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医療的ケア児の家族の語り

那覇マラソンに参加した際、日中預かり支援を利用できたり、地元ボランティアの温かい支援を受けたりした

私、マラソン好きなんです。
那覇マラソン走るのに沖縄に行くっていう、友だちと行く、子どもも連れて行く、うちの母もみんなで行くってときに、沖縄にこういう障害のある子を昼間、日中一時支援みたいな制度で預かってくれる、旅行者も預かりますよっていう事業所があることが分かって、そこを使おうと思って。

市役所に電話したら、「そんな旅行中にほかの市町村で使うなんて、今までそんなの聞いたことがない。や、ちょっと無理ですね。それ、何で使うんですか」って言うんです。
だから「あ、マラソン走るとき預けたいんです」って言って(笑)。
「あー、そうですよね、無理ですよね」って言い、思いながら一回切ったんですよ。

しばらくして、数日してからまた(電話)掛かってきて、「お母さん、走ってきてください」って。
要は、その制度を使えるように、他の市町村で使えるように調整してくれたらしくて、すごいうれしかったですね。
ゴリ押ししたわけでもなく、正直に言うことって大事なんだってちょっと思いました(笑)。

ホテルに泊まって、旅行したりするんですけど、そこの現地の看護師さんにマラソン大会走るって言ったら、何かお手伝いできないでしょうか、嫌じゃなければホテルに行って、ご飯食べてる間に、ボランティアさせてもらえませんかとかって言ってくださって。
なんていい人と思って(笑)、お願いしたりして。

大変なこともいっぱいあるけど、真っすぐ生きてれば、うーん、いい人ばっかりに巡り逢います(笑)。
この子と一緒にいると。なんだろう、不思議ですよね。
不思議な力が働いて、いろんな人の優しさに気付いたのもこの子が生まれてからだし、気付かなかっただろうし。
自分の多分ものの見方も変わったかもしれないですね、もしかしたら。

今まで、周りは変わってないのかもしれないけれども、周りの優しさに気付かなかっただけなのかちょっと分かんないですけど、変わった気はします。うん。

――マラソンが好きっておっしゃってたんですけど、マラソンをどのように楽しんでるのか。

マラソンは、1人の時間になれるってことと、無になれる。好きな音楽を聴きながらっていうのが好きですかね。
達成感ももちろんありますけど。完走したっていう。
だけど、速く走ることとか、順位がとかそういうことじゃなくて、やっぱ無になれる時間っていうのはすごい貴重かなって思います。うん。

――マラソンって練習が要るじゃないですか。大会とかに出るには。そういう時間はどうやって確保してるんですか。

子どもが調子いいときに学校行ってる間とか。
時間ってないようで作ればあるので。
だから、練習量は普通の人に比べたら全然短いですけど、ほどよく体動かすと疲れて、また逆にそれがエネルギーになったりするんで。
気分転換が一番おっきいかもしれないです。走ってることって。

医療的ケア児の家族の語り

夜間のスクールに通うため、周りの手を借りた。忙しかったが隙間時間を見つけやりくりする能力が身に着いた

そのときだけは、もう本当に1年ぐらい前から、私が夜間、学校に行けるように体制を整えて、夜の学校は夜7時から始まるんですけれど、1時間ぐらい前には、私が自宅を出ないと学校の授業に恐らく間に合わないだろうっていうこと。

6時に出られるようにするためには、それまでに娘のいろんなケアとかを、ある程度人に任せていたり体調も落ち着いていないと駄目だよねっていうことで、ヘルパーさんとか、訪問看護師さんとか、いろんな人たちにお世話になって、その時間までにある程度体調を整えて。

私が出掛けて、主人はだんだん時間が早く帰ってくるようになったんですけど、やっぱりどんなに遅くても9時ぐらいだったんです。
でも、その時間だと私は出られないので、その(スクールの)ときだけは夜遅くても7時までに帰ってくるようにっていうかたちにスケジュールを組んで。

