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医療的ケア児の家族の語り

入学当初は胃ろうで看護師のケアを受けられたが、経口で食べられるようになると誤嚥が心配と、給食時の親の付き添いを求められた

嚥下(えんげ)の回復が少しずつうちの子始まっていって、吸引器が最初に(学校に)見学に行った頃は、24時間の吸引が必要でしたけど、入学の頃は24時間までいらないかもっていうふうになっていったんです。

ちょいちょい引かなきゃいけないけど、体勢によって何とかキープできる。
でも、吸引がいらなくなってくるっていうことは、じゃあ食べられるんじゃないのっていう。

食べることに関しても、私自身が栄養剤だけで育てていくっていうことに疑問を感じていたので、胃ろうから自分で作ったご飯をとにかく食べさせたかったんです。
自分でいろんな栄養を考えて、例えば便秘気味ってなったら繊維が多いものでとか。

繊維にも不溶性と水溶性があるとか、そういうのを調べながらこの子のより良い状態をつくっていきたいっていうのがすごくあったので、そこは病院のほうとも相談しながら、力を入れていた部分だったんですね。

嚥下の回復のためのリハビリも、病院のPT(理学療法士)さん、OT(作業療法士)さんと相談しながらずっと進めてきたし、その努力があってとは言わないけれど、きっと本人の成長で回復が進んだんだろうなとは思ってますけど。

そのことで逆に学校に入学したときは、栄養剤の注入しか学校は認めていなかったので、胃ろうから注入をしてました。

病院側はもうこれならある程度の形態の食事だったら口から行ってもいいよっていうOKサインがお医者さんからもリハの先生たちからも出たけど、どうしても学校がうんって言わない。

そこに安全があるのか、その責任は誰が取るのかみたいなところで、うまくそこが進まなくて。
結局2年生までは、ほとんど付き添いで登校して、その理由が給食みたいな。

給食を(学校で)出してもらえないので私がお弁当を作って、ちょっと柔らかめの軟飯とか軟菜を作って持っていって食べさせ方も自分で安全確認しながらで。

それをどれだけ先生に伝えていっても先生はなかなか怖いので、受け入れてもらえないみたいな感じの時期だったかな。

医療的ケア児の家族の語り

人工呼吸器をつけていても元気に学校に通えることを示し、いずれ親の付き添いがなくなればと、意地になり高校2年まで付き添った

今、高校2年生になりました。
人工呼吸器を付けているということで、学校には毎日一緒に行って私もずっと学校の中で過ごして、一緒に帰ってくるっていうのが基本なんですけど。

小学校4年生、5年生ぐらいまでは学校のほうが腫れものに触るじゃないけど、やっぱりいつどうなっちゃうか分かんないっていう不安を、学校からすごく強いっていうのを感じていたので、週に3日、まあ多くて4日通う感じでした。

体調も悪くないのに休まなきゃいけないっていうこともないよなと思って、5年生ぐらいからは週5ベースで行ってます。

呼吸器の子どもたちの付き添いっていうのは結局必須だけれども、だから呼吸器の子たちが学校に来る回数が少ない。

学校に来る回数が少ないと学校のほうの受け入れも進まないっていう悪循環みたいなのもあるなって思ったので、じゃあ呼吸器の子でも毎日毎日元気に通えるんだよっていうのを伝えられたら受け入れも良くなるんじゃないかなと思って。

なるべく毎日学校に行くようにして。で、受診は放課後に入れて。
なので、うちの学校の肢体不自由児の中でも出席率はかなりいいほうなんです。

だけど今、高2になって、小5、6、中1、中2、中3の5年間で、何一つ動いてない。
私一人が頑張っても、県って動かないもんなんだなと思って。

例えば「じゃあ、モデルケースとしてやってみましょう」っていうふうにもなっていかないし、だったら、しゃにむに頑張って学校行って無理しなくてもいいかなって、今年は思っていて。

今まではとにかく学校中心、学校を休まないで受診の予定も組むってしていたんですけど、もう今年は何か用事あったら学校休んでもいいし、受診も午前中に入れちゃってもいいし、ゆるゆると行って。

その代わり例えば外の世界とつながることを大事にして、これから高3、卒業、高校を卒業した後の生活につながっていくような方向へ、シフトチェンジしようかなって今年はちょっと思ってます。

