういうことをしとこうっていうふうに決めたことを、一つずつ私はやってきたつもりだったので。

医療的ケア児の家族の語り

元夫は息子が亡くなるまでの最後の1週間毎日病院に来てくれた。夫婦としては全うしなかったが、父親として精一杯やってくれた

向こう(前夫)は家庭があったので、いろいろはもちろん言いませんけれども、(息子の)命に関わってくるようなときには、連絡をしてたんですよ。
そのたびに来てくれてたんですよね、彼は。

最後、亡くなる1週間ぐらいの期間、毎日来てくれて。最後の病名がMDS、異形成骨髄性白血病だったんです。それを彼に伝えて、もうおそらく駄目だろうって、分かってたので。

初めてかもしれないね、夫婦で息子のことを真剣に話したのは。うん。
私は、息子が亡くなることは、ほとんど誰にも言ってなかったので、彼に伝えて、「この子を死なせたくない……私はこの子がいなかったら生きていけないから、死なせたくないから助けて」って言ったら、彼は…「逝くか逝かないかを決めるのは、息子自身が決めるんだ」って…だから、それを見守るしかないって言ったんですよね…。

それから毎日、病院に来てくれて、一応、最後の瞬間も連絡はするっていうふうに決めてたので、来る来ないは彼が決める。
で、連絡をしたら来てくれて…そして、最後に抱いてもらってね……。

亡くなったときも、真ん中に息子がベッドで寝てて、両端に彼と私がいたんですけど、ぼろぼろ男泣きに泣きながらですね…「苦労を掛けてすまなかった」って、私と息子におわびの言葉を言ったんですけど…私は、彼にね、謝らないでほしいって。

決して私は、2人で生きてきたことが不幸ではなかったので、夫婦としては縁がなかったけれども、父親としての、できる限りのことはしてもらったと思うので、謝らなくていいって……。

私が最後にできる(のは)、この子に、母として父親に会わせるっていうんですかね。
会いたいと思っても言えないからですね、息子は。
彼に覚えててほしかったんですよね。
あなたの子どもはこれだけ一生懸命生きて、頑張ってるよって。

彼に記憶としてとどめてほしかった。だからもう感謝しかないですね、彼にはね。

医療的ケア児の家族の語り

息子の輸液をやめてお別れするときがきた。なかなか決断できない自分に、医師団が自分たちもその決断を背負っていくと言ってくれ決心できた

息子がMDS(骨髄異形成症候群)と分かって、データがどんどん悪くなってきてて、これ以上、治療というか、輸液を入れてもね、もう効果がない。
それで、4人の先生が私の前に座って…点滴をやめようって言われたんですよね。
それが亡くなる2日前で。

輸液をやめることがどういうことになるのか、私はもう分かってましたので……先生が言ったことは分かるんだけれども……それを承諾できなかった。なかなかその場で……。

そしたら、ある若い先生が、息子は15歳で、「お母さん」って、「15歳で、立派な青年だよね」って。このまま輸液を続けると、もう当時、浮腫んでましたのでね、おしっこが出ないから。「おしっこがこのままずっと出なくて、輸液だけ続けてると、下手すれば顔が変形してきたりする。けど、立派な15歳なんだから、かっこよく死なせてあげようよ」って言ったんですよ……。それでも私は何にも言えなくて、ひたすら泣いてて……。

もう1人の先生が、ここで輸液を(やめる)決断をお母さんだけに背負わせるつもりはないと……「ここにいる主治医全員が、お母さんの背負ってるものを一緒に背負っていくよ」って言われたんですよね……。

それで、その言葉でもう十分だったので、「分かりました」って言って……26日の夜に…輸液をやめました…。「お母さんよく決断したね」って言って(くれて)…。

私は(離婚して)相棒がいなかったので、自分で背負っていく。この子の命の決断っていうものをね…一生懸命、そのときそのとき、主治医の先生と相談しながら。そういう先生に巡り合えたということは…もうほんとにありがたいなと思って。

亡くなった後に、先生から…(私は)とにかく死なないでほしいって言われて……。
息子を、今の医学で救えなかったというのはあるんだけれども…「お母さんに死なれたら、僕たちは小児科の医者としてやっていけないって。だから生き抜いてほしい」って…。
「何かあればいつでも力になるからね」っていうふうに言ってくださって……。

