インタビュー時:58歳(2021年10月)
関係:母
医療的ケアのある子:長女29歳
四国在住。実母と娘の3人暮らし。
娘は出産時の回旋異常で重度の脳性麻痺となった。
当初は経鼻チューブから栄養を取っていたが、何度も練習し生後4か月頃から経口摂取が可能になった。
胃食道逆流症もあり口腔・鼻腔吸引、喘息のため吸入は今も必要。
娘は地元の小中学校の特別支援学級に通った。
娘が幼児期から、障がい児者の親の会の活動をしている。
娘が成人したとき、社会人としてどう生きていくかを考えた。
現在、児童館での交流や自分のできることを活かし、社会人として生きる娘を応援している。
プロフィール詳細
長女は出産時の回旋異常で仮死状態となり、重度の脳性麻痺となった。
障害が残るかもしれないと聞いたときは驚き、障害のある子なんていらないと口に出して拒絶した。
しかし母乳を届けに行くたびに娘を眺め、生後1か月半頃に初めて抱っこしたときはとてもうれしく、一緒に過ごしたい気持ちになった。
吸う力が弱く経鼻チューブで栄養を送っていたが、口をくちゅくちゅ動かす様子もあり、練習すれば口から飲めるかもしれないと思った。
自分で哺乳瓶の乳首の穴を大きくしたり、数を増やしたりと工作し、何度も哺乳を試した。
生後4か月頃、経鼻チューブを抜いて生活できるようになった。
この経験から何事もあきらめない気持ちが強く生まれ、娘と生きていく自分の出発点になったと思う。
経鼻栄養は外れたものの、胃と食道の逆流症で食べてはすぐ戻すことが多く、口腔・鼻腔吸引が必要だった。
喘息のための吸入もあり、今でも吸引や吸入は必要な時に実施している。
食事はとろみをつけたペースト食。家で調理したものを食べさせている。
大人になった今、味の好みも出てきたが、小さい頃の食事は娘にとっては苦痛で、泣いて怒って口を開かない。
抱っこしてあやし、ちょっと口が開いた拍子に口にいれるというような食事は小学校に入るくらいまで続いていた。
娘は地域の普通小学校に設置された特別支援学級に通った。
自身は他府県出身のため、一人っ子の娘がこの地域の一員となるためには地域の学校にいくのが一番と考えた。
座位保持の車いすにのった重度障害児を普通学校が受け入れた前例が当時はない。
まず通っていた療育センターの園長に相談し、幼稚園との交流を始めた。
地域の保護者に知ってもらえると、応援してくれるようになった。
交流の様子を教育委員会に伝えるうち、教育委員会から地元の小学校の校長に受け入れをお願いする形で、親の付き添いを条件に地域の小学校入学が認められた。
2年生の終わりまで娘の学校生活に付き添い、3年生の頃、週3日訪問看護師が学校での介助につく取り組みが開始した。
小学校の経験があったため地元の普通中学校への入学も割とスムーズで、娘は地元の中学校に入学し、卒業した。
中学卒業後は特別支援学校高等部と思っていた矢先、他の都府県では普通高校に知的障害のある子の受験枠があると聞いた。
娘は自ら発語は難しいが賑やかなおしゃべりに囲まれるのが好きだった。
みんなと机を並べて過ごしたいという思いで、地元での高校受験を決意した。
3年間受験にチャレンジし合格はもらえなかったが、最終的に理解のある校長先生が定時制高校に週1回来られる制度を独自に作り、通いませんかと声をかけてくれた。
娘も高校の門をくぐることができ、本当にうれしかった。
娘が成人を迎えたときは、よくここまで大きくなったという達成感や喜びは大きかった一方、娘が社会人として何ができるのかという気持ちに向かっていた。
初めての選挙で、コミュニケーション支援機器で選んだ候補者を伝え、選挙係員による代筆で権利行使できたことは嬉しかった。
それまで近くの児童館で月1回の交流をしていたが、これを仕事にできないかと市に要望を上げたところ、娘が市内の児童館で子どもと交流できる事業を作ってもらうことができた。
現在もコミュニケーション支援機器や車いすの体験などをしてもらう交流事業を仕事とし、報酬も得ている。
自分はもともと県職員として働いていたが、娘が5歳頃に娘のフィールドで生きていこうという思いが募り、退職した。
その後、県の肢体不自由児親の会の活動をしていることもあり、様々な出会いのチャンスをもらっている。
現在、大きくなった娘の為に作った抱っこ具を販売する事業も展開し、全国の方々の役に立てることが嬉しい。
多くの出会いと助けに感謝しつつ、「誰かの役に立つことは誰でもできる」と他の人にも伝えたい。
障害が残るかもしれないと聞いたときは驚き、障害のある子なんていらないと口に出して拒絶した。
しかし母乳を届けに行くたびに娘を眺め、生後1か月半頃に初めて抱っこしたときはとてもうれしく、一緒に過ごしたい気持ちになった。
吸う力が弱く経鼻チューブで栄養を送っていたが、口をくちゅくちゅ動かす様子もあり、練習すれば口から飲めるかもしれないと思った。