それでも6時から7時はどうしても空き時間が出てしまう。
お兄ちゃん1人には任せられませんので、そこだけは、ちょっと遠くに住む義理のお父さんやお母さん、私の両親にも手伝ってもらい、主人が帰ってくるまでのほんのわずかな時間だけ、見ていただくような体制を整えて何とか通えるようにしましたねえ。

課題も出るんですけど、課題をする時間が取れなかったり、最初は結構その時間をつくるのがなかなかね、思うようには。
行ったら行ったで授業を受けても、1週間に1回あるので、次の週までには幾つか課題が出るので、その課題もしなくちゃいけない。
でも、その課題をこなす時間、どうやって取るんだろうっていうことを、もうとにかく時間を確保するのがすごく、自分にとっては問題で、それこそ課題で(笑)。

そのうちにだんだん空き時間を見つけるのが上手になっていくんですよね。
そうか、ここの注入と注入をしている間はヘルパーさんにお願いして、私は別の部屋で少し、1時間だけ時間をもらおうと。
空いているこの1時間で、私がこの間、やった取材のテープ起こしをしようとか、この1時間で原稿を書くまでのラフを考えようとか、そういっていろいろと仕事の手順を細分化して、その一つ一つこなすためのスケジュールっていうかたちの管理を考えましたね。

医療的ケア児の家族の語り

懸賞論文が当たり、自分は文章を書くことが得意なのではないかとライタースクールに通い、今の仕事になった

結婚するまでは、普通にOLをしていたんです。
主人が会社員ではあったんですけれど転勤の多い会社で、日本各地をどうしても転々とすることが、ある程度可能性として高いなってことがちょっと分かっていたこともあって。
私は、専業主婦というか、一時期でも固定をしてどこかでフルタイムで働くっていうことがちょっと難しいなと思っていました。

当時は、子供を産むだろうというふうに(笑)、想定をしていたこともあるので、子育てが一段落したら、また働けるようになるかな、ぐらいに考えていたんですけれど、いざ1人目のお兄ちゃんが産まれて次、娘が産まれて、どんどん家族が増えていき。
まあでも、娘が産まれてからは、ちょっと入退院があまりにも多くて、私も24時間介護で掛かりきりで、もう睡眠時間もない。

自分の生活もままならない状態で、経済的な問題もあるんですけど、それ以上に自分の命を守ることのほうが本当に大事だと思っていたので、まず働くっていうことは、気持ちはあったんですけど、ちょっと難しいなっていうふうに思っていて。

でも、娘のある程度障害が分かっても、本当にたくさんの方にお世話になっていることもあって、何か社会に貢献できるようなかたちも含めて働きたいなっていうふうに思っていたもので。
でも、そのためにはどうしたらいいんだろうっていうことを考えたときに、まあ、たまたまなんですけど、公募した懸賞論文ですとか、キャッチフレーズとか、そういったものが、次々に当たってというか入賞して、ちょっとした主婦のお小遣いになっていたんですよね(笑)。

もしかしたら、こういうことも仕事にできるのかな、書くっていうことも仕事にできるかもしれないっていうことを思い始めて。
娘が、小学校1年生に上がったタイミングで、私も、何かの1年生になろうと思って、夜間のライタースクールに通い始めました。

1年間かけて、書くスキルをゆっくりと身に付けていき、出会ったご縁から、少しずつ自宅でできる仕事を増やしていきました。
1日8時間どこかに行って、社員として働くっていうようなことは娘を育てていたときはできなかったので、最初はテープ起こしといって作家さんの取材した原稿のテープを一生懸命文字で起こすような家でできることを始めました。
そのうちに幾つかのデータをまとめたりする仕事のようなもの、その後は、だんだん原稿を書けるようになってくると、自分が取材に行ったものですとか。
コピーライターになるときには、ある程度クライアントの方のご意向を聞いた上で、コピーライティングをさせていただくっていうことの機会は少しずつ自宅でできるようにもなってきましたね。
そういった案件を少しずつ増やしていって、仕事を増やしていきました。

