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医療的ケア児の家族の語り

染色体検査は正常だったが、周りの赤ちゃんと顔つきが違い、水腎症もあった。原因がわからず、悶々とした まま治療が進んで行った

そうですね、腎臓に病気があるかもとは言われてたけれども、普通に無事に生まれると思ってたから。仮死になるとはそのときは思ってなかったので。はい。

まあ生まれたら一応検査しましょうみたいな感じぐらいだったので、何の病気ですよとか、どれぐらいの障害が残る病気ですよとかも一切なかったので。はい。

NICUに会いに行って、なんか小さい、もちろん1,700グラムしかなかったんでちっちゃかったんですけど、周りにもっとちっちゃい子もいたし、手足もバタバタ動いてるから、大丈夫かなって思いつつ、なんか顔が違うなと思って。
これは腎臓だけじゃないなっていうのは、なんか思ってました。
ずっとそのときは何か違うことを探してたような気がします。ここもなんか違うかも、あそこも違うかもとかって探してたけど、あんまりそれは口に出しちゃ、言っちゃいけないみたいな感じでしたね。

――言っちゃいけないっていうのは、どういう意味ですか…

先生から言われてないのにこっちから、なんか顔が違くないですかとか言うのって、何だろう、何でか分かんないけど、ちょっとタブーなのかなと思って。
ただ、染色体の検査をしますって言われたときに、ああ、やっぱそうだよな、検査するよなって思って。結果が出るまでは結構ドキドキして。結果、染色体は正常だったんです。うそだろ、じゃあ何っていうずっと悶々とした感じはありました。

――それは生後何日ぐらいですか。

染色体の検査出たのは生後1カ月ぐらいですかね、まだNICUに入ってたんですけど。
おっきな病名は…なんていうんでしょう、例えばダウン症とか…そういうおっきな病名は分からないけれども、水腎症があったりとか、そういったのはちょっとずつ分かってきたので。
その病気に対しての治療っていう説明をずっと受けながら、今起きてることに対して、じゃあ、こうやって治療していきましょうとかっていうのが進んでた感じです。

医療的ケア児の家族の語り

明日が保障されない目の前の子どもの生と向き合うことで精一杯だった。障害は自分たちが寄り添っていくしかないと思った (音声のみ)

私は多分それまで割と、もちろん不安や一応、すごく心に重苦しいものはずっと抱えてきてたんですけど。
自分がMF(母体・胎児集中治療室)で意識戻ったときも、病気治るよっていうのと、生きていけるよっていうのが、なんかどっかで楽観的なほうに、楽観的なほうに考えてきてたので、病気の名前(18トリソミー)を聞いたときは、結構やっぱりショックでしたね。
でも、やっぱり、ショックだけど、でも頑張ってるのは娘なので、もう自分たちはなんか、落ち込むのは落ち込むけど、やっぱやるべきことっていうのはしていかなくちゃいけないし。
なんかそこで、例えばショックで体調崩すとか…その生きられる時間っていうのが分からないってか、短いかもって言われてるんであれば、もしかしたらその悲しんでる時間自体がもう、ある意味もったいないのかもしれないっていう気持ちが私はわいてきて。
まあ、そんなにすごく前向きな気持ちにはなれなかったんですけど、ショックはショック、でも、自分たちがそういう落ち込んだりばっかりはしてられないっていう気持ちがありましたね。

そもそも生きられるかどうかがまだ分からないので。
そうですね、1年生存率の数字がかなりシビアなものだったので、まずはそこをひとつ目標かなっていうのがあったのと、もう障害とかそういうことに関しては、もう自分たちが寄り添う、親のほうで寄り添っていくしかないので。
それはそのときどきで、例えば必要なケアであったり、サポートとか、あと行政の支援っていうところにもつながると思うんですけど、それは自分で調べてやってくしかないなっていう気持ちもありましたし。
というよりは、先のことを考えても意味がないなっていう。
そもそも、出産したときも急な出産だったし、もう明日のことなんて何一つ分からないなと思いながら、明日自分たちに今日とおんなじような日が保障されているわけではないっていうのがもう痛いほど分かってたので。
高校生になったときにとか、障害がどうこうっていうのは、もうそのときどきで考えていけばいいと思ってたので、もうそんな先のことじゃなくて、もう目の前のその子と向かい合うことで自分はもう精いっぱいでした。