医療的ケア児の家族の語り

特別支援学校で娘のケアは看護師では対応できないと言われ、自分が付き添い、トイレも自由に行けず、気持ちを休める暇はなかった

学校っていう空間がとても特殊な場所で、今は違うかもしれないんですけど、当時は学校看護師ができる医療的なケアということに非常に限りがありました。

私の(娘の)場合は医療的なケアがたんの吸引と胃ろうからの経管栄養だったんですけれど、ダンピング症候群を予防するためにトウモロコシでんぷんを入れるという作業が発生するということで、学校看護師はこれは対応できないというふうに言われてしまいまして。

本当にわずか5ccか10ccぐらいのでんぷんを溶いて、胃ろうという所に入れるだけの作業なんですけど、その当時の学校の規定にはなかったんですよね。
今は分かりません。

ただ、これは学校看護師でできる対応ではないというふうに学校長から言われてしまったもので、学校看護師は対応できないというかたちで言われてしまって。

ずっと付き添いが必要だったこと、特に1年間通学籍で通学をしていたもので娘のすぐ横に私がいてということを週3回学校に頑張って通っていたんですけれど、本当にトイレにも自由に行けないようなかたちの中で授業を受ける。

学校看護師がいても、うちだけ対応できないことがあるとお母さんはずっと教室にそのままいてくださいっていうふうに言われることが、ずっと続いてしまうと、私も非常につらいというか(笑)

24時間365日学校に行けるように、体調を整えるために家でもものすごく頑張って、学校でも教員や学校看護師の人たちが安心して娘のケアに当たってもらえるように教育を受ける環境も整えてということで、私なりに努力もしました。

ケアもいろんな人に手伝っていただきながらやっていたんですけど、全然体が休まる暇がないし当たり前ですけど2つ上のお兄ちゃんのことも考えながらの毎日で、気持ちを休める場所がなかったことがいつもいらいらしていたときかもしれないですよね。

医療的ケア児の家族の語り

同僚は自分の子に障害があると知っている。急な休みにも対応してくれ感謝しているが、気を遣われしんどいこともある(音声のみ)

仕事先の人はみんな知ってます。自分の子どもがそういう障害児だっていうことはみんな知ってます。はい。

――生まれて割とすぐに話されたんですか。

そうですね。生まれたときもどうしても数日間は無理やり休まなあかんような状況だったので、ある程度上のほうには話を通してっていう。

――実際に、お仕事の途中で帰らなきゃいけないとか、何日間かは仕事を断らなきゃいけないっていうこともあったんですか。

ありましたね。
どうしても調子が悪くなったら、すぐに帰らしてもらってっていうのもありました。
奥さんのほうがインフルエンザにかかって付き添いができないっていう状況になってくると、数日間はどうしても病院に入れなかったので、その間は自分が休み取ってっていうふうにはしてましたけど。

――仕事先の同僚、上司、部下、あるいは取引先とかいろいろあるのかなと思うんですけど、そういう職場環境上は恵まれてるなとか、あるいはこういうふうにもう少し対応してほしいなとか、何か思われたことはありますか。

いや、そういうのはないですね。比較的自由にさせてもらってるんですけど、逆に気を遣われ過ぎてしんどいなっていうときはあるんで。はい。
普通に接してもらうようにはしてます。はい。

――気を遣われるっていうのは?

過敏っていうんじゃないんですけど、仕事中に奥さんから電話があったら、内容も知らずに帰れよっていう感覚で。はい。
すぐに帰ってやれよって言うんですけど、全然違う用件で掛かってきとんですけどね。はい。
そういうのがあって。
で、その当時仕事場におった人は、ある程度理由を並べないと帰れないとかいう差があったので、その辺はちょっとしんどかったですね。

医療的ケア児の家族の語り

夫に仕事をしてもらわないと生活できない。夫も出世欲や向上心もあるだろうが、私一人でケアを担うのもつらい(音声のみ)

夫についてはやっぱり仕事をしてもらわないと、生活していけないので、そこは大事なんですけど、そっちばっかりになると今度、私が自分で全てをこなすのに、ものすごい大変なんです。
もっと手伝ってほしいっていう気持ちもあったりして、よくそういうところでは、ぶつかったりしますね。

仕事としてのキャリアを伸ばしたいっていう、男の人の野望じゃないですけど、そういうのもあるので、資格を取るためにチャレンジしたりとか、夫は社会人になってからもう一回大学に行きだしたりなんかしたんですけど。

自分のやりたいことを優先させていく夫を見て、私は自分はやりたくてもできない状況にあるし、働きたくたって働けないし、家や子どものことも守ってますので、そういうところで障害児を抱えて、夫婦でやっていくっていうのは、とっても難しいなって考えるところがありますね。

