年別アーカイブ: 2023年

医療的ケア児の家族の語り

息子の輸液をやめてお別れするときがきた。なかなか決断できない自分に、医師団が自分たちもその決断を背負っていくと言ってくれ決心できた

息子がMDS(骨髄異形成症候群)と分かって、データがどんどん悪くなってきてて、これ以上、治療というか、輸液を入れてもね、もう効果がない。
それで、4人の先生が私の前に座って…点滴をやめようって言われたんですよね。
それが亡くなる2日前で。

輸液をやめることがどういうことになるのか、私はもう分かってましたので……先生が言ったことは分かるんだけれども……それを承諾できなかった。なかなかその場で……。

そしたら、ある若い先生が、息子は15歳で、「お母さん」って、「15歳で、立派な青年だよね」って。このまま輸液を続けると、もう当時、浮腫んでましたのでね、おしっこが出ないから。「おしっこがこのままずっと出なくて、輸液だけ続けてると、下手すれば顔が変形してきたりする。けど、立派な15歳なんだから、かっこよく死なせてあげようよ」って言ったんですよ……。それでも私は何にも言えなくて、ひたすら泣いてて……。

もう1人の先生が、ここで輸液を(やめる)決断をお母さんだけに背負わせるつもりはないと……「ここにいる主治医全員が、お母さんの背負ってるものを一緒に背負っていくよ」って言われたんですよね……。

それで、その言葉でもう十分だったので、「分かりました」って言って……26日の夜に…輸液をやめました…。「お母さんよく決断したね」って言って(くれて)…。

私は(離婚して)相棒がいなかったので、自分で背負っていく。この子の命の決断っていうものをね…一生懸命、そのときそのとき、主治医の先生と相談しながら。そういう先生に巡り合えたということは…もうほんとにありがたいなと思って。

亡くなった後に、先生から…(私は)とにかく死なないでほしいって言われて……。
息子を、今の医学で救えなかったというのはあるんだけれども…「お母さんに死なれたら、僕たちは小児科の医者としてやっていけないって。だから生き抜いてほしい」って…。
「何かあればいつでも力になるからね」っていうふうに言ってくださって……。

いまだに還暦のお祝いにも呼んでいただいたりとか…心配してくださってとかですね……。
いいドクターといいスタッフに恵まれて、私も子どもも最後まで生活ができたんだろうなとは思いますね。

医療的ケア児の家族の語り

亡くなった娘と家に戻り最後に川の字で寝た。また戻ってきてという思いで、次の妊娠に向け行動を開始し、下の子を授かった (音声のみ)

看護師さんたちと最後のお別れして、皆さんによくお礼を言って、家に1時半とか、夜中に帰ってきて。
もう、娘と一緒にいられる時間っていうのが、葬儀とお通夜が始まっちゃえば、あんまりないなっていうのもあったんで、徹夜して、3人で川の字で寝たりして。

翌朝、家族とか、おじいちゃんおばあちゃんとか、会いに来たりして。
葬儀の準備進めたりとか、まあ、そんなことがあって。

私、本当に娘が、火葬される、炉が閉まるときに、また戻っておいでって言ったんですね。
だから、あんまり、めそめそしてばっかりもいられないなって。
また、本当に娘がこんなうちでもよかったら、また戻ってこれたらいいなと思って。

年齢的に、もし本当に戻ってこれるような感じに、誰か産むんだったら、本当に早く考えないと間に合わないっていう年だったので、そのとき、39(歳)だったのかな。

その5月、6月前頃に、娘が亡くなった、自分が出産した病院の産婦人科にまた通い出して、妊娠の相談して、7月に1回授かったんですけど、その子は流産してしまって。

その後、10月に妊娠して、今下の子が生まれたっていう感じです。
なんで、悲しい気持ちと、前向きな気持ちとがずっと一緒に同居してたっていうか、結構複雑な感じでしたね。

医療的ケア児の家族の語り

アロマのお風呂に入れて楽しめることがあると思った矢先に娘は亡くなった。父親も一緒にいられる日を選んでくれたのか(音声のみ)

――お子さんは、ゆっくり眠るような感じで、苦しくはなかったんでしょうか。

いやあ、最後の心拍が落ちて、結構本当に、息は苦しい時期が長かったかなとは思うんです。病気の会のお母さんとお会いしたときに、その(方の)子も亡くなってしまったんですね、うちよりだいぶ早く。

そのお母さんが、同じような状況になって、先生と話したのが、自分は毎日、病院に来て、娘といろんな話をしてるから、最後のときは分かるから……娘がもういいよって、もう十分こっちを楽しんだからバイバイって逝くときは分かるから、やれることはやってくださいってそのお母さんは言ったっておっしゃってて。