医療的ケア児の家族の語り

心の準備もなく障害児の親になんてなりたくないと思った が、この子がかわいそうな子になるかどうかは自分次第だと気づいた

普通の子が生まれてくると、思って疑わなかったので、妊娠経過中に分かれば、例えば子ども専門の病院に、妊婦健診が切り替わって、出産がそこになってとか。
そういうことになってくると、お母さんの心の準備ですとか、子どもの病院ならではの、同じような境遇を持つお母さんとの、支援とか、そういったものが充実してたりしたのかなとは思うんですけれど。
産んで初めて分かるとか、そういったことの連続だったので、健常児じゃない子の母になるという受け入れがまずできない。
私の周りにたまたま身内にもそういった、経験のある者がいないので、恐らく大多数のこういった医療的ケア、障害児の、お母さんは多分そうですね。
ほとんどのお子さんが、健常児の両親から生まれている。周りもそういったことに慣れてないお母さんとお父さんから生まれているので、そこにまず大きなショックというか、衝撃を覚えて、…まず受け入れられない。
障害児の親になんてなりたくないって、…うーん、まずそこですね。まず自分はそういう親になるつもりはないんですけどっていう、すごくきれい事でない話をすると、そこからまず始まりました。
まず子どもに会うのが怖かった。すぐに会いに行けない現状もありましたけど、子どもに会うのが怖くて。
会うまでは私は育てられないって言おうってちょっと決めてたところがあって、そういう後ろ向きな気持ちで、NICUに初めて入ったっていうのが、すごく覚えていますね。

子どもを見てすごく最初ショックでしたけど、(新生児って、)何にも分かんないで生後数日って、泣いたり、寝たりしてて、(それを見て…)この子はかわいそうな子なのかな?って。
なんだろうか、かわいそうな存在なのか?って、自問自答してて、そのときにかわいそうかどうかは、…ま、大変だったりするけど、かわいそうにするかどうかなのかなっていうふうに思ったんですよね。
かわいそうにするかどうかは社会とか親次第なのかなとっていうことに、ちょっと病院の面会帰りにさまよいながら、あてもなーく歩きながら、何かそこに行き着いたときに…
ちょっと今まで踏みしめたことのない世界に来ちゃったけど、ちょっと考え方を、自分の価値観とか、そういうことを…変えて乗り越えるしかないのかな。
で、変えなれば駄目になっちゃう。自分も駄目になっちゃうな。それしかもう活路は見いだせないのかなっていうふうに、歩きながら自分で答えを導き出したというか。
そこからは…ほんとに日ごとというか、ほんとに多分1ミリ1ミリ、歩みだと思うんですけれど、あの、ま、受容していくというか、そういう…こう、過程に歩き出したと。

医療的ケア児の家族の語り

どうして自分がこんな仕打ちを受けるのだろうと日々考えた。朝になると夢ではないことを思い知らされた (音声のみ)