医療的ケア児の家族の語り

医療的ケア児のブログで親の会を知り、そこでリアルな仲間と出会って意気投合し、必要なことを訴える強さを身に着けた

その当時は、いろんな医療ケア児を育てる全国のママたちのブログ読んで、この状態では今後どういう予後になるんだろうみたいなことを見ていった中で、医療的ケア児のブログを愛読してたママが、親の会を立ち上げますっていう表明されて。

私は、IT音痴なためにブログとかSNSとかの見ず知らずの人のコミュニケーションってのはやったことがないし、抵抗があって、ただブログを読むだけだったんです。
でもこれはもう私もそのブログのママに訴えなければ駄目だみたいに思って、親の会に私も参加したいですって表明してね。
で、親の会に行きました。

自分の住んでる区の保健師に、地元の医療的ケア児の親を紹介してくれって頼んでも、個人情報があるから紹介できませんって言って拒否られてたから、本当に孤独な引きこもり生活だったんですけど、その違う地区の親の会に行ったら、自分の区の親たち2人に出会えて。

そこから、リアル仲間がそこにいたんだみたいなね。
本当に、訪問看護に支えられてたけど、やっぱり専門家はあくまでも専門家であって、リアルな当事者の親、そういう人を私は求めてたので、あ、ここにいたんだみたいなね。
すぐにその2人と仲良くなって、意気投合して。

その親の会のママたちすごい進んでて、障害児保育園を誘致するための活動とかやっててね。

私たち仲間も、この誘致活動をしたら、自分たちの区に障害児保育園、開いてもらえるんじゃないかって言って。
で、たまたま自分も含めて3人とも専門職だったために、仕事復帰を望んでたんですね。
じゃあ、やろうって言って。

医療的ケア児の親で、ただ耐えて、ひたすら目の前の医療的ケアや、毎日、過ごすことで精いっぱいだっただけだったんですね。
なんか、被害者のような感じでしたし、本当に受け身な生活でした。
でも、仲間と会ったことで、これじゃ駄目なんだって、本当に思えて。

欲しいものは自分たちで勝ち取る。
勝ち取れなくてもその勝ち取ろうとする経過が大事なんだって言って。
…そっから変わりましたね。

医療的ケア児の家族の語り

療育を利用し、子どもと離れる自分の自由時間が初めてできたとき、近所のスーパー銭湯に行ったことは忘れられない

私の中では障害がある子がいるからこうするべきとか、障害がないからこうするべきとかって違うんじゃないかなって悶々と思ってて。
今思うと、今大変な状況だけれども、仕事復帰して本人も幸せだよっていう姿を見せてあげたい、っていう気持ちもあったのかもしれないですね。

――でも、そのときは保育園が決まらなかったわけですよね。その間はどうしてたんですか。

療育センターみたいな、幼稚園みたいなところに行ってました。
でもそこも、週何回はずっと付き添わなきゃいけなくって、週何回は離れていいよとか、そういう感じでした。

――療育が始まったら、離れていられる時間が少しできましたかね。その時間はどういうふうな使い方をしてたか、覚えてますか。

私、忘れもしないのが、初めて離れていいよって言われたときに行ったのが、スーパー銭湯でした。
今思うと(笑)、スーパー銭湯って、電話出られないじゃないですか。なんかあったときに。なんでそんなとこ選んだのか分かんないんですけど。
本当に近所のスーパー銭湯なんですけど、もちろんゆっくりなんてお風呂に入れたことがなくって、入りたかったんでしょうね。

今思えば、なんでスーパー銭湯(笑)。でも、すっごい、うれしかったですね。迷わずスーパー銭湯に行ってました。
連絡なかったからいいんですけど。
だって、ロッカーに携帯預けてお風呂入っちゃいますもんね。