いまだに還暦のお祝いにも呼んでいただいたりとか…心配してくださってとかですね……。
いいドクターといいスタッフに恵まれて、私も子どもも最後まで生活ができたんだろうなとは思いますね。

医療的ケア児の家族の語り

亡くなった娘と家に戻り最後に川の字で寝た。また戻ってきてという思いで、次の妊娠に向け行動を開始し、下の子を授かった (音声のみ)

看護師さんたちと最後のお別れして、皆さんによくお礼を言って、家に1時半とか、夜中に帰ってきて。
もう、娘と一緒にいられる時間っていうのが、葬儀とお通夜が始まっちゃえば、あんまりないなっていうのもあったんで、徹夜して、3人で川の字で寝たりして。

翌朝、家族とか、おじいちゃんおばあちゃんとか、会いに来たりして。
葬儀の準備進めたりとか、まあ、そんなことがあって。

私、本当に娘が、火葬される、炉が閉まるときに、また戻っておいでって言ったんですね。
だから、あんまり、めそめそしてばっかりもいられないなって。
また、本当に娘がこんなうちでもよかったら、また戻ってこれたらいいなと思って。

年齢的に、もし本当に戻ってこれるような感じに、誰か産むんだったら、本当に早く考えないと間に合わないっていう年だったので、そのとき、39(歳)だったのかな。

その5月、6月前頃に、娘が亡くなった、自分が出産した病院の産婦人科にまた通い出して、妊娠の相談して、7月に1回授かったんですけど、その子は流産してしまって。

その後、10月に妊娠して、今下の子が生まれたっていう感じです。
なんで、悲しい気持ちと、前向きな気持ちとがずっと一緒に同居してたっていうか、結構複雑な感じでしたね。

医療的ケア児の家族の語り

アロマのお風呂に入れて楽しめることがあると思った矢先に娘は亡くなった。父親も一緒にいられる日を選んでくれたのか(音声のみ)

――お子さんは、ゆっくり眠るような感じで、苦しくはなかったんでしょうか。

いやあ、最後の心拍が落ちて、結構本当に、息は苦しい時期が長かったかなとは思うんです。病気の会のお母さんとお会いしたときに、その(方の)子も亡くなってしまったんですね、うちよりだいぶ早く。

そのお母さんが、同じような状況になって、先生と話したのが、自分は毎日、病院に来て、娘といろんな話をしてるから、最後のときは分かるから……娘がもういいよって、もう十分こっちを楽しんだからバイバイって逝くときは分かるから、やれることはやってくださいってそのお母さんは言ったっておっしゃってて。

そこはすごく私も、ああ、そうだなって。自分もそうだって。
一緒に泊まったときに、結構強い目で(娘が)自分は生きたいんだって言ってきたのが分かったので、そういうふうに信じてやってきてたんですけど、本当に絶対苦しかったと思うし、よく頑張ったなって、もうそれだけで。
苦しかったけど頑張ったと思います

――そのときは、お母さんだけじゃなくてお父さん。

そうですね。ちょうど日曜日だったので、そういう日を選んだのかなと思いました。

――もういっぱい楽しんだから大丈夫って分かるっていう気持ちだったんですね。

いや、でも、それにしては突然過ぎて。挿管もうまくいったし、これからまた抱っこしたりとか、ちょうどその日に、挿管したままでも、アロマのマッサージとかって大人もするじゃないですか。あれができるっていうのを何かで見たりして。

で、先生にしてもいいかって言ったら、大丈夫だよって言われて、この下半身だけちょっとアロマのお湯に入ったりとか、そんなこともできたりして。機械はつながってるけど、何かできることっていうのは、外に目を向けていけばあるんじゃないかなっていうふうに思った矢先で。

これからまだ楽しいこととかいっぱいあるのに、なんで、今逝っちゃうのって思って。
なんか駄目だよって言ったんですよね。

医療的ケア児の家族の語り

気管挿管が成功し、ほっとしたのもつかの間、娘の心拍が急に下がった。突然のことで受け入れられなかった(音声のみ)

挿管は成功したんです。挿管うまくいって、あ、よかったってほっと一息ついて、ちょっと状態が落ち着いたんですね、一回。私も数日ぶりに、ちょっとほっとした気持ちになって。

日曜日だったんですけど、夕方、一回家に帰って風呂に入ってこようと思って、家にお風呂入りに帰って。
近くの本屋さんで娘に新しい絵本も買ったんですよ。またちょっと(入院が)長くなるから、一緒に読もうかなって、2冊、3冊買って。