自分で哺乳瓶の乳首の穴を大きくしたり、数を増やしたりと工作し、何度も哺乳を試した。
生後4か月頃、経鼻チューブを抜いて生活できるようになった。
この経験から何事もあきらめない気持ちが強く生まれ、娘と生きていく自分の出発点になったと思う。
経鼻栄養は外れたものの、胃と食道の逆流症で食べてはすぐ戻すことが多く、口腔・鼻腔吸引が必要だった。
喘息のための吸入もあり、今でも吸引や吸入は必要な時に実施している。
食事はとろみをつけたペースト食。家で調理したものを食べさせている。
大人になった今、味の好みも出てきたが、小さい頃の食事は娘にとっては苦痛で、泣いて怒って口を開かない。
抱っこしてあやし、ちょっと口が開いた拍子に口にいれるというような食事は小学校に入るくらいまで続いていた。
娘は地域の普通小学校に設置された特別支援学級に通った。
自身は他府県出身のため、一人っ子の娘がこの地域の一員となるためには地域の学校にいくのが一番と考えた。
座位保持の車いすにのった重度障害児を普通学校が受け入れた前例が当時はない。
まず通っていた療育センターの園長に相談し、幼稚園との交流を始めた。
地域の保護者に知ってもらえると、応援してくれるようになった。
交流の様子を教育委員会に伝えるうち、教育委員会から地元の小学校の校長に受け入れをお願いする形で、親の付き添いを条件に地域の小学校入学が認められた。
2年生の終わりまで娘の学校生活に付き添い、3年生の頃、週3日訪問看護師が学校での介助につく取り組みが開始した。
小学校の経験があったため地元の普通中学校への入学も割とスムーズで、娘は地元の中学校に入学し、卒業した。
中学卒業後は特別支援学校高等部と思っていた矢先、他の都府県では普通高校に知的障害のある子の受験枠があると聞いた。
娘は自ら発語は難しいが賑やかなおしゃべりに囲まれるのが好きだった。
みんなと机を並べて過ごしたいという思いで、地元での高校受験を決意した。
3年間受験にチャレンジし合格はもらえなかったが、最終的に理解のある校長先生が定時制高校に週1回来られる制度を独自に作り、通いませんかと声をかけてくれた。
娘も高校の門をくぐることができ、本当にうれしかった。
娘が成人を迎えたときは、よくここまで大きくなったという達成感や喜びは大きかった一方、娘が社会人として何ができるのかという気持ちに向かっていた。
初めての選挙で、コミュニケーション支援機器で選んだ候補者を伝え、選挙係員による代筆で権利行使できたことは嬉しかった。
それまで近くの児童館で月1回の交流をしていたが、これを仕事にできないかと市に要望を上げたところ、娘が市内の児童館で子どもと交流できる事業を作ってもらうことができた。
現在もコミュニケーション支援機器や車いすの体験などをしてもらう交流事業を仕事とし、報酬も得ている。
自分はもともと県職員として働いていたが、娘が5歳頃に娘のフィールドで生きていこうという思いが募り、退職した。
その後、県の肢体不自由児親の会の活動をしていることもあり、様々な出会いのチャンスをもらっている。
現在、大きくなった娘の為に作った抱っこ具を販売する事業も展開し、全国の方々の役に立てることが嬉しい。
多くの出会いと助けに感謝しつつ、「誰かの役に立つことは誰でもできる」と他の人にも伝えたい。
インタビュー31
- 私の母は孫のケア、日常の家事も含め一番の応援団だ。祖母として常に愛情深く接してくれ私たち親子にとって心のよりどころだ
- 地元の友達を作りたいという思いで、幼稚園での交流を始めた。他のお母さんたちも応援してくれ普通小学校への入学が実現した
- 高校は特別支援学校かと思っていた矢先、普通学校を受験する選択肢もあると聞き、娘も望んだため、受験を決意した
- 普通高校を3回受験しすべて不合格だったが、定時制高校の校長先生が学校開放の制度を設け、娘が通える環境を作ってくれた
- 毎日親が付き添ったことで他の子たちとの交流が活性化し、プールに入ることも認めてもらえ、得られるものがたくさんあった
- 成人した娘が、児童館で子どもたちと交流する活動を社会貢献事業として認めてもらい、謝金を娘の口座に振り込んでもらっている
- 経鼻栄養は外れたものの、娘は食べることが苦手だった。あやして口が開いた瞬間に入れる形でなんとかペースト食を食べさせた
- 29歳の娘はぜんそくの発作や、コロナワクチン接種をきっかけに、小児科から大人の診療科の受診を勧められ、移行期間中だ
- 娘が成人して社会人としてどう生きていくかを考えた。最初に行ったのは選挙だ。コミュニケーション機器で投票を完了したときは感無量だった
- 修学旅行は秋芳洞の内部で集合写真を撮る予定だったが、車いすではいけない。周囲の保護者が別の所で撮ればよいと提案してくれた
- 障害に対する拒絶反応から思わず「障害児なんていらない」と口にしたが、子どもの懸命に生きる姿に何とか助かってほしいと願った