そこはすごく私も、ああ、そうだなって。自分もそうだって。
一緒に泊まったときに、結構強い目で(娘が)自分は生きたいんだって言ってきたのが分かったので、そういうふうに信じてやってきてたんですけど、本当に絶対苦しかったと思うし、よく頑張ったなって、もうそれだけで。
苦しかったけど頑張ったと思います

――そのときは、お母さんだけじゃなくてお父さん。

そうですね。ちょうど日曜日だったので、そういう日を選んだのかなと思いました。

――もういっぱい楽しんだから大丈夫って分かるっていう気持ちだったんですね。

いや、でも、それにしては突然過ぎて。挿管もうまくいったし、これからまた抱っこしたりとか、ちょうどその日に、挿管したままでも、アロマのマッサージとかって大人もするじゃないですか。あれができるっていうのを何かで見たりして。

で、先生にしてもいいかって言ったら、大丈夫だよって言われて、この下半身だけちょっとアロマのお湯に入ったりとか、そんなこともできたりして。機械はつながってるけど、何かできることっていうのは、外に目を向けていけばあるんじゃないかなっていうふうに思った矢先で。

これからまだ楽しいこととかいっぱいあるのに、なんで、今逝っちゃうのって思って。
なんか駄目だよって言ったんですよね。

医療的ケア児の家族の語り

気管挿管が成功し、ほっとしたのもつかの間、娘の心拍が急に下がった。突然のことで受け入れられなかった(音声のみ)

挿管は成功したんです。挿管うまくいって、あ、よかったってほっと一息ついて、ちょっと状態が落ち着いたんですね、一回。私も数日ぶりに、ちょっとほっとした気持ちになって。

日曜日だったんですけど、夕方、一回家に帰って風呂に入ってこようと思って、家にお風呂入りに帰って。
近くの本屋さんで娘に新しい絵本も買ったんですよ。またちょっと(入院が)長くなるから、一緒に読もうかなって、2冊、3冊買って。

私はまた、その後病院に行ったんですけど、夕方6時とかに病院に行って、8時くらいから心拍がだんだんなんかゆっくりだなって思ってたんですけど、まあ、そういうことはこれまでもあったんですね。

あまり過敏にいつもと違うっていうのに反応しないようにはなっていて。
看護師さんも特にそれでどうこうっていうのは思わなくって。
このぐらい、今、授乳で栄養取れてたら、在宅でも大丈夫だねっていう話をその日にしたばっかりだったので、まさかと思ったんですけど、だんだん心拍がちょっとゆっくりになって。

ちょうどそのときにうちの夫が病院に面会に来て、面会に来る途中のバスに乗ったっていうぐらいで、なんかちょっと様子がおかしいっていう先生から、ちょっと(病室の)外に出ててくださいって言われて。

先生が、直接口に、ポンプみたいなので酸素入れてくださったりして、うちの夫が来て、待合で待ってたんですけど、(病室に)入ってくださいって言われて。

そのとき、また(子どもが)戻ってたんですよ。
鎮静剤を入れてるので、ちょっと意識はもうろうとしてるんですけど、でも、それで元に戻ったなと思って。

で、2人で面会してるうちに、またちょっと様子が急に、心拍が緩く、ゆっくりになってきて。でも、そのときも、誰も看護師さんとかもそんなに何かが違うっていうか、慌てふためいた様子もなくて。

誰も、その日にそのまま亡くなるって思ってなかったと思うんですけど。そのまま、もう一回外出ててくださいって言われて。でも、また次に(病室に)戻ったら、またさっきと同じに(娘の状態が)戻ってるんじゃないかなって思ってたんです。

でも、しばらくたって呼ばれて、今度部屋に入ったら、先生から、もう心臓が動いてませんって言われて、マッサージをしていて。あまりに突然のことで、なんかびっくりしてしまって。さっきまで、普通だったのに、なんでこんなことにっていうか。

責める気持ちとかじゃなくて、ちょっと受け入れ難いというか。先生から動いてませんって言われて。

――つらいですね、本当に。

お母さん、抱っこしてあげてくださいって言われて。…それが最後でした。

医療的ケア児の家族の語り

娘は16歳で急変して亡くなった。いつかはと覚悟はしていたものの、その喪失感は大きくしばらく何をみても涙が止まらなかった

娘は2016年に亡くなりました。不思議なんですけどね、2016年の12月に亡くなったんで、そのほんの少し前なんですけど10月中旬が、私の誕生日で(笑)、その誕生日に、娘と一緒にあるテーマパークに行ったんですよね。