私はまた、その後病院に行ったんですけど、夕方6時とかに病院に行って、8時くらいから心拍がだんだんなんかゆっくりだなって思ってたんですけど、まあ、そういうことはこれまでもあったんですね。

あまり過敏にいつもと違うっていうのに反応しないようにはなっていて。
看護師さんも特にそれでどうこうっていうのは思わなくって。
このぐらい、今、授乳で栄養取れてたら、在宅でも大丈夫だねっていう話をその日にしたばっかりだったので、まさかと思ったんですけど、だんだん心拍がちょっとゆっくりになって。

ちょうどそのときにうちの夫が病院に面会に来て、面会に来る途中のバスに乗ったっていうぐらいで、なんかちょっと様子がおかしいっていう先生から、ちょっと(病室の)外に出ててくださいって言われて。

先生が、直接口に、ポンプみたいなので酸素入れてくださったりして、うちの夫が来て、待合で待ってたんですけど、(病室に)入ってくださいって言われて。

そのとき、また(子どもが)戻ってたんですよ。
鎮静剤を入れてるので、ちょっと意識はもうろうとしてるんですけど、でも、それで元に戻ったなと思って。

で、2人で面会してるうちに、またちょっと様子が急に、心拍が緩く、ゆっくりになってきて。でも、そのときも、誰も看護師さんとかもそんなに何かが違うっていうか、慌てふためいた様子もなくて。

誰も、その日にそのまま亡くなるって思ってなかったと思うんですけど。そのまま、もう一回外出ててくださいって言われて。でも、また次に(病室に)戻ったら、またさっきと同じに(娘の状態が)戻ってるんじゃないかなって思ってたんです。

でも、しばらくたって呼ばれて、今度部屋に入ったら、先生から、もう心臓が動いてませんって言われて、マッサージをしていて。あまりに突然のことで、なんかびっくりしてしまって。さっきまで、普通だったのに、なんでこんなことにっていうか。

責める気持ちとかじゃなくて、ちょっと受け入れ難いというか。先生から動いてませんって言われて。

――つらいですね、本当に。

お母さん、抱っこしてあげてくださいって言われて。…それが最後でした。

医療的ケア児の家族の語り

娘は16歳で急変して亡くなった。いつかはと覚悟はしていたものの、その喪失感は大きくしばらく何をみても涙が止まらなかった

娘は2016年に亡くなりました。不思議なんですけどね、2016年の12月に亡くなったんで、そのほんの少し前なんですけど10月中旬が、私の誕生日で(笑)、その誕生日に、娘と一緒にあるテーマパークに行ったんですよね。

娘と一緒に、そのテーマパークに行ったんですけど、私が誕生日だったもので、誕生日おめでとうっていうおめでとうのシールなんかを貼ってもらって、みんながパチパチ拍手してくれたりして(笑)、娘と一緒に行きながらも、すごく楽しい時間を過ごせて。

ちょうどそれから1カ月たったときに、季節の変わり目、11月になると元々ぜんそくもあったもので、たんが多くなってきたんです。そこから体調が少し悪くなってきて、自宅で急変したんですよね。

11月末に急変をして、救急車で運ばれたんですけど、残念ながら12月に亡くなったっていうふうになります。

いつかはきっとこういう日はくるんだろうなっていうことを、娘の障害が、それこそ障害者手帳を取得したときから、絶対に私たちよりも早く亡くなるっていうことは覚悟をして、それこそ16年間子育てをしてきたんですけれど。

やっぱりね、いざ亡くなってみると、昨日まで当たり前のようにいた存在がないっていう、「喪失感」っていう言葉にしてしまうと簡単なんですけど、本当にいないっていうことがこんなに大きなことなんだなっていうふうにあらためて気付いたことと。

それはもう本当に、何とも言えない。何を見ても、涙が出て止まらなかったこと、正直あるんですけれど…。

もうすぐ3年になるんです。これぐらいの時期になるとやっぱり落ち着いてきますよね…。
むしろ娘がこれまで残してくれたいろんなことを、一つ、一つ思い出して、私は娘がこういうことをやったからこそ、自分はちゃんと生きなきゃっていうことを、前向きに生きることもできている。
この語りのデータベースに参加すると決意することもできたのも、やっぱり時間ですよね。

