年別アーカイブ: 2023年

医療的ケア児の家族の語り

子どもが退院し家族5人で暮らせることが本当に嬉しかったが、上の子の行事や子どもの健診をどうするかなど新たな問題もあった(音声のみ)

2歳3ヶ月でようやく在宅生活に入りました。
やっと家族そろって生活ができる。私も病院の中で2年ぐらいずっと病室で娘と過ごしてて精神的にぎりぎりなところがあって。
プライバシーがないし、夜間も看護師さんがちょくちょく呼吸器チェックに来たり、夜もゆっくりは(できなかった)。

娘が何回も起きるので、夜もゆっくり寝れない。
結構、精神的にぎりぎりなところがあって。
やっと家に帰れて、上2人のお兄ちゃんたちのことも気になってたので、家族5人そろっていうことが、すごくうれしくって、毎日が楽しくって。

家事すらも本当に楽しくっていう生活を送ってたんですけど、家で過ごしてると、例えば、お兄ちゃんの参観日どうしよう?、運動会どうしよう?とか。

娘も外に連れ出したいけど、一人じゃ連れ出せないかなとか、定期健診のときもどうやって連れていこうとか、いろんなことが、その都度その都度、問題が出てきて。

それを一つ一つクリアしていくのに、暮らしにくいなって。
毎日生活していく中でもっといろんなことが、簡単にできるようになるといいなっていうふうに考えながら、自分の中で悶々としながら過ごしてました。

私の場合は、私の両親が歩いて5分もしないところに住んでいたので、だいぶ支えてもらいました。
上の子たちの参観日も、うちの母が来て娘を見るのを代わってくれて。

できるだけお兄ちゃんたちの行事にも顔を出したいと思ってたので、そういうことには、すごく恵まれて、本当、両親には感謝してるんです。
でも、いずれ両親も年老いていくし、ずっと両親に頼っていくわけにはいかないとは考えて。

あとは、地域にこの子がいるっていうことも皆さんに知ってほしかった。
上のお兄ちゃんたちを育ててる中で、地域のつながりとかお友達関係とか大事だっていうのは本当に感じてたので、この子をこの住んでいるところで他のきょうだい児と同じように過ごしたいなっていうのをすごく感じてました。

医療的ケア児の家族の語り

息子が退院し最初の3か月はケアに不慣れで心身ともに参っていた。夫との間でケアの能力差が開いていることにもイライラしていた

(在宅での生活は)最初の3カ月は、付き添い入院を経て帰ってきたんですけど、それでも生活リズムを整えるのと、夫婦の分担っていうのが、最初の3カ月は苦労して。

一番私が爆発したのは、(息子の状態についての夫の理解度)。私は毎日息子と接してたので、息子の状態の把握がどんどんレベルアップしてく。でも、主人は週末しか触れないから、その差がどんどん開いてしまって、息子の状態を話しても主人に通じない。

2週間に1度往診医が来てくれるんで、往診医への対応に、レベルの差がついてしまって。
主人が息子について把握していないことに対して、ものすごくイライラするようになってしまって、…それでウワーッと爆発してしまったことが何度か、最初の3カ月は。

寝られないっていうのが、人間として体にも来るし、精神的にも来るし、でも主人は寝てるっていう、その差とか。

主人は、往診医が来てるときに普段はいないんですけど、その日はたまたまいて。
先生が聞く質問に、私はパッパッパッパと、答えられるけど、主人は全く分からなくて、私と先生がしゃべってる会話を全く理解できない。
そこに(主人自身)自分がぽつんとした孤独。何かのけ者にされてるような感覚っていうか。

そこで自分は親として駄目だって思ったみたいで、もっと息子のこと把握しようっていって、もともと家事はやってくれてたけど、息子のことをどんどんそこからやるようになってくれて。

なので、その最初の3カ月はつらかった。
でも、そこからだんだんペースもできてくるし、いい意味、自分の力の抜き方とか、ここはちょっとサボってもいいかなとか、主人の協力も増えて生活はしやすくなりました。

