年別アーカイブ: 2024年

医療的ケア児の家族の語り

共働きのため一緒に夜の付き添いをすると夫婦共倒れになると、一晩ごとに担当を決めている (音声のみ)

――睡眠時間と仕事との両立(の工夫)の記憶はありますか。

最初の1~2年は2人とも全速力であまり記憶にないですね。
特に、睡眠に関しては、最初、3人で一緒に寝てたんですけども、夜もアラームが鳴るし、吸引も必要だったりするし、これは2人でやってたら共倒れするっていうことで、交代制、夜勤制になりました。

今もそうなんですけど、どっちか、片方の寝室で一人で休んで、もう一人が息子と一緒に寝て夜の吸引とか呼吸器のケア、必要なケアを朝までするっていうような態勢にしてから、何とか寝られるようになりました。

寝ないとすごく精神的につらくなりますし、仕事にも影響するんで、お互い負荷を分散することができたと思います。

夜勤は…「おやすみ」って、2人とも分かれて、次の日、朝起きてくるまでは基本的にその夜勤担当が、ケアを担当する。
万が一、何かあったときには、横だから起きてもらったりしますし、壁も薄いんで、吸引の音は、聞こえたりはしますよね。

最初、2人で寝てた時、妻はアラーム音で起きるんですけど、僕は全然起きれなくて、相当「あなた何やってんのよ」みたいな話があったんです。
今は、僕も夜勤担当しますし、その時はちゃんと起きてケアをするので、責任を持たされて大丈夫だと思いますよ。

――夫婦が仲良しじゃないと、もう知らない、こっちで寝てやるみたいなことはないんですか。

仲良しかどうか僕は分かんないですけども(笑)。
対等でいようというところはあると思いますね。そうじゃないと回ってないような気はします。

医療的ケア児の家族の語り

保育園から療育センターに移る決定を撤回してほしいと説明資料を作って、議員や様々なネットワークに相談し、動いてもらった(音声のみ)

実は市が市内の医ケア児を1カ所、療育センターに集約するみたいな方針を立てて、うちにもその説得をかけに来て、もう一家庭にも説得をかけに来たんで。

ただ、僕たちはやっぱ保育園というのが素晴らしくて、すごく本人の発達にもいいし、療育センターに集められると社会から分離して孤立してしまって、医療的ケア児とか障害児の存在が見えなくなってしまうっていうことを恐れてたので。

それで、今年の1月にいきなりそんな話が降ってきたときは、相当に抵抗をして、いろんなとこに声をかけて知恵をもらったり、訴えかけてきて、ようやく3月ぐらいにその方針を、事実上撤回させることに成功したんですが。

――行政とのやりとりで相談する先というのは政治家だったり、医ケアの親の会とかどんなところがあるんですか。

いろんなとこに相談して、その問題があった時に相談員さんっていう、日常的なこととか制度的なことの質問先とか調整先の方にも聞きましたし。
地元の市議会議員で福祉関係に強い方にも相談して、働きかけもしてもらったんですけども、全然、行政側の対応を変えるような気配がなくて。

医ケア児の保護者のネットワークにも相談したり、市が第三者機関として依頼してる社会福祉系の団体、人権関係の相談窓口に行って、そこはすごく動いていただきましたね。

いろいろつてを使って、地元選出の国会議員の方のところにも問題を共有しましたし、政策アドボカシー団体の方にも相談しに行って、そこから先、行政の国レベルのとこに話をつなげてもらったりもしました。

あと、メディアですね。
知り合いに記者の方がいて取材をしてもらって、その記者からも行政に取材をかけてもらったら、多分、最後、その辺りが決め手になって市も撤回したかなという雰囲気はあります。

ただ、そこまでしなければ、行政が動かないってことにがくぜんとしまして。
だって、その、医療的ケア児法はできて、本人たちの意見をちゃんと尊重してください、その地域で生きるっていうことを基本としましょうっていう法律ができたのに。
全然、それに対して市の担当の人の頭が、市長もそうなんですけども、追い付いていないっていうことで。

市長への手紙みたいな、直接、投書するところがあったんですけども、全然、その回答がなしのつぶてというか、全然回答になってないような回答があって。
県にも相談したんですけども、全然、県も「自治体、市のほうが最終的には権限があって」みたいな(回答で)。

ですので、一枚紙の資料を作っていろんなとこに共有して、メディアの方とか議員の方とか、説明資料を作って、やりました。

医療的ケア児の家族の語り

看護大学を目指し高校の指定校推薦を希望したが通院のため欠席が多く推薦を受けられず親子とも悔しい思いをした(音声のみ)

進路が明確になって高校に入って、進学先の高校から、看護大学の指定校推薦があったんですね。
レベル的にも問題はなさそうだし、本人の中でもそこを目指したいと。

一般受験だとどうしても体調の部分の不安もあるし、指定校推薦だと早めに、大体10月11月ぐらいには決まってくるので、そこで何とかしたい。
そこを目指して、すごい頑張ったと思います。
塾にも、引き続き同じ塾でずっとお世話になって通いながら、プラス看護大系の対策ができるように、夏期講習にも通って、3年生の、確か9月ぐらいだったんですけど、高校の中で、指定校推薦を出すにあたっての基準っていうのもあるし、内部選抜というのがあったんですね。

