インタビュー時:37歳(2022年10月)
関係:母(インタビュー41の妻)
医療的ケアのある子:長男4歳
首都圏在住。夫と長男の3人家族。
看護師資格をもつ。息子は生まれた直後に緊急搬送された。生後2か月で気管切開、4か月で胃ろうとなり、その後、両親の遺伝子の同じ部分にそれぞれ異なる変異が偶然あったこと(常染色体潜性遺伝)が原因の稀少疾患とわかった。息子を守るためすべての情報を理解したい母の気持ちと、辛い現実を医療の知識を活用して乗り切ろうという医療者の気持ちが共存していた。息子が1歳過ぎの頃、現在の研究職に復職した。テレワーク中心で、忙しいが柔軟な働き方ができている。市の保育園とその他サービスを使い週5日子どもを預け、共働きで子育てしている。
プロフィール詳細
息子を妊娠していた当時、看護系の博士課程の大学院生だった。妊娠中、とくに異常はなかったが、胎動が少ないように思い、自分の持っている聴診器をお腹にあて心音を確認していた。出産日はようやくこの不安から解放されるという気持ちだった。
帝王切開で、いよいよ「生まれるよ」と手術台で声がかかったが、子どもの泣き声が聞こえない。過去、学生として出産介助を経験したときと比べるとなにかおかしい、と見渡すと息子の吸引が始まっていた。パニックになると同時に麻酔の副作用で急激に気持ち悪くなる中、さい帯血の酸素濃度や心拍モニターの数値を確認したことを断片的に覚えている。
生後3日目にNICU(新生児集中治療室)へ息子に会いにいった。病院の医師や看護師から、母である自分が看護職であるという前提で説明がなされた。息子の手足の形が普通とは違うように感じていたが、新生児科医からは大きな問題はないと言われた。しかし、その後もけいれんが続き、呼吸がとまったり、心拍が落ちたりで、かなり厳しい話を聞かされたこともある。夫はわけがわからないのと辛いのとで感情的になっていたときもあったが、自分は冷静であることに努めた。この状況をしっかり理解して息子を守らなければという母としての気持ちと、息子にふりかかる辛い現実を医学的知識で理解することで和らげようとしていたのだと思う。その後、両親の遺伝子の同じ部分にそれぞれ異なる変異が偶然あったこと(常染色体潜性遺伝)による世界でも20例という稀少な疾患であるとわかった。
生後2か月で気管切開、4か月で胃ろうを造った。それらの処置の医学的な必要性は理解していたため、抵抗感を抱く夫をなだめる役割ではあったが、必要なければしないほうがいいという気持ちは同じだ。気管切開や胃ろうの手術の前日は、もうこの部分を洗えないと思い、丁寧に洗ってあげた。
息子は8ヶ月で自宅療養となった。医療的ケアの手技はすぐ慣れたが、「なぜ我が子に…」という思いもあった。家では息子のモニターアラームが鳴り響く中、いびきをかいて寝ている夫に腹が立ったこともあったが、現在、夫はなんでも任せられる主要なケアの担い手だ。
子どもが1歳頃まで博士論文の執筆や修正をしながら、自宅で自分がケアしていたが、教員から今の仕事の紹介があり、週3日の時短勤務に近所の病院で週2日の非常勤をかけもちし、息子は児童発達支援施設に週5日預けた。コロナ禍以降は、在宅ワーク中心でフルタイム勤務になった。2歳10か月のとき、市内の保育園に看護師が配置され週3日で受け入れが決まった。残り2日は療育センターや他市の児童発達支援サービスなどを利用し、週5日子どもを預けられる体制を整えた。保育園では、他の子どもと園庭で過ごすなど親子とも充実した日々だった。そんな矢先、市から翌年度からケアのある子を集約したいので徒歩30分の療育センターに移ってほしいとの話が持ち上がった。息子の楽しい時間を続けさせてほしい、親の送迎負担が重いと、行政や議会に掛け合った。年度切替の直前でなんとか同じ環境を維持できることになった。
息子が生まれてから、現在の家に他市から引っ越してきた。マンションにエレベーターがあることとリビングや寝室までがフラットで息子の座位保持椅子を移動させやすいことがポイントだった。引っ越し早々、自治会役員が回ってきて引き受けた。会合には息子を連れていくこともある。今後、災害などで困ったときにご近所の助けが必要になるかもしれない。親が地域の人と関わっていくことで息子への支援の輪を広げていきたい。