医療的ケア児の家族の語り

経鼻経腸チューブが抜けると病院で入れ直してもらわねばならない。チューブに触らないようヘルパーに娘の手を握っていてもらった

腸の24時間(持続注入)のEDチューブ(栄養を鼻から腸まで送り込むチューブ)というのは、(入れるのが大変なんです。)
(チューブが抜けると)造影といって、大学病院の造影室とか、レントゲンとか、放射線科になるんでしょうかね、そういう所の機械の前に行かないといけない。
胃に入れるまでのチューブと違って、腸まで届くようにチューブを入れる所を見なければ入れることができなくて。

当時は、鼻にもチューブを入れていたもので、片方の鼻には胃までのチューブ、もう片方の鼻には腸までのチューブというのが入っていた時期があって。

両方の鼻にチューブが入ると、体が不自由だと言われている娘でも、わずかに動く手を使ってチューブを抜くことのすべをだんだん覚えてきて(笑)。

テープで取らないようにやって(固定して)はいるんですけど、何かの弾みで、例えばお風呂に入っているときにテープがふわっと浮いて、たまたま娘がしゅっと手を入れて、チューブが抜けてしまう。

すると、夜中の2時でも、3時でもチューブを入れに、片道30キロの大学病院まで車を走らせて、救急外来に行って急きょ入れてもらうっていうことも2週間に1回ぐらいあった時期もあります。

そのたんびに、抜いてしまった、ああ、と思いながらも、まあでもしようがないな、入れてもらわないと24時間栄養入らないしって。

そこで一番最初に入ったヘルパーに依頼したことは、何もしなくていいと。あのときは確か(ヘルパーには)うちの家事もやってもらえなかったんです。身体の介護というかたちで許可が下りたものですから。

身体(の介護)といっても何かものすごいことを手伝ってもらうわけではなく、娘の手を握っててくださいっていうことを、ヘルパーに依頼しただけなんですよね。
「お願いですから、チューブを取らないように」、来ていただいている間、4時間ぐらいだったんですけど、「とにかく手を握っていてください」っていうことだけを一番最初のヘルパーさんに依頼しました。

そんな感じで24時間(持続で栄養が)入っていたときには、医療的なケアそのものは、たんの吸引だったけど、1日中、1時間おきに必要だったことと、寝ている間も、3時間おきとかに体位交換をしなくてはいけないので、そういった介助の負担が非常にかかっていたことを思い出します 。

医療的ケア児の家族の語り

四六時中、ケアのことが頭から離れない生活に最初は戸惑った。今でも緊張感はあり、気持ちが休まる暇がない(音声のみ)

もう四六時中、そのことが頭から離れないってことはなかったんですね。
今考えると、とっても幸せな生活をしてたなって思うんですけど、何でもできる。何でも自由にできた時間。
仕事に行って、家に帰ってきて、ご飯を作って食べて、休みの日に出掛ける。
当たり前のことですけど、それがもう全くできなくなってしまったんですね。

仕事に行くこともできない、ご飯を食べるにも子どもが泣いてギャーギャー言ってたら、吸引しないといけない、呼吸器の圧を見ないといけないとか、心拍数見ないといけない、呼吸の状態を見ないといけない、ご飯食べる時間がないんですね。

ほんとに何気なく携帯触ってた時間も存在しなくなる。最初はほんとに戸惑ったし、なんでここまで、この子に自分の時間を奪われないといけないんやろかって、思ったのも事実です。

24時間で自分の時間って、寝てる間。
数分の間も家事しないといけない、洗濯を干さないといけない、たたまないといけないとか、いろいろあるから、結局寝てる時間ぐらいっていう日々が、もう何年も続いてますね。

今だと、朝起きてきて主人がまだ出勤しない時間に、私が起きて洗濯して、お風呂場洗ってって家事をこなして、その間主人が見てくれてます。
出勤するわっていうタイミングで変わって、ご飯を胃ろうから注入をしたりとか、準備とか後片付けとか。

自分がご飯食べて、そうこうしてたら注入も終わって、注入のポンプを洗ったり。
そんなんしてたら、訪問看護の方が来られて息子の朝のケアをしてくださって、その間に朝から晩ごはん作ったり、掃除したり、買い物に行ったりとか、訪問看護の方に頼んで出てって。

訪問時間は、1時間半とか2時間とか日によって違いますけど、その時間になったら交代して、また注入したり、かん腸したりガス抜きしたり、呼吸状態見たりとか、いろんなことを確認してたら、あっという間に夕方になってて、次の注入が始まってみたいな状態なので、ほぼほぼ休む時間はなくて。

