インタビュー時:35歳(2020年2月)
関係:母
医療的ケアのある子:第2子2歳
首都圏在住。夫、第1子、第2子の4人家族。
第2子が2017年新生児仮死で出生した。
NICUとGCUに数日入院した後、自宅で生活していたが、新生児期に発熱して入院。
珍しい症状であり地元の病院から専門病院に転院して治療した。
生後半年でストーマを造設し、2歳のときにストーマを閉鎖する手術を受けた。
今は必要な医療的ケアはないが、心不全のケアが今後も必要である。
第2子のストーマ閉鎖後に保育園入園が決まり、仕事復帰予定である。
プロフィール詳細
2017年に第2子は、新生児仮死で出生した。第1子は当時3歳だった。
医療的ケアとしては、生後半年でストーマを一時的に造設した。
当初は1歳と予定されていた手術を2歳で受けてストーマを閉鎖したため、現在は必要な医療的ケアはない。
第2子は、出生後すぐにNICU(新生児集中治療室)に入院した。
出産までは普通に生まれると考えていたので、突然の出来事だった。
産後の入院中、周囲の母親とは異なり自分のそばには子どもがいない上に、どうなるかも分からない状況に不安定になってしまった。
出産時の話を聞きたいと医師に要望して説明を受けたが、「お母さんが、うまく呼吸できなかったから」と言われてしまい、さらにショックを受けた。
出産を担当した医師や助産師と話し合いもしたが、すっきりはしなかった。
NICUでの第2子との面会では、視点が合わないなどがあると「脳に後遺症が残ったのか、大丈夫か」と心配になり、夫も一緒に泣いていた。
助産師である私の妹は、「それはしんどかったと思う」と支えてくれた。
子どもは順調に回復してGCU(新生児回復室)に移動し、生後6日で「大丈夫」と医師に言われて退院することができた。
出産のときも大変であったが、その後に出てきた症状の衝撃の方が大きかった。
NICU退院後は自宅で普通に生活をしていたが生後1ヶ月未満の時期に発熱し、自宅の近所の病院に入院した。
子どもの症状に気づいて医療者に伝えたが「分からない」と繰り返されて心配になった。
結局、珍しい症状であったため、遠方の専門病院へ緊急で転院した。
転院先に到着したときに、急に「自然治癒のために絶食が必要」と言われて、とても驚いた。
約1ヶ月間の入院を経て、絶食をしない状態で、自然治癒を目指して退院した。
しかし予定の時期までに自然治癒せず、生後半年でストーマを造設。
造設の入院前に、ストーマの患者会や病院のWOCナース(皮膚・排泄ケア認定看護師)から情報収集した。
しかし、小児慢性特定疾病による医療費助成の対象外で、高額なストーマパウチ代金の助成を受けられなかった。
袋の貼り換えは自分で修行のように修得し、自信を持てるようになった。
ストーマの説明やサポートが手厚くあると良かったと思う。
難治性下痢症と心不全も重なり、当初は1歳前と予定されていたストーマを閉鎖する手術は、2歳となった。
今は必要な医療的ケアはないが、心不全のケアが今後も必要である。
ストーマが必要になったときに入院していた専門病院の看護のレベルは高く、付き添い者の宿泊施設があったことが、とても助かった。
しかし、入院の際は、第1子は病棟に入れず、また住まいが遠方のため、夫や祖母に第1子の世話を依頼した。
自分自身は宿泊施設に身を寄せるため、環境変化への対応が大変だった。
第1子は爪噛みや赤ちゃん返りなどで不安定になっていった。
長期の入院が決まってからは、第1子に対するきょうだい児のケアや母親のメンタルに関する診療などを受けることができたが、当初からそのサポートがあったらとも思った。
月単位に及ぶ入院の際には、夫が母親不在の中、第1子の世話と多忙な仕事を頑張った結果、うつ病になってしまった。
病児の父親へのサポートが必要だと思った。
退院して自宅で生活を送れるようになっても、病院のように専門的に病児の親へのサポートをしてもらえる公的機関は少なく、現在もまだ課題は多く残っている。
医療的ケア児の母親は、発信するのも大変なので、医療者にその声を受け止めて国に伝えてもらいたい。
ストーマという名称自体へのイメージ、上の子の友人関係に影響を与えることを避けたい気持ちもあり、ストーマについて家族以外で話せたのはごく限られた人だけである。