生まれて1週間か10日ぐらいたったときに、脳波とMRIとか、その画像で先生が説明をしてくれて、低酸素の影響がかなり大きくて、脳のダメージもとても広いと。
運動機能に関してはもう、ちょっと望めないかなと思いますと。感情面に関してはこれから、発達をしていく中でどう変わっていくかは、ちょっとそこは未知数なので分かりませんが、ちょっとそういう状況で、障害が残りますというような話をしてくれて。
それを聞いて、夫は…私はもう、分かっていたようなところもあったので、まあ、ショックですけれども、やっぱりなっていうところで…。
夫はそれを聞いて、その日、家帰ってきてから、ソファーに横になって、もう目の上にタオルを載せて、まあ、天井をこう、ずっと見たような状況で寝てるみたいな状況で、ずーっと動かずに。
まあ、でも、しばらくそうしてたかと思うと、「まあ、こりゃあ、もう戻らないんだね、じゃ」っていう一言で、「じゃあ、分かった」みたいな感じで。
まあ、そこから何かこう、自分で何かを消化したのか、普通に会社にも行きますし、病院にも行ったりっていうところで、生活がスタートした感じですね。
まあ、そうですね。障害児の母となったときの思いとしては、やっぱりどうしてこういうことが起きたのかなっていう。まず、なぜ私にそんなことが起きたんだっていう。
みんな危機的状況にあるとそういうことを言うと思うんですけど、なんか私、今まで看護師で一生懸命、人のため世のため動いてきたのに、どうして私にはこういう仕打ちが来たんだろうかとか、何か悪いことしたっけ、私? とか。
そういうことをすごく日々、思って、でもなんか、よくよく考えてみると、じゃあ私そんなにいい人間だったかなとか、そんなことも思いながら。
ああ、小さいとき飼ってた犬、満足に育ててあげてなかったなーとかね。あの患者さんにはなんかこういうちょっとこういうことをして、あんまりいい看護師じゃなかったなとか。
もうほんとにそういうちっちゃいことをいろいろ思い出しては、そういう自分だからこういうこと起きちゃったのかなとかね、そういうことをちょっと日々考えて。
夜になるとほんとに、夢かな、これってとか。でもやっぱり隣のベビーベッドに子どもがいないし、自分は生んだわけだから、ああ、夢じゃないなって、朝になるとやっぱり、思い知らされるというか。
そんな感じを毎日過ごしながらも、昼間はほんとにもうNICUに通い続けて、もうどれだけ長くいてあげられるか。もう面会時間、目いっぱいずっとそばにいたような状況でしたね。

医療的ケア児の家族の語り

これまでの人生で経験したことのない目の前が真っ暗な世界だった。当時、自分には二度と心から笑える日は訪れないと思った

うちの息子はですね、生まれたときの出産事故で障害を負いました。臍帯(さいたい)脱出ですかね。
それで緊急帝王切開になったんですけれども、病院内に深夜の時間帯でドクターがいらっしゃらなかったっていうことで、オンコールでドクターがいらっしゃるまでに少し時間がかかったりですね。
手術までの時間が割とかかってしまって、その間に低酸素状態で、ほぼ仮死状態で生まれたという最初の息子のスタートになります。
仮死状態の息子はもう、私も詳しくないですけども、最もひどいタイプだったということで、重度の低酸素性脳症というものを負いまして、もうゼロ歳、出産予定日その日に障害を負ったっていう感じですね。

間違いなく私たち2人とも、いったんどーんと何かに突き落とされたような日々だったとは思うんです。うん。ただ、そこに関して、何か夫婦として、なんかこう、話し合ったりとか、してないことはないはずなんですけど、あんま覚えてないですね。
ほんとに私にとっても、最初にこの出来事があってからの、半年ぐらいっていうのはものすごい、今、思えば不思議なくらいの世界に住んでたんですね。

すごくいろんな障害だの病気だのの、受容ステップの一つだったのかなと思うんですけど、やっぱりどん底、闇みたいなもの。
ここまでの思いはそれまでの人生でしたことがなかったので、初めて、目の前が真っ暗になるっていう日本語の表現があるじゃないですか。あれが現実なんだと分かったんですよね、その頃。
ほんとに色が無くなっちゃって、信号の色とかは分かるんですよ、赤とか黄色とか。分かるのに、目の前にこう、黒いフィルターかなんかが掛けられてるように、色が無いんですね。
こんな経験やっぱしたことなかったんですね。ちょっと客観的に思っても、ほんと色が無くなったって自分で思ってびっくりしたんです。ほんとに世界って真っ暗になるんだなっていう。

その頃はやっぱりもう二度と心からわーって楽しい気持ちで笑うなんてことは、もう自分には訪れないんだろうって思ってたし。
でも表面的には皆さん、看護師さんとか、病院の方とかとは笑顔で話してるんですけど、心の中がそういう状態で、そういう状態であることをまた気付いてる自分がいて。
半年、1年はかかってなかったと私の場合は思うんですけども、そういう時期を過ごしてたので、その頃、見聞きしていたこととかは、ほんとになんかベールの向こうのように、ちょっと感じるというか。
ちょこっとこうビジュアルであったり、キーワードみたいにどなたかの言葉であったりが、今、思い出されるぐらいの感じで、ほんと不思議な気分です。

