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医療的ケア児の家族の語り

手術前に「怖いけど、頑張る」と子どもが思いを伝えてくれた。そのやりとりがなかったら今でも悩んでいたと思う

―恨まれたら母が責任を持つっていう、まあ、そういう決断のところでちょっと続きとしてお伺いたいんですけど、お子さんはどう思ってるんだろうっていうのはどうでしょうか。

A:うちの子は、そうですね、コミュニケーションが今、取れるんで…ただ、しょっちゅうしょっちゅう、スラスラとコミュニケーション取れるわけじゃないんですね。
さっきお伝えしたように、もうどこも動いてないように見えるような彼、しゃべることもできないですから、じゃあどうやってって思われると思うんですけど。
ある方法*がありまして、それでしょっちゅうはできないけれども、その方法ができてすぐに私はそれを聞いたんです。コミュニケーションの先生の専門のところに行って、そういうコミュニケーションの取り方があると。
で、やっぱり一番に聞きたかったのは私もそのことで、手術どうなんだろうって。手術を受ける前だったんですね。気管切開のほうだったかな。「怖いけど、ママがいいって言ってくれるものだから頑張る」って言ってくれたんですね、そのときに。
ま、それ聞いてですね、ほっとしました。実はそのときはもう手術する流れになってたので…すごくほっとしましたね。
この言葉を私は聞けたからラッキーだったけれども、やっぱり聞けない状態のお子さんとか、親子関係もたくさんある中では、多分、私自身もそうだったと思う。聞けてなかったら、今でも悩んでたかもしれないですね。
よかったのかなあとかね。恨まれるって…恨まれていいさって覚悟は決めたものの、やっぱり嫌じゃないですか。ねえ、息子に後からそんなこと言われたら。
*この方のお子さんのコミュニケーション方法については、こちらをご参照ください。

医療的ケア児の家族の語り

気管切開と喉頭分離を母である自分が最終決断した。子どもから恨まれるかもしれないが、全て自分が責任を取るつもりでいる

呼吸器のお世話にもならないまま、気管切開の手術をしたのが小学校に上がる1~2年前なのかな、と思うんですけど、気管切開と胃ろうの手術っていうのは、する度にやっぱり彼の状態を良くしてくれたと思います。
そういう手術をするかしないかっていう時々に、ものすごく悩んだりもしました。
(他の方の)お話を聞けば、お子さんによってはもう、悩む暇もなく気管切開してますっていう、お子さんもいらっしゃるんですけど、うちのケースですと、一つ一つに親の決断がいったんですね。
してもいい、しなくてもいい、どっちにする?っていう…これを決断するっていうのが、もうすごいそれぞれ山場で。
でも、最終的に私…夫婦間でもいろいろ話し合いしたんだろうけど、あんまり覚えてないこともあるんですけど(笑)。覚えてるのは、私自身の心の中の声というか。
いろんな方に聞いて、したほうがいい、いや、するとこういうことがある、危険があるみたいな話を聞いて、揺れるばっかりでもう決めかねる状態だったけれども。
最終的に私が、「もう分かりました。ママが責任を取ります」って感じで、うちの場合は各手術をすると決めてきたんですね。
気管切開するっていうのは、うちの場合は、永久気管孔と言って、よだれが肺に入り込まないように、喉頭分離手術*も一緒にするっていうお話だったんで。
気管切開だけだったら、喉の部分にこう穴を開けて管を通して、ここからも息できるようにするものなんですけど、喉頭分離手術を一緒にするっていったら、口元からはもう息しませんということですね。

でもそうするとですね、声が出ないわけです。だから、普通の気管切開だったらそれこそ、状態が落ち着いたら抜いて、また普通に(戻る)ってこともあるんでしょうけど、わが家の場合、気管切開プラス喉頭分離っていう選択肢しかなかったので。
彼が声を失うことになる、永久気管孔の「永久的に」というのを選ぶのは、なかなか至難の業だったんですけれども。
これは本人からも恨まれるだろうか、後々とか。全部そんなのを引っくるめて、母が受けますっていうつもりで最終的に決断してます。
でも幸い、そういうリスク面が表に出てくることはその後なかったので、どちらかと言うと、やっただけ体調が落ち着いていき、胃ろうをすることでまた栄養状態も良くなり、で、小学校入学に至るっていう流れなんで、手術をすることで落ち着いてくれてほんとによかったなと。