診断書の提出、保育園での看護師加配の必要性の証明など、何度も自治体とのやり取りが必要であったが、今は、第2子の保育園が決まって、もうすぐ仕事復帰予定である。
今後は時短の活用、職場の人に子どもの病気についてどう伝えるかなどを考えて行きたい。
医療的ケアとしては、生後半年でストーマを一時的に造設した。
当初は1歳と予定されていた手術を2歳で受けてストーマを閉鎖したため、現在は必要な医療的ケアはない。
第2子は、出生後すぐにNICU(新生児集中治療室)に入院した。
出産までは普通に生まれると考えていたので、突然の出来事だった。
産後の入院中、周囲の母親とは異なり自分のそばには子どもがいない上に、どうなるかも分からない状況に不安定になってしまった。
出産時の話を聞きたいと医師に要望して説明を受けたが、「お母さんが、うまく呼吸できなかったから」と言われてしまい、さらにショックを受けた。
出産を担当した医師や助産師と話し合いもしたが、すっきりはしなかった。
NICUでの第2子との面会では、視点が合わないなどがあると「脳に後遺症が残ったのか、大丈夫か」と心配になり、夫も一緒に泣いていた。
助産師である私の妹は、「それはしんどかったと思う」と支えてくれた。
子どもは順調に回復してGCU(新生児回復室)に移動し、生後6日で「大丈夫」と医師に言われて退院することができた。
出産のときも大変であったが、その後に出てきた症状の衝撃の方が大きかった。
NICU退院後は自宅で普通に生活をしていたが生後1ヶ月未満の時期に発熱し、自宅の近所の病院に入院した。
子どもの症状に気づいて医療者に伝えたが「分からない」と繰り返されて心配になった。
結局、珍しい症状であったため、遠方の専門病院へ緊急で転院した。
転院先に到着したときに、急に「自然治癒のために絶食が必要」と言われて、とても驚いた。
約1ヶ月間の入院を経て、絶食をしない状態で、自然治癒を目指して退院した。
しかし予定の時期までに自然治癒せず、生後半年でストーマを造設。
造設の入院前に、ストーマの患者会や病院のWOCナース(皮膚・排泄ケア認定看護師)から情報収集した。
しかし、小児慢性特定疾病による医療費助成の対象外で、高額なストーマパウチ代金の助成を受けられなかった。
袋の貼り換えは自分で修行のように修得し、自信を持てるようになった。
ストーマの説明やサポートが手厚くあると良かったと思う。
難治性下痢症と心不全も重なり、当初は1歳前と予定されていたストーマを閉鎖する手術は、2歳となった。
今は必要な医療的ケアはないが、心不全のケアが今後も必要である。
ストーマが必要になったときに入院していた専門病院の看護のレベルは高く、付き添い者の宿泊施設があったことが、とても助かった。
しかし、入院の際は、第1子は病棟に入れず、また住まいが遠方のため、夫や祖母に第1子の世話を依頼した。
自分自身は宿泊施設に身を寄せるため、環境変化への対応が大変だった。
第1子は爪噛みや赤ちゃん返りなどで不安定になっていった。
長期の入院が決まってからは、第1子に対するきょうだい児のケアや母親のメンタルに関する診療などを受けることができたが、当初からそのサポートがあったらとも思った。
月単位に及ぶ入院の際には、夫が母親不在の中、第1子の世話と多忙な仕事を頑張った結果、うつ病になってしまった。
病児の父親へのサポートが必要だと思った。
退院して自宅で生活を送れるようになっても、病院のように専門的に病児の親へのサポートをしてもらえる公的機関は少なく、現在もまだ課題は多く残っている。
医療的ケア児の母親は、発信するのも大変なので、医療者にその声を受け止めて国に伝えてもらいたい。
ストーマという名称自体へのイメージ、上の子の友人関係に影響を与えることを避けたい気持ちもあり、ストーマについて家族以外で話せたのはごく限られた人だけである。
診断書の提出、保育園での看護師加配の必要性の証明など、何度も自治体とのやり取りが必要であったが、今は、第2子の保育園が決まって、もうすぐ仕事復帰予定である。
今後は時短の活用、職場の人に子どもの病気についてどう伝えるかなどを考えて行きたい。