インタビュー時:47歳(2022年1月)
関係:母
医療的ケアのある子:長女15歳
関西在住。夫と長女(15歳)、長男(11歳)の4人家族。
長女は生後何日経ってもミルクを飲まず経管栄養が開始され、生後7か月で胃ろうとなった。
3歳頃に染色体の一部欠損が分かり、今後できないことが多いのかと思ったが、その予測に反し娘は歩けるようになり、歌やダンスが大好きな子になった。
普通小学校入学を希望し、地域の大きな支援を受けて看護師配置が実現した。
娘の小学校入学を機に仕事をしたいと思い、現在自宅で英語塾の講師をしている。
プロフィール詳細
妊娠経過には問題なく、普通分娩で長女を出産した。
精密検査で心疾患と口蓋裂が分かり手術が必要といわれ、それだけならばと思ったが何日経ってもミルクを飲まず点滴や経管栄養が開始された。
原因となる病名を調べるため小さな腕に針を刺して採血が繰り返され、とても痛々しかった。
食べて大きくなれば、他の子と同じように成長できるのではないかと思い、口から食べさせようとしたこともあるが、今思えば娘には酷なことをしてしまった。
胃ろうにしてから胃からの逆流や誤嚥などのトラブルは減り、10ヶ月の入院を経て在宅療養となった。
首が据わらず、何か異変を見逃してしまったらと家では恐怖心ばかりの毎日だった。
当時は9つの診療科にかかり、週に3回は病院で、S字フックを持ち歩いて長い待ち時間に栄養注入をする日々だった。
各科で個別の経過は説明されても全体としての病名は分からなかったが、3歳頃に染色体検査で、ある部分の欠損が見つかった。
だからなにかできるわけでもないが、原因がわかったことで自分の気持ちが楽になった。
娘の将来はできないことが多いのかと腹をくくったが、その予測に反し、娘はできることが増え4歳頃につかまり立ちする様子がみえた。
娘が4歳の時に、下の子の出産で入院することになり、娘のケアや居場所を見つけるのに困った。
夫の当時の職場環境として産休や育休を長期でとれる雰囲気ではなく、市役所で相談しても断られて困っていたところ、当時通っていた障害児専門の幼稚園で先生が胃ろうのケアの試験を受け、お泊りも引き受けてくれた。
娘には楽しい場、自分も安心して預けられる場がとてもありがたかった。
弟が生まれると娘はお姉さんになったと意識したのか、突然歩けるようになり驚いた。
就学先は地域の普通小学校を希望し、就学前から何度も教育委員会に掛け合ったが、当初は安全面や人件費の点で、強く拒否された。
地域の議員や当時通っていた保育園の支援を受け、看護師配置による普通小学校入学が実現した。
6年間在籍中、地域の子が娘の名前と顔を覚えて声をかけてくれた。
娘を避ける子もいたが、そういう経験も娘の将来には必ず必要だと思った。
娘が新聞に取り上げられるなど地域で目立つ存在となっていたため、息子はその影響をあまり受けずに自分のネットワークを作ってほしいと思い、別の地域にある私立の小学校に入れた。
娘が中学校になるときに特別支援学校にした。
支援学校では、生活を楽しむことや身体を使ったり、作業する経験が中心で、娘は自分の生活に見通しがつくようになった。
片足立ちやボールをつくこともできるようになり、東京オリンピックの時期はパプリカを楽しそうに踊っていた。
タブレットでのゲームや、音声検索機能を使って自分が見たい映像を検索することもある。
娘は15歳で体は小さいものの女性の丸みを帯びてきた。
学校でもプライベートゾーンは人には見せない、などを教えてくれているが、理解が十分ではなくどう伝え、身に着けさせるかが今後の課題だ。
お風呂介助はまだ父親がしているが、もうすぐ異性の親としてできなくなるところにきていると思う。
力も強い娘を相手に、高齢のヘルパーでは大変かと思うと女性の介助者を探す難しさにも直面している。
仕事は元々夫と同じ会社に勤めていたが、娘が生まれて仕事復帰は望めないと思い退職した。
娘が小学校、下の子は保育園に通うようになったとき、もう一度誰かの役に立つ仕事を持ちたいと思った。
大学は外国語専攻で、以前の仕事でも英語を使っていたため、自宅で英語塾の講師ができるのではと思い、認定を受ける勉強をした。
自宅とはいえ夕方からのレッスンが多いため、自分の子が学校から帰ってきてからの時間を一緒に過ごせなくなってしまうジレンマもあり、仕事となると大変なこともある。
ただ、子どもの気配を感じて仕事ができる環境は医療的ケア児を育てる母としての一つの選択肢だと思う。
精密検査で心疾患と口蓋裂が分かり手術が必要といわれ、それだけならばと思ったが何日経ってもミルクを飲まず点滴や経管栄養が開始された。
原因となる病名を調べるため小さな腕に針を刺して採血が繰り返され、とても痛々しかった。
食べて大きくなれば、他の子と同じように成長できるのではないかと思い、口から食べさせようとしたこともあるが、今思えば娘には酷なことをしてしまった。