*喉頭分離術:気管への唾液の流れ込みを防止するために喉頭(声帯を含むのどの奥の部分)と気管を切り離す手術

医療的ケア児の家族の語り

気管切開はしたくなかったが、子どもの呼吸の安定には必要だった。声が出るように喉頭分離はしないことにした(音声のみ)

――退院してからすぐのときはこう、チューブで、人工呼吸器はついてなくて、吸入を。

はい。鼻だけでした。

――鼻から。

はい。

――で、そこから、ま、人工呼吸器になったのはお幾つのとき?

7歳か8歳のときですかね、下の子が。はい。

――理由は誤嚥ですか。

誤嚥というか…自分で上手に息ができなくなった。
ネイザルハイフロー(酸素濃度の高い空気を鼻につけたチューブから送り込む治療)とかいろいろしてたんですけど、結局呼吸器のほうが確実かなみたいなので、そこから呼吸器。
だから、はっきりした原因は分かってないですね。ただ、酸素が上手に吸えなくなった…そっちのほうが楽だろうっていうんで呼吸器にはなったんですけど。
それでも、どうしても気管切開っていうのに踏み切れなかったので。
もう名前は忘れたんですけど、同じように鼻から酸素を吸入できる方法もあるっていうので、なんかマスクみたいなんをつけてっていうのはしてたんですけど、悪あがきだったみたいで、合わなくて。
そこからはもう人工呼吸器に頼るようになりました。

――お父さんの目から見ても、苦しそうだなっていう感じもあったんですか。

そうですね、サチュレーションがふらふらしてたっていうのがありまして。
確かにいいときもあるんですけど、悪いときのほうが多くなってきたかなっていう。
で、不安ではあったんですけど、どうにかこう――そのときの考えなんですけど、呼吸器をつけてしまったら声が出なくなるんじゃないんかとか、間違った感覚があったんで――できるだけ(気管切開は)したくはなかったんですよ。

――ご夫婦でも話し合ったと思うんですけど、ご夫婦の間でも意見が違うとか、そういうのはありましたか。

いや、それはなかったですね。取りあえず気管切開して呼吸器はつけるけど、(喉頭)分離*はしないっていう。まだせんでいいんだったらせずにおいとこうと。
声はまだ出るほうがいいっていう感覚で話し合いはしましたけど、そこで反対はなかったですね。

*喉頭分離術:気管への唾液の流れ込みを防止するために喉頭(声帯を含むのどの奥の部分)と気管を切り離す手術

医療的ケア児の家族の語り

生後3ヶ月で気管切開をすることになってしまい、そんな子どもの顔を見るのが辛くて面会に行けなくなってしまった

一般病棟に移って、地元の保健師さんも病院に来て、退院後の話とかを進めていこうって言ってた矢先に、誤嚥性(ごえんせい)肺炎になってしまって。…すぐICUに(一般)病棟からまた戻ったんです。
ICUに入ったときに挿管をして、SpO2(酸素飽和濃度)も戻ったので挿管外したんですけど、また、ガッてSpO2下がっちゃったんですね。
そのときに、ICUの先生から言われたのが、子どもは…私の子は元々22番の染色体異常で、喉元が―何て言うのかな――普通の子とちょっと違うっていうのがあるから、挿管をするにしても人手が足りてる状況のときじゃないと、病院としても管理ができないと。
だから気管切開してください、どうですかって勧められて。すぐ穴を開けるけど閉じることはできる。ただ、声は出せないって言われて。
でもそう言われたらそれをやるしかないので、それをお願いしたんですけど。
そんときかな、気管切開をしてICUに入ってるとき。そこで私、もう子どもの顔が見れなくなっちゃって。要は面会に行けなくなっちゃって、もうそんなつらい思いしてる子ども、見たくないと思って。
そこで初めてちょっと精神的に、なんか落ち込んだっていうか、それが医療的ケアの取っ掛かりなんだけど。