通常のご家庭よりも離婚率が高いなんてよく言われてますけれども、それもほんとにちょっと分かるなと思うところもあります。
こっちも何やってほしいな、こういうときは手を貸してほしいなって期待してしまうところもあるんですけれど、その期待が外れると、怒りもこみ上げてきちゃって、言ってしまって、またそれをきっかけにけんかになったりとか、そういうこともありますね。

夫にも、医療的ケア児を抱えてどうかと聞いてみたんです。
夫としては、家庭と仕事のバランスっていうものを取るのが、すごく難しいっていうことを言っていて、仕事は仕事で手を抜けないので、やっぱりこなさなきゃいけなかったり。
んー、抱えてるものが大きければ、それだけ自分もいっぱいいっぱいになったりすると。
家は家でそういう大変な状況で、妻が大変なのも分かってはいるけど、自分にゆとりがなかったり、やれる状況じゃなかったりっていうところも、夫からしたらあるんで。
なので、その辺のバランスっていうのは、男としてはとても難しいって言っていました。

医療的ケア児の家族の語り

教員で平日も土日も夜しか家にいられず、家では疲れて寝てしまうことも。夫婦ともケアに完璧を求めすぎずにいようと思っている

まず勤務自体は、朝7時半ぐらいに出勤をし、帰宅はそのときにもよるんですけれども、早ければ6時、遅ければ10時ぐらいですかね。休日に関して言うと、部活動の顧問を持っているものですから、土曜日、日曜日か、かなり不定期な状態。基本的には、土曜日は、必ず部活動の指導に行く。日曜日はたまにお休みかなっていうぐらいです。

――そうすると、平日だとしたら6時以降に帰宅されて。またそこで夜、ご自身の睡眠時間っていうのは取れていらっしゃるんでしょうか。どのぐらいありますか。

普段の場合ですと、大体僕は早ければ12時、遅ければ2時ぐらいまで、介護のほうの分担をしていて。
で、そこから先、休ませてもらうようにはしているんです。
けれども、そのときの体力的な部分だったりとかで、だいぶ時間が早まって、自分自身が寝てしまったり、落ちてしまったりとか、そういうふうなことは、結構頻繁にあるんじゃないかなと思います。
あんまりそこの部分で、がちがちにしないようには心掛けてます。

結局、きっちりではなくても、続くことが必要なのかなっていうふうにして考えています。
僕のほうもそういうふうにして、「あ、ごめん、できなかった」っていうふうなときがあってもいいし、逆に妻のほうだって当然、「あ、ごめんなさい、ここは思わずちょっと寝てしまいました」とかっていうふうなのがあっても、お互いにそこは、はい。

息子である彼のほうに、「ありがとう」っていうふうにして言って、その時間は、残念ながら誰もケアをしていないっていうふうな状態が生まれたりしていると思います。

でも、そこまで、駄目だよ駄目だよっていうふうなのが入ってしまうと、きっとこのタイプの生活ってできないかなと思います。うん。
最悪、何かが起こってしまった、そのときに、モニター音で気付けるっていうふうな、最低限そこの担保さえできていれば、後の部分は、少し、抜けがあっても仕方ないやぐらいの気持ちでやらないと、続かないんじゃなのかなって個人的には思っています。
少なくとも今、僕はそういうスタンスで、この生活を続けています。

医療的ケア児の家族の語り

自宅で学習教室を開業した。自分の精神的よりどころとしても、医療的ケア児の親のチャレンジとしても仕事をしたいと思った

――このお仕事を始められたタイミングっていうのは、お子さんが何歳ぐらいのときで、どういうきっかけで始められたんですか。

(自宅での学習教室は、息子が)小学校入学の1年前に始めたんですね。
ちょうど体調が入学に向けて落ち着いてったみたいな感じがあるんですけど、一通りの手術終わって、入院回数も減ったりして、私も生活が少し楽になるかなっていう、今、思えばそういう時期に。
自分自身が、子どものケアで(心が)完全にどっか行っちゃってた時期に、思い付いてるんですね、仕事したほうがいいっていうの。
それはいろんな側面で、仕事をすることが自分にとっては、私にとっては間違いなく、救いになるって感じたので。

まず、自分自身にとってもそうですし、それから自分を完全になくしちゃって、もうただゾンビのように生きている私にケアされている息子にとっても、きっとそうだろうし。
また元気な母が一番いいだろうっていう意味でもそうだし、夫だけが経済力であるっていうときに、これはもう世の中全般の仕事する女性と共通の考えになりますけど、その状態でいいのかって。