胃ろうにしてから胃からの逆流や誤嚥などのトラブルは減り、10ヶ月の入院を経て在宅療養となった。
首が据わらず、何か異変を見逃してしまったらと家では恐怖心ばかりの毎日だった。
当時は9つの診療科にかかり、週に3回は病院で、S字フックを持ち歩いて長い待ち時間に栄養注入をする日々だった。
各科で個別の経過は説明されても全体としての病名は分からなかったが、3歳頃に染色体検査で、ある部分の欠損が見つかった。
だからなにかできるわけでもないが、原因がわかったことで自分の気持ちが楽になった。
娘の将来はできないことが多いのかと腹をくくったが、その予測に反し、娘はできることが増え4歳頃につかまり立ちする様子がみえた。
娘が4歳の時に、下の子の出産で入院することになり、娘のケアや居場所を見つけるのに困った。
夫の当時の職場環境として産休や育休を長期でとれる雰囲気ではなく、市役所で相談しても断られて困っていたところ、当時通っていた障害児専門の幼稚園で先生が胃ろうのケアの試験を受け、お泊りも引き受けてくれた。
娘には楽しい場、自分も安心して預けられる場がとてもありがたかった。
弟が生まれると娘はお姉さんになったと意識したのか、突然歩けるようになり驚いた。
就学先は地域の普通小学校を希望し、就学前から何度も教育委員会に掛け合ったが、当初は安全面や人件費の点で、強く拒否された。
地域の議員や当時通っていた保育園の支援を受け、看護師配置による普通小学校入学が実現した。
6年間在籍中、地域の子が娘の名前と顔を覚えて声をかけてくれた。
娘を避ける子もいたが、そういう経験も娘の将来には必ず必要だと思った。
娘が新聞に取り上げられるなど地域で目立つ存在となっていたため、息子はその影響をあまり受けずに自分のネットワークを作ってほしいと思い、別の地域にある私立の小学校に入れた。
娘が中学校になるときに特別支援学校にした。
支援学校では、生活を楽しむことや身体を使ったり、作業する経験が中心で、娘は自分の生活に見通しがつくようになった。
片足立ちやボールをつくこともできるようになり、東京オリンピックの時期はパプリカを楽しそうに踊っていた。
タブレットでのゲームや、音声検索機能を使って自分が見たい映像を検索することもある。
娘は15歳で体は小さいものの女性の丸みを帯びてきた。
学校でもプライベートゾーンは人には見せない、などを教えてくれているが、理解が十分ではなくどう伝え、身に着けさせるかが今後の課題だ。
お風呂介助はまだ父親がしているが、もうすぐ異性の親としてできなくなるところにきていると思う。
力も強い娘を相手に、高齢のヘルパーでは大変かと思うと女性の介助者を探す難しさにも直面している。
仕事は元々夫と同じ会社に勤めていたが、娘が生まれて仕事復帰は望めないと思い退職した。
娘が小学校、下の子は保育園に通うようになったとき、もう一度誰かの役に立つ仕事を持ちたいと思った。
大学は外国語専攻で、以前の仕事でも英語を使っていたため、自宅で英語塾の講師ができるのではと思い、認定を受ける勉強をした。
自宅とはいえ夕方からのレッスンが多いため、自分の子が学校から帰ってきてからの時間を一緒に過ごせなくなってしまうジレンマもあり、仕事となると大変なこともある。
ただ、子どもの気配を感じて仕事ができる環境は医療的ケア児を育てる母としての一つの選択肢だと思う。
インタビュー37
- 食事中、娘の行動で注目を浴びて恥ずかしかったようで、息子が「もう一緒に食べたくない」と言った。ついにこの時が来たと思った
- 私は毎日子どものケアなのに、夫は自由に過ごし腹が立った事もある。でも娘の成長を誰より喜べるのは夫婦2人だけという気持ちだ
- 娘が成長し力が強くなり、高齢の祖父母にお願いしづらくなった。自分の親きょうだいも助けてくれたが、吸引は任せられなかった
- 普通小学校入学にあたり行政との交渉が難航した。議員らにも働きかけて、学校に看護師を派遣してもらい、無事入学できた
- 運動会の組体操で、他の子に混じった娘の姿を探した。今まで目立ちすぎていた娘を探さないといけないことがどれほど嬉しかったか
- 下の子の出産時、長女のケアについて悩んだ。障害児向けの幼稚園で先生方が胃ろうのケアの資格をとって、宿泊で受け入れてくれた
- パソコンやテレビは使い方を教えなくても自分で機能を発見して遊んでいる。音声検索機能で好きな動画や画像を出すのも楽しそうだ
- 胃ろうのルートをつけたまま抱いてルートを引っかけボタン部分が外れてしまったことが2回ある。帰省先では小児対応の病院も材料もなく焦った
- 娘は小学校高学年まで積極的な様子がなかったが、身体が成長すると急にボールつきをしたり、学習意欲があふれてきて驚いた
- 1時間かけて経鼻で与えたわずかなミルクも吐き戻してしまうため、胃食道逆流症の手術をし、退院後のことを考え胃ろうも造設した