そこで、全ての条件はクリアしてたんですね。
ただ、欠席(日数の問題)があったんですね。
欠席については、担任の先生からも、3年生の早い段階で、もし指定校を考えてるんだったら、欠席に関して厳しい状況なんだよねっていう話を、本人にすごく言ったみたいで。

じゃあどうしたらいいですかっていう話を本人もしていて、担任の先生からは、主治医からの意見というか、理由付けの部分で何かもらえないのかなって話で。

主治医の先生は、「通院のためだったりとか、投薬のために学校を欠席したりっていうなことがありました。でも、学校生活には問題がなく、今後も、通院治療を続けてけば、普通の生活が送れる」というふうな形の物を出してくださったんですね。

それを校内選考で、学校に出したんですけど、最終的には、不安要素がある子どもは、推薦はできませんと。
……(涙)……だから、本人は悔しかったと思いますよ。僕らも悔しかったんで。
……なんでだよっていうような。

推薦っていうか、学校がなんで人を選別するとか、やる気のある子を選別するっていうか、多分、一番今まででそこがしんどかったです。……
……学校が、将来を決めていいのかなっていうか、何のための基準なのっていうか、それはすごいありましたね、

医療的ケア児の家族の語り

腹膜透析を夜間10時間行う。透析液がお腹に長時間滞留していることで吐きやすい。なんとか吐かないように工夫する毎日だ

毎日家で、今は夜間10時間ですね。
腹膜透析を自動でやってくれる機械におなかのカテーテルをつないで、主に寝てる間の時間におなかの中に、透析液を貯留して、廃液してっていうサイクルを、今6サイクル、夜間10時間掛けて6サイクルやってます。

娘の場合、吐きやすいんです、すごく。
吐いてしまうと、せっかく入れてる栄養も出てきてしまうし、何より本人がつらそうだし、こっちも気持ちがなえるので、なるべく吐かないように意識して、体位とかタイミングとか様子を見ながら、やってる感じですね。

――体位とかタイミングっていうのは、どういう具体的な工夫があるんですか。

水平に寝てるときのほうが、水平に寝てるときだけじゃなくても、ちょっと咳き込んだり、激しく泣いたり、笑いすぎてしゃっくりが出たり、そういうことでも吐いちゃうんです。
なので、刺激を、「あ、これ、危ないな」というときは、それ以上興奮させないようにするとか、ちょっと時間をおいてから入れるとか、おなかに入ってないときに、活発に動いてもらうっていう感じですね。

それでもやっぱり日々吐いてて。それが、この2年間悩みではあるんですけど。
今は、割と落ち着いてるほうで、1年ぐらい前までは、本当ひたすら吐きまくってた時期があって。
毎日灰色っていう感じでした。
祈る思いで注入して、1回に10ccとか20ccとか入れても吐いちゃうみたいな状況だったので、どうしたら入るんだろうみたいに、ずっと悩んでました。

――そこから今落ち着いたっていう状況は、何がどう変わったんですか。

去年すごく吐きやすかったときから一言で言うと、成長した、体格が大きくなったっていうのが、一番なのかな。
あとは、透析でしか体の老廃物が出ていかないので、今10時間6サイクルの透析の中身、使う透析液の濃度だとか、タイミング。

夜間の、機械につないでやってる透析以外に、去年は日中も1度マニュアルで、バック交換っていって、機械につなぐんではなくて、手動で透析液、バック交換をして2回おなかの中の透析液を出し入れするっていう手技を昼間、昨日記録を見返してみたら、入院して最初は日中2回それをやってたみたいで。午前1回、午後1回。

で、夜間、そのとき12時間ぐらいつないでたので、一日中ほとんど管につながってる状態だったんです。それで始まって、日中のそれ(透析回数)は減ってきて。
吐きっぽくなって(いたけれど)、透析の日中やるのをやめたら、嘔吐が止まったんです。

日中やるのを止めた理由は、嘔吐ではなくて別の理由だったんですけど。
日中いつも透析をすると、最後におなかの中に透析液を貯留して機械が止まって、おなかの中に1日、何百ccかたまった状態で1日過ごして、次の透析サイクルは、おなかの中の液を廃液するっていうところから開始するんです。

普通の人と比べると、おなかの中に常に水がたくさん入ってタプタプしてる状況で、赤ちゃんだと見た目にも手足が細くてもおなかだけポコっていう状態だったんです。そんな状態だったら当然気持ち悪いだろうなと。

透析自体も急激に体のいろんなものが引かれて出ていったりするので、気持ち悪さを引き起こす状況があって(注)。
透析を少し緩めてやったら、嘔吐が減ってきたので、ちょっとほっとしました。

