月別アーカイブ: 2024年10月

医療的ケア児の家族の語り

娘は導尿が必要だが、腰を固定してもらえば自分で導尿ができるよう練習している。周りに声をかけ支えてもらえるようになってほしい

この子は導尿が必要なんですけど、学校でも自分で導尿をするっていうところの教育を、小学校の1年生からずーっと看護師さんがやってくれています。
まずは自分で、鏡で陰部を見てどういう構造なのかとか、どこにチューブを入れるのかとか、入れるにしてもそのチューブのどこを持っていいけど、どこは持っちゃいけないとか、どんなふうに清潔をキープするかとかっていうのを、すごく細かく(教えてもらって)。
もう9年、今、(経験を)積んできてるんですね。
ただ、機能的な問題で彼女は下肢まひなので、ポジションを自分で固定する(体勢を保持する)っていうことができなかったりするから、そこはやっぱり手伝ってもらわなきゃいけないけど。
そのポジションを固定するっていうのは、看護師じゃなくてもできる、資格がなくてもできることなので。
だから、チューブを入れるっていう医療行為だけ自分でできれば、学校卒業した後の就労先で、看護師がいない場所も、もしかしたら選択肢に入るかもしれないとか、そういう意味で結構、(経験を)積んできているかな。
そこまでやってくれるところがあるかどうかは、またこれから探さなきゃいけないし、ほんとは、自分たちでもそういうところ(居場所)をつくりたいとは思ってます。
(娘は)コミュニケーションの部分はほんとにいいので、今後も、知らない人に堂々と話し掛けていくその姿に、ちょっと恥ずかしいなって(笑)思ってしまうこともあるんです。
それでもやっぱり変わらず同じように声を掛けたり、関わりを持ったりっていうことはしてほしいなーとは思ってます。
多分それはこの子の財産なんだなーとは思っていて、強みでもあって、それで人を集めてほしいし、助けてって言えるようになってほしいかなと思います。
なかなか言葉が出にくいので、他愛もないあいさつとかはどんどんできるんですけど、自分が思ってて伝えなきゃって思うことほど、言葉になりにくいので、そこがちょっと今のテーマです。
助けてとか、これやってとかっていう言葉がどんどん出て、たくさんの人に手伝ってもらいながら、支えてもらいながら、生きていけるようになってほしいかなと思ってます。

医療的ケア児の家族の語り

生後半年の頃、ストーマをつくった。子どもが動くと便が漏れてしまうし、パウチの交換に慣れるまで一苦労だった (テキストのみ)

生後1ヶ月も満たないとき、火のついたような泣き方をして、何かおかしいと、一応8000番(こども医療でんわ相談)に電話して、「様子見ましょうか」ってなったんですが、その日の夜突然高熱を出して、一番近い市民病院に行ったんです。

「髄液検査だとか、血液検査とか、尿路感染だとか、いろいろ疑ってみます」みたいな感じだったんですけど、…先生たち「分からない、分からない」の連呼で、しかも先生が廊下で、すごい珍しいし、もう転院になるって、廊下で言ってるの、私たち家族に向けてじゃなく。

授乳もあるし、一緒にいてあげたかったから、何件か近隣で付き添いができる病院を探して、付き添い家族用の宿泊施設もある、症例も少ないながらにも集まっている病院に、自分たちで転院を決めました。
(しばらく入院して)その病院には、月に1回定期的に通うようになってたんですけど、見込んでたとおりに治らなかったんですね。 それでストーマを作ることに決めました。

ストーマ、いざ作ってみると、もうほんとに慣れない。
パウチ交換に発狂しそうになるんです。ほぼ毎日のように漏れる。外に出かけられない。
ストーマの袋は1枚500円なんです。ワンコインランチが飛んでいくと思いながら交換してました。

ストーマの袋代っていうのは、多少なりとも、補助が下りるだろうと素人ながらに思ってたんですけ。補助がある人は1割負担で買えるけれども、いろいろ聞いてみたら、ストーマを閉じる予定がある人は基本的に障害者手帳も出ない。うちの場合、小児慢性特定疾病もないので補助のしようがないと。

最初は1人じゃ替えられないから、突然はがれちゃったら訪問看護の人に電話して替えてもらって、ようやく2~3カ月で1人でも貼り替えられるようになってきたんです。
それで、主人に「やってみる?」って聞いたら、「母親が2~3カ月いろいろ試行錯誤して頑張って、頑張ってこの結果だから、俺がやって、できる自信がない」って言って、結局はがすのはできたけど、貼るのは全部私専門になってました。