医療的ケア児の家族の語り

病院に着くと子どもは救急搬送された後だった。自分が妻と子どもの病院を行ったり来たりし、妻に状況を説明した (音声のみ)

出産が離れたところだったので、車で1時間半ぐらいかかるところで、帰省して出産するという形だったので、仕事があるので、仕事が終わって夜中に連絡を受けて、車で向かうというような形で病院には行ったんですけど。
僕が行ったときにはもう、下の子は生まれた後で、すでにそこにはいなくて、救急車でもう別の病院に運ばれていたので、そちらのほうにすぐ向かいました。
妻は当然もともと入院してたところに置いたまま、そんなに会え(なくて)、10分ぐらいかな、会って話をしたんですけど、すぐ別の病院に向かって。
行った先で長い時間待たされながら、たまに先生が出てきて状況説明してもらいながら、まあ、朝までずーっとそっちに付き添っていた形ですね。
僕が行ったときには、なかなか自発呼吸がないという状態だったので、割と最初から状況は厳しいっていうのは聞いてたんですね。なので、最初から、個人的にショックを受けながらも、その治療を見守るようなそういう形でした。

最初の何日間かは妻は、出産があったので、下の子のほうの病院には行くことができなかったんですよ。
なので、その間、僕が子どものほうの病院に行って様子を聞いて、妻のほうに戻ってある程度、状況を説明して。
ただちょっと、確定しない話なのでそんなに詳しく、今度の見通しとかは、僕の口からは説明しなかったとは思うんですけど、それを何日間か、繰り返してるような形でしたね。

――その後の経過についても教えていただけますか。

その後は、しばらくNICUにいたんですよね。割と1週間ぐらいは仕事を休んでたので、その間、毎日、母乳を届けるっていう意味もあって、毎日、行くことができてたんですけど。妻もまだ、入院してたっていうのもあったんで。
その後、しばらくずっとNICUにいたんですけど、仕事に復帰するってことになるとですね、毎週金曜日に、仕事上がりでまた車で戻って、日曜日の夜にまた今の仕事先の、住んでる地域に戻るっていうような形を、結構しばらく繰り返してましたね。

医療的ケア児の家族の語り

普通に生まれると思って動画撮影していたが、子どもが泣かず状態が悪かったため、自分が付き添って救急搬送になった(音声のみ)

帝王切開になるっていう話になったんで、じゃあ、この日に入院ねっていうところで、6月のちょうど梅雨時期のじめーっとした感じの日で、曇ってて、ああ、これから一緒に病院行くのかみたいな感じでなってました。
ただ、僕は、普通に生まれてくるっていうことしか考えてなかったですし、生まれたらFacebookで投稿しちゃおう、どういう文にしようかなみたいな、そんなのんきなことしか考えてなかったですね。
それで一緒に呼ばれて付き添いっていうか、立ち会いで出産だったんです。
僕は血が嫌いで、まあ妻は医療職なんで別に血のこととか普通ですし、血の話とかも普通にするんですけど、僕、聞くだけでなんか頭が痛くなるぐらいの感じでちょっと立ち会いはと思ってたんです。
まあ結局、それでも立ち会うっていう決断をして一緒に行ったんですけども、やっぱり「生まれました」って後から、子どもが泣かなかったので、何が起こってるんだろうとか思ったんです。
妻は相当冷静に、アプガースコアとか、いろいろ子どもの数値の話をそのお医者さんとか助産師さんとしてるのを聞いて、なんかまずい、やばいみたいな感じで。
僕はカメラでその動画を撮ってたんですけども、そういうのも後から見返したら残ってますし、相当、慌ててて。
妻は妻でなんか気持ち悪くなって、麻酔か何かだと思うんですけども。で、妻も介抱しつつ、子どもの、なんかやっぱり状態がおかしいっていうところの、お医者さんの声を聴いて、ああ、なんか、やばいのかなっていうふうに思いました。
その後、「お父さん、一緒に、これから救急搬送するんで」みたいな感じで言われて、お父さんって僕だっけ?みたいな、本当になんか何も想定していなかったことが起こって、そのまま一緒に救急車に乗せられて。
なんかあれですよね。ドラマみたいなシーンでしたね。救急車に乗って、救急の入り口から入って病棟に行くみたいな光景って、なんか、ああ、本当、ドラマとかなんか医療現場、医療映画みたいな。
ああ、そういうことが起こっているんだと、なんか変な客観視をしたり、すごく、もちろん自分事ですごく心配なんですけども、なんかそういう光景で。
「ちょっと待ってて」って言われたまま、なんかしばらく1~2時間…。2時間ぐらいかな、待合室でいて、どうなるんだろうってやっぱりすごく不安でしたし。
事前に前情報で、何だろう、例えば、子がもしかしたら病気を持ってるかもしれませんとかっていうのがあれば、心の準備が多分できたと思うんですけども、それもなかった状況だったので、相当、多分、慌ててたんだと思います。