夜になったら夜になったで、お風呂入れて、お風呂上がったらまた夜のケアをして、また寝かしつけて、常に、呼吸大丈夫かな、呼吸器ちゃんと動いてるかな、注入中もちょっと動いてしまって接続チューブが取れちゃって、布団が栄養剤でビチャビチャになっちゃってみたいなこともよくあるので、ちゃんと付いてるかなとか、一つ一つ確認したりとか。常に息子の体調を気にして、気に掛けてっていう状態が続きます。

医療的ケア児の家族の語り

経鼻栄養は外れたものの、娘は食べることが苦手だった。あやして口が開いた瞬間に入れる形でなんとかペースト食を食べさせた

正直言って、大人になってからは味の好みも出てきたようなんですけれども、当初はとにかく食べるのが嫌な子だったです。
ほんとに(経管栄養の)チューブは取れたものの、泣いて怒って、口は開かないしっていうふうな状態だった。

父に抱っこしてもらって、階段をトントンと動いて口が開いたときに母が口に放り込むとか、あやしながら、口を開いた拍子に、口に入れるみたいなこともしてました。

それはもう小学校ぐらいまで続いてましたけど、食べることは一番彼女の、不得意なこと、一番苦痛なことだったと思います。

地元の小学校に行っていたんですけれども、給食に出るメニューと同じ物を前の日の夜に家で作って、朝、もう一度火を通してミキサーしてとろみを付けてお弁当にして持っていく。
そして、学校で食べさせるというような方法を取っていました。

娘が泣きながら食べるので周りの子たちが、どうしてなんだろうかと、泣いてておかしいって、笑ったりそういうふうなこともあったりしました。
でもだんだん、みんなにも理解してもらって過ごしていったっていうふうなこともあります。

医療的ケア児の家族の語り

酸素のチューブがねじれたりしないか日々、気を付けている。体の動きに伴い必要な酸素量も増えるので毎日、血中酸素濃度を確認する

今はテープで止めずに(チューブの)後ろを、ちょっときつめにテープで仮止めして、取れないようにしてます。
でもしょっちゅう鼻から外れるので、それだけは気を付けて、外れたらまた戻す。
酸素がちゃんと入ってるかなっていうのは見るようにしてます。

すごい動き回るのでチューブがすぐ絡まってしまって、チューブがねじれて酸素が行ってないですよーって、機械にアピールされるので、定期的にチューブのねじれを取って、ちゃんと酸素が入ってるかなっていうのを確認するようにしてます。

――酸素供給機器はどこに置いているんですか。

玄関の近く、構造上、リビングの入り口近くに置いていて。
10メートルぐらいの延長チューブを用意してもらったので、家の中にいるときはリビングとか、行きたいところには行けて動き回ってます。

――その機械自体はすごく大きいですか。

機械が途中で1度変わっていて、当初の機械は、1リットル(毎分)までしか出ない携帯型でした。
バッテリーも充電式があったので、車でそれを持って、旅行に行きますとかもできるような機械だったんですけど。

一度、発熱でサチュレーションが急激に下がって入院になったときがあって、1リットル(毎分)だと供給量が足りないので、大きな機械に変えましょうと。
1歳ぐらいのときなんですけど、そのときに機械を変えて、今5リットル(毎分)まで供給できる、すごい大きな機械になりました。

よく動くようになると、1リットル(毎分)だと本人苦しいみたいなので、1.5(リットル/分)にしたりとか、最高2リットル(毎分)まで、入れていいってことで先生から許可はいただいてる。

私のほうで苦しそうだったら上げるとか、サチュレーション測って、(数値が)下がってきたら、値を上げるってことで調整しながら、今は、やってます。

――お母さんのほうでサチュレーションモニターを購入して、おうちにあって、それで、こまめに見てるっていう感じですかね。

そうですね。
在宅酸素を借りると、業者のほうから先生の指示があれば(サチュレーションの)機械も借りられるので、その機械もあるんです。

でもそれは結構、大きくてうるさくて、常時付けてると、なかなかじゃまなんです。
だから指でぱっちんって挟む子どもでも使えるのを買って、定期的に1日1回ぐらい測るようにして、80(%)は維持されてるのを確認するって感じにしてます。