――裸だしね。

そう(笑)。お風呂入って、マッサージ受けました。
なんてぜいたくな時間なんだろうと思って(笑)。

医療的ケア児の家族の語り

児童発達支援施設に子どもを預けるようになり、気を張って生活していたことに気付き、自分をいたわることも大事だと思った

市内に新しく児童発達支援ができるっていう話を聞いて、そこも(受け入れ)大丈夫ですって、そこは息子だけでいいですよっていうことでした。
最初1日だけ私も付き添いして、その翌週からはもう預けられることになったので、9時から3時まで預けました。

私自身の時間がそこで初めて持てるようになって、週に1回そっちに通って、もう一つのほうは、親子通園で週に1回は通うようになって、2箇所通うようになって。
それがしばらく続いて、去年の4月から息子は幼稚園でいう年少さんの年なので、市内の幼稚園と同じタイプの児童発達支援があって、そこに、幸運にも入れることになって。

でもちょっと週5っていうのは息子的にも、大変だろうなあと思って、そっちに今は週に3回、今までのところは辞めて今、市の児童発達支援に週3回通ってます。

――児童発達支援に行ってから、お子さんの表情だったり、できるようになったこととか、ご自身も少し、時間ができたっていうことで変わったことっていうのはありますか。

そうですね。ほんとにそれはすごくあると思っていて、週に1日だけでも、そのときはほんとに気付かないんですけど、後になって、私こんなに気張ってたんだなっていうのを自分で気付いたんです。
週に1日だけでも、息子のことは心配だけれども、自分も大事だなっていうふうに思うようになりました。
少しでも安心して預けられるところがあって家のこと、今までため続けていたことをできたりとか、少しでもほっとできる時間があったりとか、ご飯が1人で食べられるとか、そういう時間ができただけでも、すごく気持ち的にもありがたいなーとも思いました。

あとはやっぱり、私だけじゃないんだなって。
こんなふうに思うお母さんって私だけじゃないんだな、って思えるようなお母さんやお父さんと会う機会になったっていうのも、すごく大事なことだったなあとは思います。

息子自身も今まで、対大人ばかりだったんです。
病院でもそうですし、私たちもそうだし、訪看さんとかリハビリさんとかも来ていただいてるんですけど、対大人とだけの関係だった。
そこで初めて同じような、小さいお子さんたちに会うことができて、最初はすごいなんか戸惑ってたっぽい、様子を見るっていう感じだったんですけど、だんだんだんだん、やり取りとかも増えてきてますよとかっていうのを聞くと、ああ、よかったんだなっていうふうには思います。

医療的ケア児の家族の語り

成人した娘が、児童館で子どもたちと交流する活動を社会貢献事業として認めてもらい、謝金を娘の口座に振り込んでもらっている

成人式の後何か地域のためにっていうことで、児童館、自分が行っていた小学校の近くの児童館に交流に行くことだったんですね。
自分が成長させてもらった地域に何かできることと言ったら、そこの地域に今、小学校とか行ってる子どもたちに自分のことを伝えていろいろ発見してもらったり、優しい気持ちを培ってもらったり、やっぱりそういうことだなーと思いました。

なので児童館に交流をさせてくださいということで、地元の児童館の館長さんに申し出てました。
実はその館長さんというのが娘が小学校に行ってたときの同級生のお母さんだったんで、非常に話は早かったというメリットはあったんですけれども、今の児童館の子たちもちょっと優しさが欠けてるように思うから、ぜひ来てねって言ってくれて。
それから月に1回の交流をしていたんですね。

今度じゃあ何か仕事っていったときに、あ、そうだ、これを仕事としてできないかなーって思いました。
そのことをまたその児童館の館長さんに相談をしたら、あ、それいいかもしれんということで、他の市内の児童館の館長さんにもその情報を共有してくれて。

