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インタビュー時の年齢:50歳(2020年12月)
関係:母
医療的ケアのある子:長男7歳
首都圏在住。長男との2人家族(長男3歳の時に離婚)。
妊娠中に子どもがダウン症候群の疑いがあることがわかった。
妊娠30週台の時に緊急帝王切開で出産した。
現在、長男は気管切開、吸引、胃ろうによる経管栄養、睡眠時に人工呼吸器を装着し、週に4〜5日特別支援学校に通っている。
水頭症とてんかんと診断されている。
親の会に参加したのをきっかけにそれまで受け身だった自分自身に気付き、積極的に居住地における医療的ケア児に関わる課題の解決に仲間とともに取り組んでいる。
語りの内容
前に住んでいた区が面積が小さくて人口も少なくて、小児人口が減少してた地区だったので、小児人口を呼び込もうって活動をしていて。だから、そこに障害児がいてもって。
ただ、すごい障害児には厳しい、特に医療ケア児には厳しいエリアでした。
仲間と活動することで、地元の子ども福祉センター、家庭支援センターに行ったり。
地元の福祉センターも、医療ケア児は親がついてても受け入れられませんって言われて。
それが理不尽だなと思ったので、1年かけて交渉して、迎え入れてもらったんですね。
今、後輩たちの話によると、定員がいっぱいになるぐらい。
私たちが迎え入れてもらって、ニーズがあったわけですね。
今はそこの区にとって重要な社会資源の一つになってるんじゃないかなと思いますね。
福祉センターで受け入れてもらったことはね。
私が今住んでる区に重心児童デイ(重症心身障害児向けのデイサービス)が一つもない。
それで、うちがお世話になったスーパーNICUほどじゃないけど、NICUがある大学病院があって、多くの命を助けてくれている区なんで、医療ケア児が次々と生まれることは想定内なのに、一つも、重心児童デイがないために、みんな他区に行かなければならないって状態。
仲間と重心児童デイをつくってくださいって活動したんですけど、駄目でしたね。
区によってやり方がそれぞれ違うので、この区にはそのやり方が通用しなかったのかなって思いましたし。
だから、ここの区に来てから勝ち取れてないんですよ、実は。
今回、区の障害児福祉計画を見直す時期なのでね、素案説明会ってのがあって、仲間と一緒に行ったり、それを仲間それぞれが意見表明したりとかしてますね。
ただ、うまくいかなくても諦めずにアプローチを続けるっていう体制でおります。
端から見れば何も勝ち取れてないじゃない、このグループって思われても、いや、そんな簡単じゃないけど、ただ、その精神はね、つらい思いを一人で抱え込まないように、みんなで共有して、この先、学齢期になったらこういう課題があるよっていうのも情報提供して、覚悟っていうかね、準備しといてもらうみたいなこともやってます。
インタビュー10
- 重症心身障害児を一人で看る困難を思い、悩んだが、最終的に離婚し気持ちが軽くなった。元夫と息子の面会交流も続いている
- 重症心身障害児となるかもと聞き、重い気持ちで参加した妹の結婚式で父が子どものがんばりを親戚に伝えてくれて皆から励まされた
- 支給されたタクシー券は通学ですぐに使い切ってしまい、往復5,000円の経済的負担を考えると回数を減らすしかなかった
- 非正規雇用ながら、やりがいのある専門職だった。再雇用や保育園も決まっていたが、生まれた子の障害がわかり、仕事復帰を諦めた
- 学校の付き添いが外れ仕事復帰した。放課後に居宅児童発達支援を利用するが、いつ呼び出されるかと考えると本格復帰はまだ難しい
- コロナ禍で家にいると昼夜逆転し子どもの機嫌も悪かったが、学校で緊張する時間が長くなると体力消耗し家でも落ち着けるようだ
- 医療的ケア児のブログで親の会を知り、そこでリアルな仲間と出会って意気投合し、必要なことを訴える強さを身に着けた
- 目が見えず難聴の子のため、ケアを開始するときは身体に触れて伝える。吸引のときは口を開けて待ってくれるときもある
- 家ではあまり表明のない息子が学校ではスイッチを使い返事をしたり、やりたいことの意思表示をしていると聞き驚いた
- 息子は人工呼吸器をつけ体調が安定したが、呼吸器の装着が不快で自ら外してしまい夜中もアラーム音が鳴り響く
- これから補装具を作る子に、補装具を付けて歩く様子を見せてほしいと息子が頼まれ実演したとき、息子の表情が誇らしげで嬉しかった
- 区の福祉センターに医療的ケア児を受け入れてほしいと活動し、実現した。引っ越し先の他区でも重症児のデイサービスを作る活動をする
- 高齢妊娠で羊水検査を勧められ、命の選択のためではなく万全の態勢で子どもを迎えるためと言われて受け、ダウン症が分かった