自分自身っていうもの、自立感みたいなものとか、逃げ場のない感じとか、あとは、絶対仕事はできないだろうって言われてしまってるかのようなこの環境。
重度障害の医ケアの子で、24時間介助で、医療的ケアもあって、もうあなたは仕事できませんって言われてる、この環境に対しても、社会に対しても、ほんとにそれでいいとみんな思ってるのかっていう(笑)、そういうとこへのチャレンジ精神ですよね。

私と同じように埋もれちゃってるお母さんたちに対して、みんなを勇気付けたり、皆さんのヒントになるような働き方を私が見い出せないかとか、他のお母さんたちも先々トライできるような突破口をつくれないかとか。
そういう思いが、子どもの入学前の時期にわわわーっと自分の中で盛り上がりまして、今のスタイルの仕事をする前にも1つ、パートみたいなのもトライしてみました。

それでも支援してくれる制度がまだまだ整ってないので、この分野に関してはケアラーである母親が就労するっていうのは、なかなか、今現在でもまだ十分ではないって感じてます。
だからこそなんかやらなきゃっていう思いが強くて、とりあえずスタートしてみたいと思って行動起こしたら、こっからはほんとに見えない力の導きじゃないですけど、そんな感じで幸いにもそれを可能にしてくれるような企業さんに出会えたり、そちらの担当の方々が、すごくご理解のある方だったり。
あとは訪問看護さんとかヘルパーさんたちが、後押ししてくださったり、「何とかしてみませんか」って言って、皆さんがフォローしてくださったっていうの、ほんとにそこら辺はラッキーの連鎖で実際、仕事開業する(まで)にこぎつけたというか。

やってみたらやってみたでいろいろとあるんですけどね、決してこれがうまい方法なのかはいまだに分からないどころか、ちょっとなかなかお勧め皆さんにできない。
お母さんたちにこれいい方法あるよって簡単に言えるほど楽じゃないっていう現実は今もあるんですけど。
でもそんな形で、何とかかんとか仕事をするっていう一つの形は、私は今、身を持ってやってみてるっていうとこですね。

医療的ケア児の家族の語り

自分でできる仕事を模索していた矢先、着物リメイクの先生に出会い、地元で起業した。やりがいのある仕事で地域にも貢献したい

本当にタイミング良くというか、私の友達が、「着物リメイクをされてる先生が高齢で後継者を探してるよ」っていうお話があったんですね。
そのときと同じくらいに、私の祖母が亡くなって、和裁をしてたんですけど、その家を片付けるときに着物がたくさん出てきたんです。

で、「これを何とかしたいね」っていう話をしているときにそういうお話が来たので、「じゃあちょっとその先生に会いに行ってみる」って言って、会いに行ったら、すごく気さくな先生で、いろいろやってみたらすごく面白くって、私が着物の魅力にはまってしまって。
一着作ってみたのを、学校のお母さんたちに見てもらったら、みんなが「えっ? 私も欲しい」って言ってくれて。

家でできる仕事なので、国の機構でよろず支援機構とかっていうのがあるんですね。
起業家の方の支援をするっていうのをタダでしてくれるところがあるって聞いたので、そこの扉を開いたら、あれよあれよといろいろ話が進んで、2年半前に事業を始めたんです。

学校のお母さん、今、医療的ケアのお母さんたちに声を掛けて。
ミシンが得意な方には小物づくりをちょっとお願いして、そんなに高いお金であれはできないんですけど、縫うのが苦手な方は着物をほどいて洗うっていうお仕事を、これで1着幾らっていうふうに決めてそれでお願いしたり。

――1年半前から始められて、その前と後とでは結構、ご自身の生活っていうかは、変わりましたよね。

違いますね、うん。もちろん娘の介護をしながらだったりとか、今日みたいに娘がいないときに集中して縫ったりとかするんですけども。
これがストレス発散になってたりとか。
あとは、医療的ケア、そういう支援学校行ってお母さんたちと会って話したりってそういうことはあっても、やっぱり社会に取り残された感っていうのはすごく娘が小さいときからあって。

社会との結びつきというか。
私も税金払いたいとか、そういう思いがあったりとか、いろんな思いがあって、それが今ちょっとできてるっていうのが、ああ、生きているっていうか、自分の人生を歩いてるっていう気持ちになります。