娘と一緒に、そのテーマパークに行ったんですけど、私が誕生日だったもので、誕生日おめでとうっていうおめでとうのシールなんかを貼ってもらって、みんながパチパチ拍手してくれたりして(笑)、娘と一緒に行きながらも、すごく楽しい時間を過ごせて。

ちょうどそれから1カ月たったときに、季節の変わり目、11月になると元々ぜんそくもあったもので、たんが多くなってきたんです。そこから体調が少し悪くなってきて、自宅で急変したんですよね。

11月末に急変をして、救急車で運ばれたんですけど、残念ながら12月に亡くなったっていうふうになります。

いつかはきっとこういう日はくるんだろうなっていうことを、娘の障害が、それこそ障害者手帳を取得したときから、絶対に私たちよりも早く亡くなるっていうことは覚悟をして、それこそ16年間子育てをしてきたんですけれど。

やっぱりね、いざ亡くなってみると、昨日まで当たり前のようにいた存在がないっていう、「喪失感」っていう言葉にしてしまうと簡単なんですけど、本当にいないっていうことがこんなに大きなことなんだなっていうふうにあらためて気付いたことと。

それはもう本当に、何とも言えない。何を見ても、涙が出て止まらなかったこと、正直あるんですけれど…。

もうすぐ3年になるんです。これぐらいの時期になるとやっぱり落ち着いてきますよね…。
むしろ娘がこれまで残してくれたいろんなことを、一つ、一つ思い出して、私は娘がこういうことをやったからこそ、自分はちゃんと生きなきゃっていうことを、前向きに生きることもできている。
この語りのデータベースに参加すると決意することもできたのも、やっぱり時間ですよね。

私の経験がたくさんの人に役立つっていうことを、娘もきっと天国で応援してくれているんじゃないかなっていうふうに思ってます。

医療的ケア児の家族の語り

休校中は子どもと過ごす時間が長く外出支援がありがたかった。特別支援学校の授業はYoutubeの配信が一度あったきりだった

――コロナの間、お姉ちゃんも含めて学校が休校だったと思うんですけど、そのときの過ごし方っていうのはどうされてたんですか。

結構うちでずっといると疲れちゃってたんだけれども、たまにヘルパーさんと、あ、ヘルパーは夜、来てくれるんですよね。日中とか、連休明けから6月入るまでがすごく大変だった。
初めの1カ月2カ月は何とかなったんだけど、6月の中旬ぐらいから、徐々に、分散登校とか始まったじゃないですか。連休明けからその1カ月ぐらいが結構、つらかったですね。

で、その間もつらいって感じたときに移動支援を使って、居宅みたいな形でできるっていうの知ったので、それで週1来てもらうようになって、本人と、移動支援の方と出て近所の公園にドッグランがあるんで、犬、見に行ってもらったりとかして、やっとそこでホッとした感じですね。

学校のほうの、オンラインっていうのもYouTubeの動画配信が1回流れただけで、しかも6月入ってからなんです。ちょっと遅かった。
だから校内ICTに関しては、もうちょっとね、いろいろとやってもよかったんじゃないかなっていう意見はあるんですけど、各学校によって違うんですよね。

Twitterに先生たちの動画を配信する学校あれば、そういうことは絶対やらない学校もあって、その管理職の個人情報的な分別の仕方、ものの見方によって、やってる学校とやらない学校っていうのがあったみたいですね。

――お子さんはどういうふうに、その状況を理解したんです?

コロナの間ね。どうだったっけなー。
まんざら嫌でもなさそうでしたけどね。
いろいろ好きなことで、毎日、好き勝手に遊べてたんで。
ちゃんともう月火水木金っていうのはもうね、ちゃんと把握してるんで、大丈夫です、うん。

――月火水木金だけどママと一緒にいられる。

そうそう「おうち、おうち、おうち、おうち、おうち、ぜーんぶおうち」って言って、「はあ」って言って(笑)。おうち大好きだから。

医療的ケア児の家族の語り

コロナ禍で家族全員が在宅となり、弟の医療的ケアを家族で分担できた。家族内で感染者が出た場合のシミュレーションもした

コロナで変わったことは、兄の手洗いの回数が格段に増えた。
大変ありがたいですね。
言うこと聞かないんですよ、手を洗えうがいをしろと、毎日、弟が帰ってきた瞬間から、言ってきてはいるんですけれども、なかなか小学生の男子は受け入れが難しくて、苦戦していたんです。