で、ま、私もそういういろんな館長さんのとこにも話をしに行ったりとかして、最終的にその館長会から市に対して、児童館の管轄の課に対して要望を上げていただいて児童館ハートフル事業っていうことでそれを事業化してくれて。
娘が市内のどの児童館にもお仕事として交流に行けるっていうふうな形の事業をつくっていただきました。

今も地元の児童館はじめ、他の児童館にも依頼があったら行くっていうふうな形で。
近隣の2箇所の児童館には、月に1回あるいは2カ月に1回ぐらい交流に行って子どもたちといろんな活動をしたりとか、コミュニケーションの機械をみんなに使ってもらったりとか車椅子の体験をしたりとか、いろんなことをしていってます。

もちろん私も一緒に行くんですけれども、お手当は娘の口座に振り込まれるというふうな形で、娘の仕事として。
いろんな人、いろんな関係者から、出会いのチャンスをいただいています。

そこから娘の視線入力の絵を“阿波晩茶”という発酵茶なんですけど、そのパッケージシールに娘の絵をバックに使ってシールを作りたいというふうな話が舞い込んだりとか、外に向けていろいろ活動をしているといろんな人と出会ってそれこそ先ほどのSNSの力っていうのは、そこら辺にはあるかなとは思ってます。

医療的ケア児の家族の語り

「ファッションの仕事や1人暮らしがしたい」という娘に合った施設を探し、今は自立サポートセンターに通っている(音声のみ)

自立サポートセンターは、今はまだ行きだして1ヶ月ぐらいなので、そこのヘルパーさんに慣れてもらうまで、私も先週まで一緒に行ってずっと付き添って、ヘルパーさんたちに吸引の仕方とか排せつの介助の仕方とか、そういったことを覚えてもらって。

県とか市からバリアフリー調査とかそういった依頼が来たりとか、看護大の講座みたいなのに呼ばれたりとか、なんかそういうのがいろいろそこではあるみたいなので、そういったのに先輩たちについて、一緒に行ったりするみたいです、はい。

中学部になったときから、施設見学とかって卒業後をイメージした施設見学とかが始まるんですけど、いろんなところを見て回って今ある既存の市内にあるいろんな事業所さんとか、就労移行支援とか行ったんですけど、もう娘が行きたいところはなくって。

ファッションの仕事がしたいとかやりたいことはある。
だけどそれをどこに行ってすればいいのかな、1人暮らしとかできるのかなっていうのがあったんですけど、そういう自立サポートセンターの存在を学校も知らなかったんですね。

私は医療的ケアの会をやっていて、市の自立支援協議会っていうのに参加してます。
で、そこにたまたまみえた方がそこの方だったのでそういう存在を知ったんですけど、娘と一緒に行ったときに、娘が「あっ、ここだ」っていう感じで。

で、ここで自分が自立していくために必要なスキルとかそういったものを学びたいっていうので「卒業したらもうそこに行きます」っていうのを、はっきり高等部に入ってから先生に娘も伝えて現場実習とかも全部そこでさせていただきました。

医療的ケア児の家族の語り

娘はICTツールを使って、スケジュールと金銭の管理もしているほか、高校卒業後は母の仕事を手伝っている(音声のみ)

今、支援学校の先生たちもICT機器については勉強されてて。

今、娘はiPadとiPhoneとApple Watchを使いながらいろいろコミュニケーションを取ったりとか、自分で好きな音楽聴いたりとかもですし、自分のスケジュールなんかも管理もしてるみたいです、はい。

――スケジュール管理もされてるんですね。

スケジュール管理と、あと金銭管理(笑)
お小遣い帳的なものもiPhoneでやってますね。

――お給料をもらってみたいなこともあるのかなって思ったりもするんですけれども、なんかそういうことは。

まだ今のところはお給料っていう感じではないんですけど。
たまに、コンテストとか。
去年は人工呼吸器ユーザースピーチコンテストっていうのがあって。
それに応募して最優秀賞を頂いてそれで1万円頂いたんですよ。