注)透析が始まって吐き気が続くのは不均衡症候群や血圧低下が主な原因と考えられます。不均衡症候群では透析回数が増えれば吐き気が徐々に減るといわれています。
 不均衡症候群:透析によって血液中の老廃物や水分は除去されますが、脳内の老廃物は除去されにくく脳内に残ります。濃度を均一にしようという調整が働くため、脳に水分が多く流れ込み吐き気や頭痛を起こすといわれています。

医療的ケア児の家族の語り

長男、次男それぞれに障害がある中で3人目を授かった。世間のいう「普通」はそれぞれの家庭で違うのだと思っている(音声のみ)

上の子が発達障害で、母親にべったりという状態だったんですね。
母親は長男担当、父親は次男担当っていうような形で、担当付けがされてしまった感じで、自然な流れでこうなった。

どちらかが「じゃあ、こうしようか」っていう話をしたわけではなく、今までの(次男の)
通院付き添いに関しても、基本的に私が行くというパターンがほぼほぼ多かった。
入院をしたら2人で、妻と協力しながらやりくりをしてるっていう状態だったので、ほぼ妻が単独で、次男の付き添いで病院に行くというようなこともない状況だったんです。

――一番上のお子さんと、二番目のお子さんで、それぞれ手がかかったり、病院にかからなければいけない時期があった中で、三男を授かって生まれるときの気持ちは、ご夫婦の中でどうだったでしょうか。

正直に話すと、三男ができたときに、葛藤があったんです。
当時その、全く予想外の時期に、ぽんって授かった状態だったので、その当時、妻自身も体調があんまりよくなくって、かなりアレルギーを持っている感じなので、ステロイドを内服してたりっていうタイミングだったんですね。
その段階で授かってしまったんで、妻も、今後の子育てと言うよりは、薬飲んじゃってたけどだいじょぶかなっていう不安がすごく大きかったみたいで。

僕ら的には、兄弟がいっぱいいたほうがいいやっていうな気持ちはあったので、まあ、何とかなるよねっていうぐらいのイメージで、薬の部分での葛藤はあったんですけど、上2人の状態を見て、じゃあっていうような葛藤があったかっつったら、それはなかったですね。

――同じような状況のご家族へのメッセージとして伝えたいことはありませんか。

普通ってすごく難しいんだなって。

うちの場合だともう病気を持ってる子ども、今の環境がもう普通になっちゃってるので、逆に、そのー、普通の家庭ってどうなんだろうっていうのが分からない。
そのところ、そのところで、多かれ少なかれ問題はあるんでしょうけど、普通で過ごすことってすごいことなんだけど、その普通はそれぞれ違うんだなっていうのは感じました。

医療的ケア児の家族の語り

第4子に病気があって生まれてとても大変な毎日だったが、夫婦の話し合いの時間が増え、きょうだいの絆も強くなったと感じる

(妻の妊娠中に娘の病気が分かった)当時はすごいへこんでて周りから、産まれた後に言われたんですが、「産まない選択肢ってなかったの?」って言われたんですね、病気って、もう分かっている中で。
それは全くなくて、考えたことなかったねっていうふうに妻と話して。

うまくいっているよね、脳室も全然大きくなってない、水頭症も大きくなってないよね、産まれてこないと分からないよねって言ってたら、すごい大きい声で産まれてきたので、やっぱそれは、もう感動ですよ。

――いろんなご夫婦がいらっしゃると思うんですが、その中でも子どもが健康で産まれてこなかったっていうことに関して、お母さん自身が自分を責めるっていうご夫婦もいると思うんですけれども、奥さまの気持ちですとか、ご夫婦の関係っていうのはどうでしたか。

口には出さないですけど、自分の責任というふうには、感じていたんじゃないのか。
やっぱ母親なので。
上のきょうだいの子たち3名いるんですけど、健康にずっと育ってきているので何でっていうふうに多分思ってはいて、自分を責めたりはあったと思います。

ただ、私には見せなかったです。
上の子たちの前でも、それは見せなかったです。
毎日が慌ただしくどんどん過ぎていっているので。

1人になったときとか眠る前とかっていうのは、何が悪かったのかなとかいろいろ考えはするんですけど、考えたところでしようがないので、今を受け入れながら、何ができるか。
進んでいったほうがいいよねって。

良かったなと思うのがですね、家族の会話が増えましたね。
一番下の子が産まれたことで、夫婦で話し合いをどうしてもしないといけないんですね。
たくさん会話をするようになった。
2人で決めることが多くなったのは、すごい感じます。

きょうだいの絆っていうのも、家族の絆が強くなったなっていうのは、一番下の子が産まれてきたおかげだなって思いますね。

――上に3人のお子さんがその一番下の4番目の子が産まれてきたときの対面は、どのタイミングでできたんでしょうか。

一番最初はNICUのガラス越しで対面で、実際、抱っこできたのは、1カ月後、退院してから、おうちに帰ってきたときの1カ月後ですね。
当時、一番上が12歳で、10歳、8歳で、結構年が離れたきょうだいなんで、すごくかわいがってくれて、安心しましたね。
そのとき鼻にチューブが付いていたんですけど、そういったのも怖がらずにちゃんと受け入れてくれたっていうのは、ありがたかったかなと思います。