――ストーマはどれぐらいの頻度でほんとは貼り替えるものなんですか。

通常は、2~3日に1回。
長い人は4~5日でももつようになってるんですけど、やっぱり子どもってすごい動くので、ずりばいの時期が重なったりすると、ほんとに毎日のように漏れるから。

今となれば貼り替えるのは、全然 専門外の看護師さんよりもうまいし、自信はある。
病院行っても、あたしが貼り替えるもんだって、逆に他の人にさせたくない、荒れちゃうし、って思うくらいになって。
ほんとに習得ですよね。修行です。

医療的ケア児の家族の語り

胃ろうで子どもの「食べる」楽しみを奪われたくなかったのだが、体調が悪化して入院を繰り返すようになったのでようやく決断した

息子はものすごく食べるのが好きだったんですよ。それで食べさせてたのもあったので、私はそのときのお医者さんには大変申し訳ないんですが、「この子の好きなものを奪うんですか」っていうことを言ったんですよね。
唯一好きだって。その頃はまだ首も据わってなくて、やっぱり寝返りができるかできないかで、他の子たちとの発達がいよいよもう違うっていう自覚を持ちつつ、ご飯を作ってあげてたので。
なので、「この子からそういう楽しみを奪わないでください」っていうことを言った記憶はあります。
でも、そのときに、「苦しいんだ」っていうことをお医者さんから言われて。「こうやって誤嚥するっていうのはものすごく苦しいんだよ」って。大人がこうやって気管に物が入っちゃっても、涙が出るぐらいむせるでしょうって。
その、むせることがなかったので、うちの息子は。「でも、むせてないほうが危ないんだよ」っていうことをすごい言われて。それで、すごく、いら立ちを隠さずに出していた記憶はあります。
ただ、やっぱりもう入院しちゃったんですよね、そのときに。それが1回2回じゃなくて、もう、そのたんびに、結構、入院したりとかがあって。
これはもう駄目なんだなと思って入院して、鼻から管を入れるようになったんですが、鼻から管を入れてからも、今度、胃ろうに行くまでのステップに踏み出せなくて、本当は胃ろうのほうが楽だっていうのもその先生に教えてもらったんですけど。
でも、手術をしたことがない子だったので、てんかんでどんなに、その脳波が悪くても一回も手術をしたことがなくって、それでって思ったんですけど。
それもまた、管を入れてて、逆流をしたか何かで、結構、調子が悪くなって、やっぱり入院を繰り返すようになってから、ああ、これは駄目なんだと思って、胃ろうにしたんですよね。それが小学校2年生のときかな。

医療的ケア児の家族の語り

経鼻栄養で誤嚥性肺炎を繰り返し、胃ろうを勧められたが、口から食べてくれることに希望を持っていたのでしばらく抵抗していた

帰ってきて最初の夏ぐらいに、初めて肺炎になって、そこからですね。
どうしても、飲み込む力が、弱かったので、それまでミルクも鼻からのチューブで入れてたんですけれども、消化も悪かったりしてどうしても吐いてしまって、それが肺のほうに行って誤嚥(ごえん)性肺炎を起こす。
唾液がうまく飲み込めなくて、またそれが肺に入って肺炎になるっていうのが、もうそこからスタートして、肺炎になる、入院する、2週間して帰ってくる、また3カ月後に肺炎になるっていうのを、もうずーっと繰り返すようになってしまって。
病院のほうからは、「おなかに胃ろうを作ってやったらどうか」って言われたんですけど、まだそのときの私たちは、口から食べてくれるっていうことに希望を持ってたので、どうしてもやりたくなくて、「やりません」っていうふうに言って。
ただもう肺炎がもうとにかく治らなくなってしまって、「このままだと肺が駄目になってしまうよ」っていうふうに先生に言われて。
それまでは鼻から胃までチューブを入れてたんですけど、じゃあ胃ではなくて腸まで入れるチューブにしようっていうふうにやったんですけど、それがやっぱりあまり合わなくて効果がなくて、結局、1歳6カ月のときに、胃ろうの手術をしました。
それでいったんは、誤嚥がだいぶ減ったので肺炎の機会も減りましたし、肺炎になっても、おうちで何とか過ごせるように治してっていうふうにできてたんですけれども。

医療的ケア児の家族の語り

経鼻チューブの挿入は「苦しい」と娘が訴えるので、就学前に見た目がすっきりして管理しやすい胃ろうの造設に踏み切った

――あと、鼻から注入をずっとされてる感じですか。鼻から栄養ではなく、胃ろうに?