まあ、もうすぐ退院なんて話をしてる中で、急にそういうふうになってしまったっていうのが、もう予想外のことばっかりだったんだけれども、その生後3カ月の気管切開っていうのが。
もう私の中での一番最初で最後の精神的な、子どもの顔を見ることができないっていう。その面会に行けないっていうのが、まあ、最初で最後の精神的な落ち込みですね。

医療的ケア児の家族の語り

同じ経験をしている家族に出会いたかった。子どもが将来どうなっていくのかという漠然とした不安があった(音声のみ)

そのときすごく思ったのは、こういう経験をした人ってやっぱりなかなかいないと思うんですけど、でも、同じような人に会いたいなって。
そういう人がどうなっていっているのか、将来が少し見たいというか、そういう子ってどうなっていくのかなとか、そういう不安が漠然とあったんだと思うんですけど。
やっぱり、同じように障害を抱えたお母さんに会いたかったり、同じような状況の人はいないかなっていうふうに、すごくこう、思っていて。
その病院の行き帰りで、ちょっとベビーカー押して歩いてるお母さんとか見ると、赤ちゃん、ちょっと覗いて、誰かチューブ付いてる子いないかなとかね、ちょっとそんなことを、思って。
でもやっぱりみんな、(お母さんの)そばに赤ちゃんいるよね、そうだよねっていう。ちょっとそういうことでまた落ち込んだりとか、アップダウンが結構ありましたけど。

療育にも2歳が終わる頃、要は3歳ちょっと前ぐらいに通い出したんですけれども、療育の中でも割とうちはやっぱり重度のほうで。
今みたいにちょっと分離をして、療育できるようなところは1箇所もなかったので、やはり全部、行き帰りくっついて。
吸引が頻回なので、車の中もずっと吸引をし続けながら、運転をしながら左手で吸引をして、今でもそうなんですけれど、ほんとに、助手席に本人を乗せて運転をしながら、左手で吸引をして、でも顔だけは前を見てっていうような状況で。
道のり、片道1時間ぐらいかかる療育に通い始めて、週にまず2回ぐらいから。就学前は一応、週3回ぐらい行っていて。
そこでようやく、障害を持つ子の親同士つながって、いろんな話ができるようになって、私もお友達ができて、いろいろ家の中の工夫だったり、そんなことも聞けたりしたので自分的にもその辺りは安定してきたというか。
一生懸命だったんですけど、ちょっとこう、心には余裕が出てきたのかなっていうくらいの時期が、就学前ですね。

医療的ケア児の家族の語り

宣告された余命をはるかに超えて子どもが落ち着いて過ごしている。少しずつ長期的なことに目を向けていけるようになった

ちょうど退院して1年ぐらいたったときに会議を開きまして、診療所の主治医の先生のほうから、1年たちましたというお話がありました。
看取りということで帰ってきましたが、今はまあ安定しているし、今も継続して何かあれば看取りという部分では変わってはいないんですけれど、看取りというよりも、「この先、じゃあどうしていきましょうか」という形で。
ちょうどそうですね、1年ぐらいが節目ではあったと思うんですが。
その前も、やっぱり「あと2~3カ月」って言われてた時点での、その2~3カ月目に向けては、変わらないけれど、ほんとにいなくなっちゃうんだろうかとか、そういう思いはずーっとありながら。
何かその兆候は見られるんだろうかとか、どういうのがあったらそういう方向へ向かっていくのかっていうのは、お医者さんや看護師さんにも何度かこう、聞いたかもしれませんね。
でも特にあの、どうっていうこと、こういうふうに変化をしていくとか、例えば徐々に何かが、数値が下がっていくとか、そういったことではないというお話で。
で、そのまま、あ、2カ月たった、3カ月たった、あ、4カ月たった、で、1年たったというところで、その辺りから、先を見た生活を考えていこうっていう思いには徐々に変わってきましたね。
なので、最初は先ほどお話ししたように、どれだけ楽しい思い出をつくってあげるかというか、最期どれだけ幸せに送ってあげるかという思いのほうが強かったんだと思うんですけれど、
そこから今もどんなふうに楽しく過ごそうかは考えてはいるんですけれど、その、短期での目標ではなくて長期的なプラン。
例えば学校にも通い始めようかとか、もうほんとに最初は、学校なんか行ってる暇ないよ、楽しいことでいっぱいでいいよ、もう遊んで終わりでいいよっていう気持ちがあったんですけど。
長い目で見て、じゃあ学校生活はどうしていくか。今であれば、もう高校生になったので、あと3年で卒業、では、その学校が終わった後はどうしていくかっていうふうに、すごく先に目を向けていけるようになりましたね。
幸いにも風邪一つひかず、ほんとに熱一つ出さず、病気しないままに、「お熱が出たらどんな感じになりますか」って聞かれても、「熱が出たことがないので分からないです」って答えるくらい、あの、病状が安定をしているので。
ほんとに体のことは今のところ大きく心配をしているっていうことがなく、むしろ生活面に目を向けて暮らして数年たったという感じですね。