医療的ケア児の家族の語り

妊娠中に水頭症と脊髄髄膜瘤の診断がつき、ネットでも調べていたが、妻ともども産まないという選択肢は全く考えたことがなかった

一番最初に診断受けたのが水頭症。水頭症というふうに、まず診断を受けました。先ほど言った脳室拡大が分かって水頭症ですよと。水頭症っていうのをまず調べて。頭が大きくなる病気っていうのは知っていたので、それを調べて。
妊娠の週数を重ねることで分かってきたのが、今度は脊髄髄膜瘤っていうのを先生のほうから説明があって、この子はこの腰のほうに大きい神経の穴が開いている。
この子は開放性の脊髄髄膜瘤があるよっていうことで、先生がこうやって診断をつけるたんびに調べていって。
あ、この病気は、こういうことが起きると。で、この病気になったときには、こういう経過をたどっていくよっていうのを、今はネットで何でも調べられるんで、妻と一緒にずっとネットで検索しながら調べていったんですね。
ただ、やっぱり先生のほうに毎回、病名言われたときに、「先生、こういうふうに調べたら出てきたんですけど」って話したら、この病気は実はもう多種多様、いろんな子がいると。
歩ける子もいるし、本当に症状が全く出ない子もいるしっていうことを言われて。生まれてみないと、この子がどういうふうになっていくかは、実は分からないんだよって言われて。
そこでやっぱり、もうずっと悩んでいたんですね。もう毎回、病院行くたんびに一喜一憂する。脳室拡大してないよって言われて喜んで、だけど、またこの穴が開いているねって分かって、「え、どういうことなの」って、また調べる。
で、この病気について調べて、自分の子どものことだからやっぱり分からないと(いけない)。
ただただ、もう気持ち的に沈んでいくだけだったら誰でもできることなので。だったら前向きに、病気のことをちゃんと分かって、この子にとって何ができるかっていうのを考えていこうというふうに妻と話していって今に至るんですけど。
でも、やっぱり、当時はすごいへこんでて、やっぱり周りから生まれた後に言われたんですが、「産まない選択肢ってなかったの?」って言われたんですね、病気って、もう分かっていたので。
それは正直、全く考えたことなかったねっていうふうに妻と話して、もう全然、ただただ、うまくいっているよね、脳室も全然大きくなってない、水頭症も大きくなってないよね、生まれてこないと分からないよねって言ってたら、すごい大きい声で生まれてきたので、やっぱそれは、もう感動ですよ。

医療的ケア児の家族の語り

病院にかかることもないほど元気だった息子は、交通事故で脳に損傷を受けて、体を動かすことや呼吸することができなくなった

まずきっかけというか、原因は事故、交通事故ですね。
それまでは、一切、まあはっきり言ってしまえば、病院にかかることもほとんどないような子だったので、単純にその事故で、いきなり生死を問われるような、そんなふうな状態になって。
ただただひたすら僕らは、まあ無事に、元気に戻ってきてくれればいいなっていうふうにして思っていて。
で、一命を取り留めたっていうふうな…。そこから、実際にはちょっと自分たちでも想像していなかったような生活が、始まることになってしまいました。