もう小学校に上がるときに胃ろうにしました。鼻からマーゲンチューブを入れていたときにはやっぱり抜けることが多くって。やっぱり娘はこう入れるのも結構苦しいんですよね。鼻から入れるのが。
だから、もう小学校に上がる前の3月、本当に入学式の直前に胃ろうの手術をしたんですけど、その直前ぐらいはもう自分でマーゲンチューブも入れていました、娘が。自分の、こう、飲み込みながら、「人がすると苦しい」って言って、「痛い」って言って。
そのくらい入れるのって大変なんだなと思って。
それで、当時、少しずつ大学病院とかでも胃ろうを勧められる先生がやっぱり増えてきて、胃ろうの子たちってちょっとずつ増えてたんですね。
だから、そういう、お母さんたちに聞いたら「もう管理がすごく楽だし、本人も見た目もやっぱりすっきりするからいいんじゃない? 女の子だし」っていうのを助言もらって。
小学校に上がるのにたくさんのお友達の中で、また、なんか手が当たって抜けちゃったりとか、そういうことも考えたので、すっきりして入学しようかっていうことで胃ろう造設しました。

医療的ケア児の家族の語り

1時間かけて経鼻で与えたわずかなミルクも吐き戻してしまうため、胃食道逆流症の手術をし、退院後のことを考え胃ろうも造設した

鼻注(鼻からのチューブで注入)をしてたんですけれども、ミルクのためにですね。鼻注をしても、がっとすぐ吐いてしまう。でも、赤ちゃんは胃がとっくりの形してるから、よく吐くんだよっていうふうに言われてたので、そういうものなのかと思ったんですが、あまりにもあげた分全部出しますし、おかしいな、おかしいなっていうふうに思いながら。

実際のところ、本当にミルクが全然、体の栄養になっていかないんですね。もうほんとに点滴だけ、点滴からが栄養っていうところがあったので、そっちのほうが私としては心理的に楽で。
なぜかというと、1時間かけて、ほんとに数十ccを一生懸命あげるんです。飲め飲めって。それなのに、ちょっとしたら、またごぼって吐いてとかで。
消化ができないからっていうことで、こう何回も2時間おきとか、あ、3時間おきですね。3時間おきに、やるんですけれど、それが全然難しくなりまして。
点滴の形のようなもので、ミルクを点滴のように、3秒に1滴っていう感じで、速さをコントロールして、注入していく。そして、消化と同時に少しずつっていうふうな感じをやるんですけれど、それも難しかったりもしてたんです。
結局、一日に大きくなる栄養素が取れないので、時間コントロールですね。何時間にこんだけ、何mlのミルクを与えなくちゃいけない。つまり、一番密になったのは、2時間おきに何ccをあげないといけないっていうふうだったんですね。
その2時間おきにっていうのが終わるのが、1時間かけてばらすんですね。だから、1時間かけて与えて、1時間のインターバル。それが24時間なんで12回、一日12回あったんです。ここに、寝れないっていう、この過酷さがあったんですね。

出産してすぐに動脈管開存(の手術)で、心臓のほうは、肥大してたものが、それで元に戻ったんですね。これでやっと心臓の負担が、あれやから、食べれるようになるかなと思ったら、今度はどんどん逆流して。
もうとてつもなく、もう逆流してくるのでっていうことで、胃食道逆流症じゃないかっていうことで、胃と食道のここら辺をきゅっと縛るっていう手術なんですけれど、その手術をしたんですね。
全く縛ると上から入ってこないからっていって、上からはそれなりに、流れるけれど、下から逆流するのを防ぐぐらいの、開けますね。と同時に、あまりにも鼻注では大変なので、胃ろうをしましょうと言われまして、同じ時に手術で胃ろうの造設もしました。
そこから鼻注の困難、苦難さから解放されまして。やっぱり鼻注っていうのは、ここでテープをこう貼るし、抜けたらこう、入れたりするのも、将来、自宅に帰るんならば、お母さんがしなくちゃいけないって言われるんですけれど。
それがすごく怖くて私、ようできなかったんですね。…大人だって、鼻からの、何か胃カメラとかって、それだけでも抵抗があるのに、子どもにそれを私がするなんていうのは。
それも抜くたびにっていうふうに言われたので、そんなことって思いまして。で、胃ろうの造設しました。