医療的ケア児の家族の語り

必死に生きようとする息子の横を必死で伴走するしかないと思った。気が付いたら、前より美しい世界を見せてもらえるようになった

――お気持ちがいろいろと変化したり、また元に戻ったり、ということだったのかと想像するんですが、一番、心がこう、持ち上がるようになったきっかけみたいなものとか、タイミングというのは何かありましたか。

そういうのがほんとに「これです」って言えたらいいんですけど、よくご質問もいただくんですけど、なんか、ないというか。
気が付いたらじわりじわりとやっぱ上がっていったっていう面と、やっぱりところどころぐっと自分を持ち上げてくれたような人の言葉とか、出来事は確かにあって、看護師さんのふっと言ってくださった言葉とかね。
なんか、大した言葉じゃないって言ったら失礼なんですけど「一度きりの人生、泣いててばっかりでもしょうがないよ」みたいに言ってくださった言葉なんかが、そのときの自分にちょっとやっぱぐっと上げてもらったりとか。
でもその言葉がオールマイティーに誰かに、みんなに作用するかったらそうじゃないとも思うんですね。そのときの私にほんとフィットするものはところどころあって。

うん、あとやっぱり息子自身の姿っていうのは大きかったと思います。
彼はもうただ必死に生きてるわけですから。もう必死に支えるしかないのでですね、私がどんな心持ちでいようが何だろうが、やることはわんさかありますし、彼のケアのために。

その間、彼もほんとに苦しい時期で、もう全身強直性のけいれん発作みたいのが強い子だったんですけれども、今はずいぶん収まってますけど。
やっぱりもう死にそうな思いを目の前でしながら、頑張って生き返ってくるっていう彼の姿を見てるとですね、この子は生きるんだ、生きると決めてるっていうのを、何の理屈もなく感じて。
もうそしたらサポートするしかないじゃないですけど、やっぱりもう、大人が何やかんや言えることじゃない。
この人の意思がしっかりここにあって、生きようとしてんだからと思って、ただ必死に私も横をこう伴走するみたいな、うん、…感じで。
気が付いたら、黒いベールの世界には住まなくなってって、むしろその前にいた世界よりも、なんか美しい世界を見せてもらえるようになってっていうのが、じわりじわりと、続いてきている感じですかね。現在進行中で、はい。

医療的ケア児の家族の語り

障害に対する拒絶反応から思わず「障害児なんていらない」と口にしたが、子どもの懸命に生きる姿に何とか助かってほしいと願った

3日ほどたって、やっと、私が動けるようになって、娘の様子をその総合病院のほうに見に行けるようになりました。
見に行ったときに、小さな保育器の中に10カ月で生まれていたので、とても大きかった。普通サイズだったんですけれども、その中に押し込められるようにして、機械をいっぱい付けられて、泣いている娘がおりました。

私は、娘がその病院に転送された後ですね。夜に大きなけいれんがあったということの報告を家族から受けたときに、もしかしたら障害が残るかもしれないというふうに、先生から言われたと家族から報告を受けて、びっくりしてしまって。
それまで障害のある子どもと全く接したことないということはなかったんですけれども、特に関心もなかったし、お付き合いがあったわけでもないし、ボランティアをしてきたわけでも全然なくて。
障害っていうことに対して、非常にそのとき自分の中に、拒絶反応があったというふうに覚えています。それで「障害のある子なんていらない」ってそのとき口に出しても言いました。

