インタビュー時:38歳(2022年4月)
関係:父
医療的ケアのある子:三女5歳
九州・沖縄地方在住。妻と長女17歳、長男15歳、次女13歳、三女5歳の6人家族。
妊娠28週で三女に水頭症と二分脊椎が分かった。
生まれてすぐ手術を受けたが、2ヶ月目に呼吸状態が悪化し、1歳で気管切開をし、4歳で胃ろうの手術をした。
2歳までは入退院を繰り返す日々だったが、現在は状態も落ち着き、声やジェスチャーで周囲に意思を伝えてくる。
2歳のとき行政や議員、地域のサポートを受け、在住市で初めて医療的ケア児の保育園入園が実現した。
娘は地域の子と一緒に過ごすことで大きく成長している。
プロフィール詳細
第4子となる三女は妊娠28週目で二分脊椎(脊椎の形成不全により脊髄の機能が障害を受けている先天疾患)とそれに伴う水頭症、キアリ奇形Ⅱ型、開放性脊髄髄膜瘤を指摘された。
出生から24時間以内に背中にあいた穴を閉じる手術を行う必要があり、子どもは急いで手術室に運ばれていったが、手足がバタバタと動く様子も見られ、なにより無事生まれてきたことにほっとした。
1か月間NICU(新生児集中治療室)で過ごしたのち、自宅療養となった。
この病気をもって生まれてきた子としては異例の速さでの退院といわれ、この先ももっといろんな可能性があるのではないかと親として期待も膨らんだ。
しかし2か月目で急に呼吸状態が悪化し、検査で脳内の異常により呼吸がうまくできないと分かり、気管挿管を行った。
その後、1歳で気管切開や4歳で胃ろうの手術を行い、5歳になるまでに計9回の手術を行っている。
2歳になるまでは入院期間が日常の大半を占めた。
その間も呼吸が止まるなど危険な状態になることもあり片時も目を離せず、入院付き添いは妻と交代で行っていた。
仕事は救急救命士で、ケアの必要な子がいることについて職場の理解は得られていた。
24時間シフト制勤務のため、昼間に入院付き添いの時間をとることができたり、夜勤シフトでは職場で仮眠をとることができたりした点で、環境に恵まれていた。
家で妻を休ませ自分がケアをするとき、吸引チューブをもったまま座椅子に座って眠り、アラームが鳴ったらすぐ起きて吸引という生活だった。
地域では訪問看護師がほぼ毎日来てくれたので、その時間が唯一休める時間だった。
仕事柄、医療的ケアに必要な手技には対応できた。
しかし、一度、自宅でけいれんを起こし意識を失った娘を前に、処置は難しくないのに動揺する気持ちが抑えきれず、冷静になれと自分自身に言い聞かせたことを覚えている。
仕事で手技ができることと親としての気持ちは全く別だった。
三女が生まれるときには、上の3人の子は全員小学生で学校も習い事も大忙しの日々だった。
何より遊びたい盛りの子どもたちを、どこにも連れて行ってあげられないのが親として辛かった。
二世帯住宅の下の階に住む祖父母が日々、上の子たちの面倒を見てくれたり、近くに住む親族や友人たちが送迎やお出かけに誘ってくれたりして助けてくれた。
上の子たちは三女をとてもかわいがっており、今では吸引なども覚えてやってくれている。
三女が生まれてから夫婦2人で決断しなければならないことが多く、夫婦の会話が増えたこと、きょうだいの絆、家族の絆が強まったことは感じている。
生後半年頃、娘の相談員から保育園入園を目指してみないかと言われた。
当時は、妻も仕事を辞め、これまでと同様の生活は諦めていたところで、その話にとても驚いたが、夫婦でやってみようと決意した。
1年半かけて情報を集め、行政や議員に相談した。
担当医から「この子なら発達の可能性を十分秘めている」と言ってもらえたこともあり、市内第一号のモデルとして2歳児からの保育園入園が決まった。
保育園には看護師が配置され、1ヶ月ほどで親の付き添いがなくなり、保育園に通った。現在は小学校のプレスクールの位置づけである幼稚園に通っているが、そこでも看護師が配置されている。
娘は手先が器用で折り紙遊びが大好きだ。まだ会話までは至らないものの、吸引してほしいときは自分で喉を指さしたり、取ってほしいものがあれば「ん、ん」という声で周りに意思を伝えることができる。
来年度は、上の子たちと同じ地元の普通小学校の入学を目指して教育委員会に相談中である。