医療的ケア児の家族の語り

生後2カ月でミルクにむせるようになり経鼻チューブが必要になった。子どもは一生チューブでご飯を食べるのだと知り衝撃を受けた

なんか通常、多分2カ月ぐらいで、他のお子さんたちはみんな、同じ病気の子でも退院をしていくんです。
なので、ICUで次々、隣のベッドの子は変わっていくけど、うちの子は、髄膜炎を起こしてしまって、頭の中、要は髄液の中に何かこう、菌が入ってしまって、その菌を叩くための抗生剤を選んでみたいなのの、繰り返しがずーっとあって。
二分脊椎と水頭症とセットになってる、そのキアリ奇形っていう小脳の奇形の病気なんですけど。
そこの部分の症状が強く出て、生後2カ月のときに、抱っこができるようになっていて、いろんな管は付いてるけど抱っこをしながらミルクをあげてたら、すごくむせこむようになったんです。

先生たちはもう多分ピンときてたんだと思うんですけど、私たちはもう素人だったので、なんか風邪ひいちゃったのかなぐらいに思ってたんですけど、結局、飲み込みができなくなり始めてた。

もう翌日に病院に行ったときには、鼻からチューブが入っていて、「お母さん、この子は飲み込む嚥下(えんげ)が難しいタイプの子なのかも」っていうふうに言われて、最初はいまいち理解できていなくて。
なんか手術をしたからちょっと、…落ち着くまでは(嚥下が)下手になったのかなぐらいに思ってたんですけど、「いやいや、多分ずっと飲み込むことは難しいと思うよ」っていうふうに看護師さんたちからも聞いて、なんか衝撃でしたね。
飲み込めなくなる人間がいるっていうことに、想像もしてなかったので、この子は一生、鼻からチューブでご飯を食べるんだって思って、衝撃を受けたのは覚えてます。はい。

医療的ケア児の家族の語り

子どもは嚥下ができず、唾液が肺に入り込んでしまう状態で、感染症でICUに入ることを繰り返すうち、人工呼吸器が必要になった

3,200グラムぐらいで生まれてきて、1歳半ぐらいまで障害があるとも思っていなくて、保育園に入って元気に過ごしていたんですが、2歳半を過ぎた頃から、ちょっと…落ち着きがなくなってきたんですよね。
なんかちょっと、聞き分けがなくなったり、怯えたり。反抗期かなと思ってたんですけれども、ちょっとだんだんおかしくなってきて。それで病院に連れてって検査をしたのが3歳。そして付いた診断名が、睡眠時無呼吸症候群。
それで、夜間にBiPAP(マスク型人工呼吸器)を付けましょうとか、専門医に診てもらいましょうとかいうことになって予約をしたんですけれども。
その前、その専門医の予約がなかなか取れなくて、夜間に、BiPAPを付けて待機してるような状態のときに、突然、呼吸が止まってしまって、最初に、実家の近くの…病院に運び込まれて、そこでついた診断名は脳症ということで。
風邪、肺炎から来て、呼吸が持たないから、ちょっとICUに入れてもらって。そこで2週間ぐらいICUにいて、その後2週間、私も泊まり込んで、回復して退院はしてきたんですけれども。

3歳の秋ぐらいに、やっぱり風邪を引いて。そうすると、もう呼吸が持たないので、そのまま普通に「風邪引きました、鼻水出ました」じゃあ済まなくなってきて。
「風邪を引きました、ICUに入って挿管されます」で、2週間ぐらいやっぱりいて、まあよくなってきたから、じゃあ挿管を抜いて、普通の病室で2週間、お母さんは泊まり込みみたいな生活をして。
2週間も病院にいると、やっぱなんか歩けなくなって、筋肉は弱くなってくる。ふらっとはしてるんですけど、またそれでも一応、退院してまた保育所に行って。
そしたら、またすぐに、2週間ぐらいでまた病気に、風邪にかかってしまって。風邪というか、アデノウイルス? 何だっけな。なんか、感染症でウイルスの病気で。
それにかかってしまったときに、またやっぱり「肺炎になりました、ICUに入りました」で、そこでだいぶ肺炎もよくなったから、「じゃあ、挿管を抜きましょう」っていうときになって、挿管が抜けなくなってしまったというか。

呼吸がもう人工呼吸器じゃないと無理というか、嚥下(えんげ)ができなくなってきて、どうしても唾液が肺に入り込んじゃうので、ちょっとどうしても抜けないってことになって「気管切開の手術をしましょう」っていうか。
気管支鏡の専門医に来てもらって診てもらったところ、「これは、気管切開をするしかありません」みたいに言われてしまって、気管切開を受けることにしました。

医療的ケア児の家族の語り

超低出生体重児で生まれた子どもは、慢性肺疾患のためうまく排出できない二酸化炭素を、人工呼吸器を使って体外に出す必要がある

―お子さんの診断名とか、疾患名みたいなものは、肺の、肺疾患っていうこと?

