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インタビュー時:49歳(2019年11月)
関係:母
医療的ケアのある子:長女16歳(逝去時)
首都圏在住。夫、長男、長女の4人家族。
長女は生後まもなく、ぐにゃりと反り返る姿勢をとるなど、2つ上の長男とは異なる様子があった。
検査しても原因はわからず、1歳頃にたん吸引、4歳頃に胃ろうと経管栄養が必要になった。
24時間続くケアで安心して眠ることができず心身ともに限界だったが、当時は子どもを見るのは母親の仕事として、ヘルパーや訪問看護の利用がなかなか認められなかった。
あきらめずに説得し、制度利用を少しずつ認めてもらうようになった。
語りの内容
腸の24時間(持続注入)のEDチューブ(栄養を鼻から腸まで送り込むチューブ)というのは、(入れるのが大変なんです。)
(チューブが抜けると)造影といって、大学病院の造影室とか、レントゲンとか、放射線科になるんでしょうかね、そういう所の機械の前に行かないといけない。
胃に入れるまでのチューブと違って、腸まで届くようにチューブを入れる所を見なければ入れることができなくて。
当時は、鼻にもチューブを入れていたもので、片方の鼻には胃までのチューブ、もう片方の鼻には腸までのチューブというのが入っていた時期があって。
両方の鼻にチューブが入ると、体が不自由だと言われている娘でも、わずかに動く手を使ってチューブを抜くことのすべをだんだん覚えてきて(笑)。
テープで取らないようにやって(固定して)はいるんですけど、何かの弾みで、例えばお風呂に入っているときにテープがふわっと浮いて、たまたま娘がしゅっと手を入れて、チューブが抜けてしまう。
すると、夜中の2時でも、3時でもチューブを入れに、片道30キロの大学病院まで車を走らせて、救急外来に行って急きょ入れてもらうっていうことも2週間に1回ぐらいあった時期もあります。
そのたんびに、抜いてしまった、ああ、と思いながらも、まあでもしようがないな、入れてもらわないと24時間栄養入らないしって。
そこで一番最初に入ったヘルパーに依頼したことは、何もしなくていいと。あのときは確か(ヘルパーには)うちの家事もやってもらえなかったんです。身体の介護というかたちで許可が下りたものですから。
身体(の介護)といっても何かものすごいことを手伝ってもらうわけではなく、娘の手を握っててくださいっていうことを、ヘルパーに依頼しただけなんですよね。
「お願いですから、チューブを取らないように」、来ていただいている間、4時間ぐらいだったんですけど、「とにかく手を握っていてください」っていうことだけを一番最初のヘルパーさんに依頼しました。
そんな感じで24時間(持続で栄養が)入っていたときには、医療的なケアそのものは、たんの吸引だったけど、1日中、1時間おきに必要だったことと、寝ている間も、3時間おきとかに体位交換をしなくてはいけないので、そういった介助の負担が非常にかかっていたことを思い出します 。
インタビュー01
- お兄ちゃんはわがままを言わずに育ってしまった。サポートの学生ボランティアにわがままを聞いてもらうようにした
- 特別支援学校で娘のケアは看護師では対応できないと言われ、自分が付き添い、トイレも自由に行けず、気持ちを休める暇はなかった
- 懸賞論文が当たり、自分は文章を書くことが得意なのではないかとライタースクールに通い、今の仕事になった
- 夜間のスクールに通うため、周りの手を借りた。忙しかったが隙間時間を見つけやりくりする能力が身に着いた
- 制度やサポートについて行政に訴えるときには、なぜ必要なのかがわかるように情報を客観的に整理して伝えることが大切だと思う
- 身体障害児用車いすの費用補助のため1歳半頃に身体障害者手帳を申請した。抵抗はあったがその後多くの支援サービスを受けられた
- 2010年頃、短期入所の予約は申し込み方法が施設ごとに異なっていた。自らマネジメントしながら、予約申請するしかなかった
- 自分の身体を休ませ上の子と過ごすために宿泊の短期入所を利用したが、準備が大変で1週間あっても自由になるのは2、3日だった
- 経鼻経腸チューブが抜けると病院で入れ直してもらわねばならない。チューブに触らないようヘルパーに娘の手を握っていてもらった
- 夜中の体位交換や見守りのため夫婦で睡眠時間をずらしていた。自分の運転で娘を学校に送るので、寝不足にならないように注意した
- 娘は16歳で急変して亡くなった。いつかはと覚悟はしていたものの、その喪失感は大きくしばらく何をみても涙が止まらなかった