少し大人になり、感染症がはやる。
そうすると、自分が持ってきてはいけないということを、きちんと自覚するようになったので、学校から帰ってきて、非接触のハンドソープをブーンと出してですね、しっかり洗い、かつ、すぐ風呂に入り、それから家の中に入るようになった。

電車乗って通学してるんですけれども、お父さんが在宅勤務ですので、一番遠出してるのが兄なんですね。
通勤電車混んでますので、そういったところでマスクいっちょで行くわけですから、俺が持ってきてはいけないということで、少しわが家の衛生レベルが上がったということは、大変ありがたく思っております。

あと変わったことは全員家にいるので、ご飯作ることはこれは私の話ですね(笑)。
私が一人で大変なんですけれども、弟に対して、いろいろやってくれます。
吸引だ、体位の交換だ、おむつ替えだ、注入だっていうのは全てお父さんや兄たちが私が手が離せないときにやってくれるので、大変助かっております。
なので、学校が始まったときに行かないでくれと(笑)若干お願いした部分もございますが、始まっちゃったんで、学校行くようになりましたけれども。
なので、良いことのほうが多かったですね。

もう一つ特に変わらないことはなく、コロナで。
いかにこうなっちゃったときにどうするかというのを、今、他の医療従事者さんと一緒に考えておりますが、父がなったとき、兄がなったときをシミュレーションして、どこに電話すればいい、どこに相談すればいいということは、今のところラインがちゃんと見えているという状況になっております。

何かが起きたときにワタワタするのではなく、何かが起きる前に想定をしておくというシミュレーションが、家族の中でできたことっていうのは、コロナから一つ学んだものかなと思ってます。

医療的ケア児の家族の語り

緊急事態宣言下の面会時間は両親どちらか1人1日1時間だった。退院準備のためのケアの練習もあわただしい(音声のみ)

去年の4月に緊急事態宣言なったときから、(面会時間は)両親のどちらか1人2時間だったんですよ、最初。秋かそれぐらいに、さらに短くなって1時間ってなりましたね、うん。

――すごく短いですね。

短いですね。他の子たちも平等に1時間なんですけど、うちほど長く入院してる方っていらっしゃらなくて、皆さん1週間ぐらいで退院されてくんで、そこの事情をくんでほしいなっていう思いは、看護師さんに伝えもしてるし、ほんとまだ思ってる状態ですね。

――面会は基本的には、全部お母さんがされてるんですか。

交互に主人と行って、主人も在宅のときがあったり、今は仕事の合間に、1時間、寄ってる感じですね。

――お姉ちゃんたちとは。

去年の2月までは、コロナの前までは、きょうだい面会を特別に許可してもらって、急変後からなんですけど、月1回ぐらい会えてて。
そのときに、寝たきりで動かない状態のときもあったんで、看護師さんたちが手形を取ったりして、お姉ちゃんと息子と一緒に共同作業ができるようなことを考えてくださって。

お姉ちゃんたちは、その工作を楽しみに面会に通ってたんですけど、コロナが始まってからは、きょうだい面会も一切、認めてもらえないので、1年以上、会ってない状態です。

――今後、退院に向けて、どういうケアがおうちで必要になるっていうふうに説明があるんでしょうか。

そうですね、まず、薬とそのED(経鼻経管チューブ)で栄養を摂るんですけど、その栄養のほうのEDが詰まりやすくって。
病院にいれば先生や看護師さんが何とか通せたり、どうしても駄目なときは、夜間だったら点滴を入れてつないで、翌朝にEDチューブ入れ替えてもらうんですけど、家でなった場合はどうするかっていうことで。
最近になって、胃ろうの検討も始まってるんですけど、なんかまた手術をしなきゃいけないっていうところに、私たち家族はなかなか決心ができないというか。
チューブの管理と自力で排便することもあるんですけど、どうもおなかにガスとかがたまりやすくって、浣腸とブジーのケアをやったり、ブジーってお尻の穴に管を通して、おなかを押すと空気だけが出てくるので、緊張が強いときそれをやると、割とリラックスしてくれるので、そのケアとチューブを固定するテープの貼り替えがあるんです。
低酸素脳症になって、あんまり動かないんですけど、やっぱり嫌なときは、すごい体をよじって首を振ったりするので、それ(浣腸やプジーのケア)を1人でやれるようにならなきゃいけないのが、結構、大変かなと思ってます。

――病院にいる間も、お母さんが今まで練習を?