そうですね、小児慢性肺疾患っていうひとくくりになるんですけど、詳しくいうと、肺がうまく膨らんだりしぼんだりできなくって、二酸化炭素がどんどんたまっていく。だから、CTとか撮ると、肺にいっぱい空気がたまってる感じになる病気で。
それで呼吸器を使って、二酸化炭素を排出する。呼吸、正常に肺を動かして、二酸化炭素を出すと、やっぱり体自体も楽にはなる。
ただ、肺が悪いと…心臓にもやっぱり負担かかってて。心臓病っていうのはないんですけど、頻脈ですね。普通の子よりもやっぱり心臓の働きが早い、心拍がすごい早かったり。
呼吸も、呼吸回数も多いんで、そっちに体力が使ったりとか、そういうのがあるんですけど。一番は肺ですね。肺からもう全体がって感じの病気です。

呼吸器を外せるようになったのが…はじめ3歳ぐらいで1回外せてたんですけど、胃ろうの手術してから、全身麻酔の影響もあったのか、また呼吸器と酸素が外せなくなって。
そこから…今まででちょこちょこ呼吸器外して、つけて、外して、つけてってやっていきながら、外せる時間がどんどん今は延びてきてるんですけど。
学校では、やっぱり24時間呼吸器はあったほうがいいっていう主治医の指示があるんで、学校では呼吸器をつけて生活を送らないといけないので。
学校行くまでは呼吸器を外して、台車に乗せて、呼吸器と吸引器、モニターと注入セット、水分注入とお昼の注入を台車に乗せて持っていきます。

日帰りで遊びに行ったりとかするときは、もう呼吸器は持っていかず、酸素を車に乗せといて、酸素ボンベを。苦しくなったら、もうしんどくなったら、帰る勢いで行って、遊びます。

医療的ケア児の家族の語り

喉頭軟化症があり、言われるがまま気管切開の手術をした。気管切開や吸引とは何のことかよくわかっていなかった (音声のみ)

NICUに入院中に、やっぱりちょっと呼吸がしんどくなることがあって、喉頭軟化症っていう、気管が柔らかいので、ちょっとペコペコしてしまって、泣いたりすると息がちょっとしんどくなっちゃうので気管切開が必要って、最初に言われたんですね。
気管切開の手術を、生きるためにはそうしたほうがいいということだったので、受け入れて気管切開をする。
でも、初めて気管切開っていう言葉を聞くし、吸引って言われても、ぼんやり、何のことやろう?みたいな感じやったんですけど、言われるがままというか。
もうしないといけないと言われたら、しないといけないだろうしっていう形で、手術をして。
吸引っていうのは必要になるから、こうやって練習してくださいっていうことで、その後GCUに移動して、おうちに帰るための練習ってことで、吸引の練習とか、胃ろうも気管切開と一緒に作ったんですけど、胃ろうのケアの方法とかを学んで帰るっていう形で。
なので、ある程度はその病院で、入院期間中にトレーニングしていただいたので、ある程度のことはその期間でできるようになったと思います。

その説明をされたときに医師に、やっぱり命の保障…命が一番守られる方法が気管切開をすること(と言われた)。
で、気管切開をしたからといって、それが永遠に続くわけではなくて、大きくなって喉頭軟化症が改善されれば、気管切開を閉じることもできる。
ただ、今の段階でもし、息が苦しくなって挿管するってなったときに、相当高度な技術がいるので、そこら辺の経験の浅い医者では多分挿管できないって言われて。
となると、やっぱり、命の保障ができない。だから、命を一番に考えるならば気管切開をしてほしいってこと言われたので、ま、そこに関してはもう受け入れざるを得なかったので。
不安もありますし、なんでっていう思いはありましたけど、もう選択肢がない以上はやらざるを得ないって思ったので、別にもう迷うことはなく、命を最優先にお願いしますということで、お願いしたと思います。