まず、体を動かすことが一切できなくなりました。そのためいろいろな、これまでできていた食事であるとか、排便排尿、あと体をきれいにする、お着替え。そういった身の回りのあらゆること(の介助)が必要になり。
何よりも、脳に損傷をきたしてしまうような、大きな事故だったもんですから、自分で呼吸をすることができない。
気管切開っていうんですかね。それをした上で、人工呼吸器を付けて24時間生活する。そちらの管理とか、そういったものも、必要になってきました。

帰ってくるに当たって、そもそもそんなに長期間、こう生きていられるっていうふうなことを、確信できなかった。どちらかというと…。
事故の後、最初に言われたのが、余命3時間ですっていうふうにして確か言われたと思うんですけども。
で、その後、何とか症状が落ち着き、それでこの後、意識がちゃんと戻って、昔のようにお話をすることはできないですっていう宣告を受けて。
今までと…言い方はちょっと違うかもしれないですけども、今までと同じ子という感覚でいると、つらい思いをしますよっていうふうなことを、お医者さんに言われたと思うんですけど。
で、まあ何となく、そうなのかって納得できたような、できなかったような、そういうふうな気持ちの状態で。
でも、やっぱり無事であったっていうふうなことにうれしさを感じていたのと、余命があまり長くないっていうふうなのであれば、余計に病院じゃなくてお家のほうがいいんじゃないのかなっていう気持ちがあって。
可能ならばお家に帰りたいなっていう気持ちにはなっていました。

医療的ケア児の家族の語り

先天性心疾患の手術後の経過が思わしくなく、入院中に急変して低酸素脳症になり、その後寝たきりになってしまった(音声のみ)

5カ月のときに、まず1回目の手術をしたんですが、その後、心臓や肺に流れる血液の量が多くなり過ぎちゃって、体のバランスが悪くなっていると説明を受けました。
再手術よりも薬の内服で調整を試みるっていうことで、しばらく入院をしていたんですが、付き添いで。
そのうちに、薬の影響なのか、心不全の影響なのか、吐いたり熱が出たり、すごい大量の汗をかいたりして。
なんかおかしいなと私は思いつつも、やっぱ入院してるし、都内のおっきな病院だったので、もう完全に先生を信じ込んだというか、私も勉強もしてなかったので。
そう過ごしていくうちに、体調が悪くなったときに、採血とかレントゲンとかの検査をしてる間に、突然、顔色が悪くなって。
私が「検査が終わったんで病室に戻ってください」って言われたときには、もう目が一点病というか、動かなくなっていて、急変したんで看護師さんが慌てていて。
サチュレーションのモニターをつけてたんですけど、そこも60%ぐらいに非常に低い数字になっていて、看護師さんが慌てて、採血を担当した先生に「サチュレーション下がってます」って言ったんですけど。
サチュレーション(を固定するテープ)の巻きが甘くて、時々、低く出ることがあるので、「巻き直して」っていった指示だけで、先生はその急変の原因を調べるためにCTの予約に行ってしまって。
そこで、どうも急変して、低酸素脳症になったんじゃないかっていう説明を病院で受けてます。
私も低酸素脳症になったっていう説明は、割と早く、2日後ぐらいには聞いてたんですが、その低酸素脳症もいろんなレベルがあったので、病院にいるのにまさかこう、こんなひどい急変するとは分からなくって。
急変した後、ICUに運んでもらったんですけど、その後もなんか、いつか回復するんじゃないかっていうのを、ずっと3週間ぐらいこう信じてたというか、分からないまま通っていたんですけども。
やっぱ、もうずーっと薬で眠らされていたり、なんかの薬を入れたら、血圧が低下して危ないっていうことになったりとか、そういう日々を過ごすうちに、ああ、もうこれは駄目なんだなっていうのを実感したところです。