医療的ケア児の家族の語り

家でPC作業などを受けていたが、家にあるピアノを使って、先生と生徒をマッチングするビジネスを自宅で開業することを思い立った

息子を出産して(元の職場に)帰る気満々でした。
勤めていた企業に普通に産休申請しまして、復職する気満々でしたので、自分の荷物も全部置いてですね(笑)。
後輩への引き継ぎも終えて、みんなから「元気な赤ちゃん生んで戻ってきてくださいねー」ということで、気持ちよく送り出していただいて、出産したらこんなことになりましたので、もちろん保育園も見つかるわけもなく、はい。

会社に相談をしましたところ、産休と育休は目一杯取っていいから、その中で何とか続けられる方法を見つけられないかというふうに応援していただいて、1年半ですね。育休産休取って。

それでも、居宅訪問型の、何て言うんでしょうか。訪問看護師さんの資格を持った方が、居宅訪問の保育士として働いてくださるサービスが、ちょうど5年前、息子を出産した年に始まった年だったんです。

それを自分の住んでる自治体で、認可してもらえないかというふうに願っていたんですけれども、残念ながらですね、私の育休・産休期間にはそれが実現せず、今は実現してるんですけれども、もう泣く泣く会社を退職しまして、はい。

で、会社退職した後はその会社から個人の業務委託契約という形で、家でもできるこのパソコンのデータ処理ですとか、原稿を書いたりですとか、そういったことの単発のお仕事をいただいたりとかしながら、社会とのつながりを持っていました。
息子の病状が安定して過ごせるようになったときに、家にこう、ふと見るとですね、お兄ちゃんが使っていたピアノが昼間誰も弾かれない状態で置いてあることに気付きまして。

主人と相談をして家でこのピアノを使って、先生を私たちが採用して、生徒さんを募集をして、マッチングできるようなビジネスって始められないだろうかということを始めて、今ちょうど丸3年たちまして。

息子の介護と育児と家事を、家の中で仕事をすることによって両立させる今のスタイルにたどり着いたということで、一から仕事を起こした形です。
そうでないとなかなか、こういう24時間介護をしてる中で企業に通勤をするということは、大変ハードルが高くて。
今の働き方を、もう自分たちでつくったという形になります。

――おうちで起業されてから家族の役割ですとか、生活スタイルっていうのは変化しましたか。

変わりましたねー。
まず息子が退院して帰ってきて、呼吸器ついてますので、半径2メートル以内ぐらいに、大人がいないといけないという状態です。
私が外に出るのは訪問看護さんがいる間に、ごみを捨てに行くか、銀行に行くか、ちょっとパンを買いに行くかの30分ぐらいの用事でないと、外出ができないので、全ての日常、日用品の買い物は、お父さんと双子の兄に現在委ねられております(笑)。

学校周りのPTAですとかそういったものも、全てお父さんが(笑)やってくれるようになったというのは、劇的な変化ですね、はい。

医療的ケア児の家族の語り

公認会計士の資格を持っていたが、次女のケアが必要で会社に戻ることはできないと思い、かねてから考えていた独立を決意した

上の子のときの育休明けに、子育てしながら仕事してるので。
周り同期がみんな昇進していく中で、私だけやっぱり昇進ができなかったりして。
今の職場で続けていくのは、なかなか無理があるかなっていうのは。

頑張ってる女性の方もいっぱいいるんですけど、そういう方々は、何かを犠牲にされている。
私は犠牲にできるものが、もうこれ以上ないっていうふうに思ったので、今の状態ではちょっともうこれ以上、上にはいけないなと思った中で、自分のプライドを考えたら、もう今の職場にはいられないっていうふうに思っていたので。

どっちにしてもいずれは独立という、自分で細々とでもやっていきたいなって、せっかく資格も取ったしってのは思ってたんですね。
今回、次女の病気のことがあって、もう完全に復帰は無理だと。
ちょっとこの状態で今の職場に戻るのは、いろんな意味で難しいと思って。

そういう意味で独立の背中、次女に押してもらったかなと思っているので。
そこは全然、後悔してない、逆に良かったなと思ってます。

――今も、ぼちぼちっていう感じでお仕事は、なさってらっしゃるんですか。

そうですね、結局次女の関係でいろんなとこに顔を出してく中で、会計士なんです、独立しようと思ってるんですっていうのを、時々話に出すようにしました。
すると、じゃ一緒に仕事しませんかとか、コラム書いてみませんかとかって感じで、今はボランティアなんですけど、そういう感じでこう、簡単なお仕事をいただいたりとかはしてるので。
今まで会計士としてやってきた仕事とは、全然違う方向性なんですけど。
そういうことを生かしながら、できる簡単なお仕事みたいのもいただいたりしてるので、そういうのを今ちょこちょこやってる感じです。