そういうのとか、自立生活サポートセンター、県外のところからスピーチコンテストで優勝したことで原稿を書いてくれないかっていう、そういうお仕事というか依頼をもらって。
3,000円のQUOカードをもらいましたとか、お給料ではないけどそういうのをちょこちょこ集めたりとか。

月のお小遣いを高校生までは3,000円だったんですけど、社会人になって、今は5,000円お小遣いをあげてて。

あとは私のお仕事をちょこちょこ手伝ったら、これしてくれたら幾らって決めてやったりはしてます。

――すごいですね。お仕事はどんなふうに手伝ってくれたりするんですか。

私が自営業で、着物リメイクっていうお仕事をしてるんですけど、家でできるお仕事なので作品っていうか、商品管理ではないけどパソコンに打ち込んでもらったりとか、袋に詰めてもらったりとか。

そういった手作業だったり、パソコンのちょっとした作業だったり、そういったものを。
あと、オンラインストアとかにも上げるときに、私がしゃべってそれを打ち込んでもらうみたいな、そういったこともちょこっとずつしてもらってます。

医療的ケア児の家族の語り

高校卒業後に障害児を支援する施設がほとんどない。重症度が高いと施設も限られ、卒業後の進路が不安だ(音声のみ)

卒後はまた施設が全く整っていなくてですね、医療的ケアがある子はもう選ぶ余地なし、そういう状況ですね。
医療的ケアがあったらここっていうような、もうそこしかないっていうようなことだったり。

ただそこにどんどん入れられても、もう今でさえ定員オーバーになって。
その定員オーバーを毎日通わずに週3とか週4とか、それぞれが日数を減らして共用することで定員オーバーを何とか保っているというか。そういうところだったりするので。

それだけうちの子が生まれたときの倍ぐらい今、医療的ケア児がいると思うので、その子たちがどんどん卒業してくるわけで。
今のこのキャパではとてもじゃないけど今でさえもうパンパンで大変なので、もう全く回らない状況になることは目に見えていて。

これは住んでいるエリアのお役所とか、国とかそういうところにもうちょっと、考えてもらわないと、どうするのかなっていうところで。
来年にはうちも卒業しなきゃいけないんですけれど、そういった卒後の施設の問題もかなり大きくのしかかってきています。

医療的ケア児を受け入れる施設ではあるんですけれども、やはり家からその施設までの送迎車両に看護師さんが乗らない施設が割と多くて、今3号研修(注)と言ってそういう研修を終えている介護士さんでも吸引や、注入っていうのはできるようになってきています。
その介護士さんを車に乗せて介護士さんがやれる範囲で、車の中の医療行為を行って自宅から施設まで送迎するっていう施設が割と多いんですけど。

わが家で言うならば、吸引、3号研修は咽頭手前までっていう制限があるんですが、わが家は、それこそ嚥下とむせの反射もできないような子なので、気管内挿管、鼻、口から、気管の中にまで管を入れて吸引をしてるような状況の子なんですね。
それはやはり介護士さんでは無理で、看護師さんでないとできない行為だったりすると、それだけで卒後の施設を選ぶ条件がかなり狭くなって。

家からの距離だったり、他いろいろこういう子を見れる施設なのかとか、いろいろ条件があるんですけど、選べるほど施設がないので介護士さんで対応できないような重度、もっともっと重度な子も含めて、やはり卒後の行き場はないなというのが、もう現状ですね、今の。

(注)3号研修とは、平成24年4月「社会福祉士及び介護福祉士法」の一部改正により、介護福祉士及び一定の研修を受けた介護士等が、一定の条件の下で認定特定行為(たんの吸引・経管栄養)を実施できることになった制度で、介護士らがこの認定を受けるために必要な研修である。