だったんですけれども、その後、総合病院のほうに、3日ほどして会いに行ったときに、保育器の中で、一生懸命、生きている娘の様子を見て、初めてそこで、何とか助かってほしい、神様、奇跡を起こしてくださいと、心の中で何度も叫んだことを覚えています。
それから、毎日毎日、総合病院のほうに見に行きました。

医療的ケア児の家族の語り

診断を告げられたときは悲しく大泣きしたが、娘の一生懸命に生きる姿を見て前向きになれた

生後1歳3ヶ月のときかな。筋生検をやっとやりまして。それで、やっと診断名がその2ヶ月後についたんですけど、結局、先天性ミオパチーの乳児重症型っていうふうに診断されました。
そのときに、自分の中でどこか覚悟してた部分と…うーん、やっぱり、そういうことが私の人生に起こるのかなっていう、やっぱり。そういう気持ちもどこか捨て切れなくって。
5歳ぐらいになったらみんなとおんなじように成長が追いつくんじゃないかなって。そういうふうに心の中でどこか思ってたとこがあったんですけど。
やっぱり診断名がついたときに、うん、「ああ、やっぱり」って。自分の中で、うん、こう、何ていいますかね、決心というか覚悟というか、そういうものがついた感じでした。

もちろん、そういうふうに診断名を告げられたときには、すごくやっぱり悲しくって。すごく大泣きしましたけど。
でも、もう病室に戻るとやっぱ娘が小さい体で一生懸命こう生きてるっていう姿を見て、母親としてやっぱりこう何ができるのかっていうのを考えなきゃっていうふうに、すぐに。
やっぱ娘の姿を見たらすぐに前向きになれたというか。くよくよしてられないなって。

何だろう、いろいろネットとかで調べると、1歳前後で亡くなるケースが多いみたいなことが当時書かれてて、せっかくこの世に生まれて、そんな悲しい人生で終わらせたくないっていうのがすごくあって。
まあ、元気な体に産んであげられなかったっていう自分のことを責めるっていうのもあって、何としてでもやっぱり、たとえ短くても、太くて濃い人生をこの子には送らせてあげるんだっていう…決心をそのときにしました。

医療的ケア児の家族の語り

希な疾患をもつ子どもの今後の成長は医師にも見当がつかなかった。驚きと同時に、元気に生まれてきてくれたことが嬉しかった

心臓は、先天性のものだったんですけど、希少染色体異常で、ちょっと世界的にも5例以下ぐらいの異常っていうことで。
染色体異常を調べたんですけど、症例が少な過ぎて、これからどういう疾患がとか、どういう症状が現れるかっちゅうことは、ちょっと見当付かないってことだったんですよ。

ほんとは調べたときにそういう何か、決まったものが見つかれば、この先どういう感じのことが起こるかちゅうことが分かったりするみたいなんですけど、先生のほうもそういうんは難しいということで。

――それは、生まれた病院でそこまでのことが分かったんですか。

かかりつけの、大学病院から、よその大きな病院に、依頼をして、また調べてもらうみたいな感じで、ちょっと数カ月かかってからの結果が出ました。

――世界で5例って言われたときって、何て言えばいいんでしょうね。

ある意味すごいなと思いました。もう、初めは5例しかないんかっていう驚きもあったんですけど、そんな少ない中でこう元気に、生まれてきてくれたことはすごく、うれしかったです。

――そのときのお子さんはNICUにいて。どういったケアがあったんですか。

人工呼吸器と点滴類と、ですね。

――医療的ケアで、管が付いてたりとかすることについて、お母さん自身は何か心配だったりっていうことはありましたか。

その当時、人工呼吸器はもしかすると肺の状態から一生かもしれないと。NICUいるときに何度か、呼吸器を外すように離脱をしたんですけど、やっぱり何回か失敗して、また、呼吸器を装着っていうことになったんですけど。
結局NICU出る頃には、酸素だけでいけるようなって、とりあえずは酸素だけで帰れるようになりました。