私の経験がたくさんの人に役立つっていうことを、娘もきっと天国で応援してくれているんじゃないかなっていうふうに思ってます。

医療的ケア児の家族の語り

休校中は子どもと過ごす時間が長く外出支援がありがたかった。特別支援学校の授業はYoutubeの配信が一度あったきりだった

――コロナの間、お姉ちゃんも含めて学校が休校だったと思うんですけど、そのときの過ごし方っていうのはどうされてたんですか。

結構うちでずっといると疲れちゃってたんだけれども、たまにヘルパーさんと、あ、ヘルパーは夜、来てくれるんですよね。日中とか、連休明けから6月入るまでがすごく大変だった。
初めの1カ月2カ月は何とかなったんだけど、6月の中旬ぐらいから、徐々に、分散登校とか始まったじゃないですか。連休明けからその1カ月ぐらいが結構、つらかったですね。

で、その間もつらいって感じたときに移動支援を使って、居宅みたいな形でできるっていうの知ったので、それで週1来てもらうようになって、本人と、移動支援の方と出て近所の公園にドッグランがあるんで、犬、見に行ってもらったりとかして、やっとそこでホッとした感じですね。

学校のほうの、オンラインっていうのもYouTubeの動画配信が1回流れただけで、しかも6月入ってからなんです。ちょっと遅かった。
だから校内ICTに関しては、もうちょっとね、いろいろとやってもよかったんじゃないかなっていう意見はあるんですけど、各学校によって違うんですよね。

Twitterに先生たちの動画を配信する学校あれば、そういうことは絶対やらない学校もあって、その管理職の個人情報的な分別の仕方、ものの見方によって、やってる学校とやらない学校っていうのがあったみたいですね。

――お子さんはどういうふうに、その状況を理解したんです?

コロナの間ね。どうだったっけなー。
まんざら嫌でもなさそうでしたけどね。
いろいろ好きなことで、毎日、好き勝手に遊べてたんで。
ちゃんともう月火水木金っていうのはもうね、ちゃんと把握してるんで、大丈夫です、うん。

――月火水木金だけどママと一緒にいられる。

そうそう「おうち、おうち、おうち、おうち、おうち、ぜーんぶおうち」って言って、「はあ」って言って(笑)。おうち大好きだから。

医療的ケア児の家族の語り

コロナ禍で家族全員が在宅となり、弟の医療的ケアを家族で分担できた。家族内で感染者が出た場合のシミュレーションもした

コロナで変わったことは、兄の手洗いの回数が格段に増えた。
大変ありがたいですね。
言うこと聞かないんですよ、手を洗えうがいをしろと、毎日、弟が帰ってきた瞬間から、言ってきてはいるんですけれども、なかなか小学生の男子は受け入れが難しくて、苦戦していたんです。

少し大人になり、感染症がはやる。
そうすると、自分が持ってきてはいけないということを、きちんと自覚するようになったので、学校から帰ってきて、非接触のハンドソープをブーンと出してですね、しっかり洗い、かつ、すぐ風呂に入り、それから家の中に入るようになった。

電車乗って通学してるんですけれども、お父さんが在宅勤務ですので、一番遠出してるのが兄なんですね。
通勤電車混んでますので、そういったところでマスクいっちょで行くわけですから、俺が持ってきてはいけないということで、少しわが家の衛生レベルが上がったということは、大変ありがたく思っております。

あと変わったことは全員家にいるので、ご飯作ることはこれは私の話ですね(笑)。
私が一人で大変なんですけれども、弟に対して、いろいろやってくれます。
吸引だ、体位の交換だ、おむつ替えだ、注入だっていうのは全てお父さんや兄たちが私が手が離せないときにやってくれるので、大変助かっております。
なので、学校が始まったときに行かないでくれと(笑)若干お願いした部分もございますが、始まっちゃったんで、学校行くようになりましたけれども。
なので、良いことのほうが多かったですね。

もう一つ特に変わらないことはなく、コロナで。
いかにこうなっちゃったときにどうするかというのを、今、他の医療従事者さんと一緒に考えておりますが、父がなったとき、兄がなったときをシミュレーションして、どこに電話すればいい、どこに相談すればいいということは、今のところラインがちゃんと見えているという状況になっております。

何かが起きたときにワタワタするのではなく、何かが起きる前に想定をしておくというシミュレーションが、家族の中でできたことっていうのは、コロナから一つ学んだものかなと思ってます。