そうですね。少しずつは、始めてるんですけど、(面会が)1時間しかないので、テープの貼り替えだけやって、もう40分ぐらい過ぎちゃって、最後、抱っこして帰るっていう。すごい慌ただしい時間を過ごしています。

医療的ケア児の家族の語り

自宅と病院、職場が遠く、車で小1時間かかる。急変時、いつ救急車を呼ぶか、病院に行くか親として判断が求められる (音声のみ)

嫌な話、(自分が職場にいるときなら)娘が急変して、病院に行きましたとなったら、楽です。けど、家でどっちつかずっていうのがちょっと困るかなっていう。
困るっていう言い方おかしいんですけど、(職場から)家に帰るのと病院に行くのとだったら、圧倒的に病院のほうが近いので。
家に向かって行ってるのに病院に行きましたっていうんでは困るんで。

――すれ違いになっちゃう。

そうです。どうしても、救急車で行くようになるんですけどね、乗れる人間っていうのが限られてるじゃないですか。
だから、用意もできないままうちの奥さんが病院に走ってしまうので、そこですれ違いを起こすとどうしようもなくなるっていうんですよ。

そのまま病院に向かったらいいっていうんであれば楽に行けるんですけど、中途半端に帰ってきとる中で今から病院に来てっていうんだと、手間というか、段取りに時間が掛かってしまうんで。

――今出たその病院っていうのが、つまりおうちからも40〜50分。1時間弱ぐらいの距離。

はい。

――これまで急変して行くことになったこととか。

救急車に乗った回数だったら、4回ですかね。はい。自分で走ったので2〜3回ってところですかね。はい。

――自分で乗せて運んだこともあるわけですね。

そうです。住んどる地域が田舎なもんで、救急車がすぐに来てくれる状況じゃないときとか、どうしてもあるんですよね。
変な感覚なんですけど、今まで(娘が)しんどくなったんをずっと見てきた上で、このぐらいで救急車を呼んだら逆に迷惑なんじゃないかっていう感覚も出てきてしまったんですよね。
だから、自分で走るっていう選択肢を取ったことが何度もあります。
どこで呼んだらいいのかっていうあいまいさもありますし、このぐらいだったら持ちこたえれるだろうっていう変な慣れも出てきまして。はい。

医療的ケア児の家族の語り

呼吸器のチューブ内に結露した水が気管に流れ込み、子どもの顔色がみるみる変わり、怖い思いをした。予防や対処法を知り、対応している

呼吸器を付けていると小児ということもあって、加温加湿器を付けているんですけれど、加温加湿器って、加湿器は温かい状態で、水と空気が温められている状態のところを通って、管を通って喉元まで来るんです。

その管っていうのは、外側空気(に触れている)というか、体の上だったりお布団の上に載っているものなので、冬場なんかですと特に結露するんですね。

で、角度が悪いと水がガボッと、結露してた管にたまった水が(気管に)ドボドボドボドボッと入ってしまうことがあって、まあ、溺れる状態ですよね。
そうするともう自分でせき込むとかももちろんできないですし、カテーテルで吸引して水は上がってこないですし。
どんどんサチュレーションは下がっていく、顔色は変わっていくっていうのがすごく、一度すごく怖い思いをして。

ただ、変な言い方ですけど、一度経験をしたので、もしなった場合にもどう対処すればいいかっていうのは、そのときの看護師さんと先生の動きを見て学びました。
それで次からは、何度か、それほど大きくではないんですけれど、間違って入ってしまったときにも、こうすれば大丈夫っていうところで対処をするのは覚えていったのはありますね。
ただまあ、入らないのが一番なんですが(笑)

――具体的に、そういったときどういうふうに対処されてるんですか。

そうですね、もう(水が)入ってしまったのは取り出すことはできないので、ある程度はアンビューバックで、ちょっと過呼吸というか、酸素を多めに入れてあげて、呼吸数増やして、たんを上げてあげるっていうところと。

一時的に酸素の流量を増やして、体が楽なようにというか、負担が少ない状態で様子を見てというところなんですけれど、幸い悪化することはなく、今のところ。

先生のお話で、徐々に水は吸収されていくというお話も伺って、そういうのも安心につながっていますね。絶対出さないと危険っていうことではないよって話をしていただいて、時間がたつのを待つしかないですっていうお話もいただいてるので。

――呼吸器のチューブ、回路に結露ができてしまうことへの予防法で、実践されてることあります?

そうですね、いろんなママと話しても、ほかのお母さんたちもやっぱりそれは悩みどころで。やはり入らないように、気温差があると結露をしてしまうので、カバーを付けているお母さんもいらっしゃったり、手作りで、布製の蛇腹のようなものを作ってかぶせてる方もいらっしゃったり。

あとは小まめに払う、水を。小まめに付いた水を、呼吸器を外して吸引の都度払うとか、気が付いたら払うっていうのを、なるべくするというところで、予防だけですね。