医療的ケア児の家族の語り

息子は人工呼吸器をつけ体調が安定したが、呼吸器の装着が不快で自ら外してしまい夜中もアラーム音が鳴り響く

1歳6カ月のとき半年入院して、医療的ケアが気管切開と胃ろうになってしまって、(2歳頃)退院したときは一気に医療的ケアのグレードが上がってしまって、本当大変でしたね。

吸引も、ひどいときは3分に1回で、寝られないし、私自身がトイレにも行けないし、ものを食べること、水を飲むことさえもできなくて。

それで、往診チームが、これはまずいって判断して、退院したときから、BiPAPっていう機械(マスク型の人工呼吸器)を設置してくれるんですけど、うちの子、重症心身障害児ですけど、いっちょまえに快不快っていうのが明確な子で。

だから顔に密着してつけるBiPAPって、一度もつけられなかったんですよ。
つけても「イヤ~!」って言って、すぐ取りたがるし。
寝てるときつけられても、今度はリークしちゃったりしてね。

リーク音がうるさくて、こっちもたまったもんじゃない。
結局、人工呼吸器にステップアップしまして。
夜間や昼寝のときに人工呼吸器をつけたり、慢性呼吸器不全なので、具合が悪いときには常時つけとくみたいなことを始めました。

意外に、人工呼吸器がよかったのか、本当に風邪引いてすぐに肺炎ってことにはならなくなりましたし、睡眠時人工呼吸器に切り替えたおかげで、1年後に酸素離脱できたんですよ。ただ、その(酸素の数値が)いつ下がってもいいように、サチュレーションモニターと酸素ボンベを持って。

息子の状態がよく、本当に手応えを感じる一方で、昼夜逆転だったりします。
夜中起きちゃって、起きてる状態だと人工呼吸器つけるのが嫌で、人工呼吸器のホース、投げ飛ばすんですよ、夜中。
だから、私が完全に寝入ってるときに、お湯が顔にカブったり、ホースが顔にバーンって突然、落ちてきたりして。

その夜中のリーク音。外すとアラームが鳴るので、夜中にそれがなってる。
私が熟睡してもその音で近所迷惑になりますので、すぐ止めるっていうね。
人工呼吸器のご利益を得てる一方で、大変な機械ですのでね。

私がシャワー浴びるときに限って人工呼吸器を外して、シャワーとかトイレ入ってる間、すぐに消しに行けなくて、ずっとリーク音が鳴ってるままのこともあります。

医療的ケア児の家族の語り

夜中も吸引が必要で眠れず1歳半で気管切開をした。日中刺激を受けると唾液量が増え、吸引も1日50回程度だったが、手術で今は1日15回程度になった

最近(食道と気管を分ける)手術をしたんですけど、手術する前は吸引を1日50回60回、すごい頻回にしていました。
最近は3分の1ぐらいに減って15回ぐらいですかね。だいぶ減りました。

――どのような手術をされたんですか。

最初は、単純気管切開といって、呼吸がしづらかったので1歳半ぐらいのときに、気管切開をして。
それから安定はしていたんですけど、5歳ぐらいに酸素が安定しない日が続いて。

原因は何かなって調べていく中で、よだれがすごい多い子で、よだれが気管のほうに入り込んで、むせて、酸素が下がったり吸引が増えたりする。

それで、(小学校での)授業もなかなか受けられなかったので、気管と食道を分離する手術をして、よだれが出てしまっても気管に流れるようになったので、吸引がそのおかげで減ったという感じです。

――夜間の吸引、1日50回ぐらい吸引をされてたっていうことだったんですけど、夜間のご家族、睡眠中の状況っていうのを教えていただけますか。

1回目、1歳半で気管切開したんですけど、それまでは、本当に呼吸が苦しくて、夜も全然寝られなかったので、夜中もずっと吸引してるような状態で。
でも1歳半で気管切開をしてから、夜の吸引はほとんどなくなってぐっすり寝るようになりました。

昼、起きているとき、活動しているときに、いろいろ刺激を周りから受けてよだれがすごく多くなる。
お出掛けするのもなかなかできなくて、バギー押しててもちょっと歩くごとに吸引みたいな感じで、それで日中50回ぐらいはありましたね。

医療的ケア児の家族の語り

経鼻経管栄養になったが、食事をミキサーにかけて注入する。自分で子どもに食事を作る喜びがある

経鼻経管栄養になったときに、「もうこの子はご飯を食べられません」っていうのが当たり前みたいな感じで言われたけれども、うちはラコールとかエンシュアとか、使ったことがないんですよね。