地元で育ち、友達を作っていくことが今後娘が成長する上で大きな助けとなると思っている。
出生から24時間以内に背中にあいた穴を閉じる手術を行う必要があり、子どもは急いで手術室に運ばれていったが、手足がバタバタと動く様子も見られ、なにより無事生まれてきたことにほっとした。
1か月間NICU(新生児集中治療室)で過ごしたのち、自宅療養となった。
この病気をもって生まれてきた子としては異例の速さでの退院といわれ、この先ももっといろんな可能性があるのではないかと親として期待も膨らんだ。
しかし2か月目で急に呼吸状態が悪化し、検査で脳内の異常により呼吸がうまくできないと分かり、気管挿管を行った。
その後、1歳で気管切開や4歳で胃ろうの手術を行い、5歳になるまでに計9回の手術を行っている。
2歳になるまでは入院期間が日常の大半を占めた。
その間も呼吸が止まるなど危険な状態になることもあり片時も目を離せず、入院付き添いは妻と交代で行っていた。
仕事は救急救命士で、ケアの必要な子がいることについて職場の理解は得られていた。
24時間シフト制勤務のため、昼間に入院付き添いの時間をとることができたり、夜勤シフトでは職場で仮眠をとることができたりした点で、環境に恵まれていた。
家で妻を休ませ自分がケアをするとき、吸引チューブをもったまま座椅子に座って眠り、アラームが鳴ったらすぐ起きて吸引という生活だった。
地域では訪問看護師がほぼ毎日来てくれたので、その時間が唯一休める時間だった。
仕事柄、医療的ケアに必要な手技には対応できた。
しかし、一度、自宅でけいれんを起こし意識を失った娘を前に、処置は難しくないのに動揺する気持ちが抑えきれず、冷静になれと自分自身に言い聞かせたことを覚えている。
仕事で手技ができることと親としての気持ちは全く別だった。
三女が生まれるときには、上の3人の子は全員小学生で学校も習い事も大忙しの日々だった。
何より遊びたい盛りの子どもたちを、どこにも連れて行ってあげられないのが親として辛かった。
二世帯住宅の下の階に住む祖父母が日々、上の子たちの面倒を見てくれたり、近くに住む親族や友人たちが送迎やお出かけに誘ってくれたりして助けてくれた。
上の子たちは三女をとてもかわいがっており、今では吸引なども覚えてやってくれている。
三女が生まれてから夫婦2人で決断しなければならないことが多く、夫婦の会話が増えたこと、きょうだいの絆、家族の絆が強まったことは感じている。
生後半年頃、娘の相談員から保育園入園を目指してみないかと言われた。
当時は、妻も仕事を辞め、これまでと同様の生活は諦めていたところで、その話にとても驚いたが、夫婦でやってみようと決意した。
1年半かけて情報を集め、行政や議員に相談した。
担当医から「この子なら発達の可能性を十分秘めている」と言ってもらえたこともあり、市内第一号のモデルとして2歳児からの保育園入園が決まった。
保育園には看護師が配置され、1ヶ月ほどで親の付き添いがなくなり、保育園に通った。現在は小学校のプレスクールの位置づけである幼稚園に通っているが、そこでも看護師が配置されている。
娘は手先が器用で折り紙遊びが大好きだ。まだ会話までは至らないものの、吸引してほしいときは自分で喉を指さしたり、取ってほしいものがあれば「ん、ん」という声で周りに意思を伝えることができる。
来年度は、上の子たちと同じ地元の普通小学校の入学を目指して教育委員会に相談中である。
地元で育ち、友達を作っていくことが今後娘が成長する上で大きな助けとなると思っている。
インタビュー39
- 第4子に病気があって生まれてとても大変な毎日だったが、夫婦の話し合いの時間が増え、きょうだいの絆も強くなったと感じる
- 生後1か月で退院してきた頃、吸引が頻回で眠れなかったが、自分は夜勤で仮眠をとることができ、仕事とケアをなんとか両立できた
- 他の家庭での状況や、新しい制度や機器の情報は相談員や訪問看護師から得た。ハード面での自己負担額も大きく、その情報は貴重だ
- 妻が新型コロナウィルスに感染し、1人で娘の2週間の医療的ケアを行うことになった。周囲の友人やきょうだい児のサポートで乗り切った
- 妊娠中に水頭症と脊髄髄膜瘤の診断がつき、ネットでも調べていたが、妻ともども産まないという選択肢は全く考えたことがなかった