息子は現在4歳で、好きな歌を歌ってあげるとうれしそうに手振りをしたり、タイミングよく親の会話に「うん」と答えたりと面白い反応がある。次は小学校入学が視野に入る。地域の小学校で看護師配置や改修工事をお願いする場合を考えると、できるだけ早く息子の状況や必要なことを話し合いたいが、掛け合っても行政はのんびりした反応だ。息子の症例では現在12,3歳が最高年齢ときくが、息子のいない生活なんてもう考えられない。息子との生活という幸せな日々がずっと続いてほしいということが願いだ。
帝王切開で、いよいよ「生まれるよ」と手術台で声がかかったが、子どもの泣き声が聞こえない。過去、学生として出産介助を経験したときと比べるとなにかおかしい、と見渡すと息子の吸引が始まっていた。パニックになると同時に麻酔の副作用で急激に気持ち悪くなる中、さい帯血の酸素濃度や心拍モニターの数値を確認したことを断片的に覚えている。
生後3日目にNICU(新生児集中治療室)へ息子に会いにいった。病院の医師や看護師から、母である自分が看護職であるという前提で説明がなされた。息子の手足の形が普通とは違うように感じていたが、新生児科医からは大きな問題はないと言われた。しかし、その後もけいれんが続き、呼吸がとまったり、心拍が落ちたりで、かなり厳しい話を聞かされたこともある。夫はわけがわからないのと辛いのとで感情的になっていたときもあったが、自分は冷静であることに努めた。この状況をしっかり理解して息子を守らなければという母としての気持ちと、息子にふりかかる辛い現実を医学的知識で理解することで和らげようとしていたのだと思う。その後、両親の遺伝子の同じ部分にそれぞれ異なる変異が偶然あったこと(常染色体潜性遺伝)による世界でも20例という稀少な疾患であるとわかった。
生後2か月で気管切開、4か月で胃ろうを造った。それらの処置の医学的な必要性は理解していたため、抵抗感を抱く夫をなだめる役割ではあったが、必要なければしないほうがいいという気持ちは同じだ。気管切開や胃ろうの手術の前日は、もうこの部分を洗えないと思い、丁寧に洗ってあげた。
息子は8ヶ月で自宅療養となった。医療的ケアの手技はすぐ慣れたが、「なぜ我が子に…」という思いもあった。家では息子のモニターアラームが鳴り響く中、いびきをかいて寝ている夫に腹が立ったこともあったが、現在、夫はなんでも任せられる主要なケアの担い手だ。
子どもが1歳頃まで博士論文の執筆や修正をしながら、自宅で自分がケアしていたが、教員から今の仕事の紹介があり、週3日の時短勤務に近所の病院で週2日の非常勤をかけもちし、息子は児童発達支援施設に週5日預けた。コロナ禍以降は、在宅ワーク中心でフルタイム勤務になった。2歳10か月のとき、市内の保育園に看護師が配置され週3日で受け入れが決まった。残り2日は療育センターや他市の児童発達支援サービスなどを利用し、週5日子どもを預けられる体制を整えた。保育園では、他の子どもと園庭で過ごすなど親子とも充実した日々だった。そんな矢先、市から翌年度からケアのある子を集約したいので徒歩30分の療育センターに移ってほしいとの話が持ち上がった。息子の楽しい時間を続けさせてほしい、親の送迎負担が重いと、行政や議会に掛け合った。年度切替の直前でなんとか同じ環境を維持できることになった。
息子が生まれてから、現在の家に他市から引っ越してきた。マンションにエレベーターがあることとリビングや寝室までがフラットで息子の座位保持椅子を移動させやすいことがポイントだった。引っ越し早々、自治会役員が回ってきて引き受けた。会合には息子を連れていくこともある。今後、災害などで困ったときにご近所の助けが必要になるかもしれない。親が地域の人と関わっていくことで息子への支援の輪を広げていきたい。
息子は現在4歳で、好きな歌を歌ってあげるとうれしそうに手振りをしたり、タイミングよく親の会話に「うん」と答えたりと面白い反応がある。次は小学校入学が視野に入る。地域の小学校で看護師配置や改修工事をお願いする場合を考えると、できるだけ早く息子の状況や必要なことを話し合いたいが、掛け合っても行政はのんびりした反応だ。息子の症例では現在12,3歳が最高年齢ときくが、息子のいない生活なんてもう考えられない。息子との生活という幸せな日々がずっと続いてほしいということが願いだ。