最初っから食べることが好きな子だったので、おいしいものを入れたい、おなかに入ったものって香りが上がってきたりするので、毎食これ入れるの私は無理と思って。

交流会に行ったときに、あるお母さんが、「胃ろうでも手作りのご飯をあげたいんだけど、皆さんどう思いますか」みたいな質問をしてる人がいて。

私は胃ろうにすればそういうことできるんだと思ったけど、そのお母さんはほかのお母さんたちから、「え、何でそんなわざわざ面倒くさいことすんの?」とか、「いや、だって処方されたものだったらお金掛かんないんだよ」って言われて、シュンってなってたんです。

胃ろうにすればそういう可能性もあるのかっていうのを、私はそこで、一筋の光じゃないけど、「憧れの胃ろう」みたいになって。

大体みんなが言うのが、「処方されるとお金、保険で下りるんだよ」、「わざわざお金掛けるの?」みたいな話をしてたときに、「いや、子どもの食事って普通お金掛かるよね」って言ったのが、そのお母さんだったんです。
今も一番仲いいんですけど。

あるときそのお母さんが、おうちでバーベキューしてるときに呼んでくれたんです。
こういうふうにミキサーを使えば、注入ができるものも作れるんだよっていうのを試しで作ってくれたのを、そのときは経鼻のチューブだったんだけれども入れてみたら、入った。

その後に何か講習会をした先生が、納豆を胃ろうから入れるっていうのを聞いて、「納豆入れる? じゃあ鼻のチューブから入るのかな」っていって実験してみたら入った。
そういうことをやってるうちに、経鼻経管栄養でもミキサー食できるんじゃない?ってなって、ちょっとずつ始めていったら、体調も一気に良くなってきたんで。

食道破裂をきっかけに胃ろうにして、今はご機嫌でご飯を作ってます。
そういうのも全部、お母さんたち発信ですよね。

医療的ケア児の家族の語り

在宅療養が始まり、自分の自由がなくなった。失敗もあり、息抜きは訪問看護がある間のスーパーでの買い物だった

夜中も含めて均等割で注入があったんです、栄養剤の。
今までは夜勤の看護師さんがやってくれていた時間帯も、(家では)自分が動かなくちゃいけなかったんで、正直いつが昼でいつが夜なのか、もう分かんない感じだったなとは思います。
整えてから退院したつもりではいましたけど、やっぱりこまごましたことって、そこまで完璧にはねえ。

今まで自由に生活してたものが、一気にこの子から離れられないってなったので、すごくつらかったのは覚えてます。
寝たいときに寝られないし、食べたいときに食べられないし、話したいときに話せないしっていう、すごく窮屈な感じで、そういうときって自分に余裕もないので。

例えば、きょうだいに対してどうだったんだろう。夫婦げんかみたいなのもすごくあって、温度差とか。
実際振り返ってみると、みんなが一生懸命だったのは確かだと思うんです。
父は父の役割を、母は母の役割を、兄は兄の役割を一生懸命やってたけど、一人一人の歯車が合ってたかっていうと合っていなくて。

例えば、注入物をポタポタ垂らしてて、その間に洗濯物干しに行って、半分干したところで様子見に来たら、注入物が全部もう注入されちゃってたとか、逆に止まってて1滴も垂れてなかったとか。
吸引チューブを口にくわえさせて離れて、トイレに行って出てきたら抜けてて、ゴボゴボ溺れて若干、(顔色が)黒っぽくなってるとか。

そういうことを主人に話すと「じゃ、こうすればいいじゃん」っていうふうにアイデアはくれるんですけど、「や、そうはうまくいかないんだよ」っていう。
「じゃ、やってみてよ」みたいな感じの、いざこざっていうのはすごくありましたね。

たくさんアイデアは出してくれるし(笑)、工夫も教えてくれるけど、なんかそこがうまくかみ合わない感じで生活をしていました。
そんな中で息を抜けたのが、訪問看護が来てくださってる時間だったかなと思います。

そのときはディズニーランドとかに行くよりも、スーパーに行くことのほうが全然楽しい。スーパーってこんな楽しかったのか、コンビニだけでもウキウキするような、そんな感じの生活だったかなって 。