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インタビュー時:49歳(2019年11月)
関係:母
医療的ケアのある子:長女16歳(逝去時)
首都圏在住。夫、長男、長女の4人家族。
長女は生後まもなく、ぐにゃりと反り返る姿勢をとるなど、2つ上の長男とは異なる様子があった。
検査しても原因はわからず、1歳頃にたん吸引、4歳頃に胃ろうと経管栄養が必要になった。
24時間続くケアで安心して眠ることができず心身ともに限界だったが、当時は子どもを見るのは母親の仕事として、ヘルパーや訪問看護の利用がなかなか認められなかった。
あきらめずに説得し、制度利用を少しずつ認めてもらうようになった。
語りの内容
娘は2016年に亡くなりました。不思議なんですけどね、2016年の12月に亡くなったんで、そのほんの少し前なんですけど10月中旬が、私の誕生日で(笑)、その誕生日に、娘と一緒にあるテーマパークに行ったんですよね。
娘と一緒に、そのテーマパークに行ったんですけど、私が誕生日だったもので、誕生日おめでとうっていうおめでとうのシールなんかを貼ってもらって、みんながパチパチ拍手してくれたりして(笑)、娘と一緒に行きながらも、すごく楽しい時間を過ごせて。
ちょうどそれから1カ月たったときに、季節の変わり目、11月になると元々ぜんそくもあったもので、たんが多くなってきたんです。そこから体調が少し悪くなってきて、自宅で急変したんですよね。
11月末に急変をして、救急車で運ばれたんですけど、残念ながら12月に亡くなったっていうふうになります。
いつかはきっとこういう日はくるんだろうなっていうことを、娘の障害が、それこそ障害者手帳を取得したときから、絶対に私たちよりも早く亡くなるっていうことは覚悟をして、それこそ16年間子育てをしてきたんですけれど。
やっぱりね、いざ亡くなってみると、昨日まで当たり前のようにいた存在がないっていう、「喪失感」っていう言葉にしてしまうと簡単なんですけど、本当にいないっていうことがこんなに大きなことなんだなっていうふうにあらためて気付いたことと。
それはもう本当に、何とも言えない。何を見ても、涙が出て止まらなかったこと、正直あるんですけれど…。
もうすぐ3年になるんです。これぐらいの時期になるとやっぱり落ち着いてきますよね…。
むしろ娘がこれまで残してくれたいろんなことを、一つ、一つ思い出して、私は娘がこういうことをやったからこそ、自分はちゃんと生きなきゃっていうことを、前向きに生きることもできている。
この語りのデータベースに参加すると決意することもできたのも、やっぱり時間ですよね。
私の経験がたくさんの人に役立つっていうことを、娘もきっと天国で応援してくれているんじゃないかなっていうふうに思ってます。
インタビュー01
- お兄ちゃんはわがままを言わずに育ってしまった。サポートの学生ボランティアにわがままを聞いてもらうようにした
- 特別支援学校で娘のケアは看護師では対応できないと言われ、自分が付き添い、トイレも自由に行けず、気持ちを休める暇はなかった
- 懸賞論文が当たり、自分は文章を書くことが得意なのではないかとライタースクールに通い、今の仕事になった
- 夜間のスクールに通うため、周りの手を借りた。忙しかったが隙間時間を見つけやりくりする能力が身に着いた
- 制度やサポートについて行政に訴えるときには、なぜ必要なのかがわかるように情報を客観的に整理して伝えることが大切だと思う
- 身体障害児用車いすの費用補助のため1歳半頃に身体障害者手帳を申請した。抵抗はあったがその後多くの支援サービスを受けられた
- 2010年頃、短期入所の予約は申し込み方法が施設ごとに異なっていた。自らマネジメントしながら、予約申請するしかなかった
- 自分の身体を休ませ上の子と過ごすために宿泊の短期入所を利用したが、準備が大変で1週間あっても自由になるのは2、3日だった
- 経鼻経腸チューブが抜けると病院で入れ直してもらわねばならない。チューブに触らないようヘルパーに娘の手を握っていてもらった
- 夜中の体位交換や見守りのため夫婦で睡眠時間をずらしていた。自分の運転で娘を学校に送るので、寝不足にならないように注意した
- 娘は16歳で急変して亡くなった。いつかはと覚悟はしていたものの、その喪失感は大きくしばらく何をみても涙が止まらなかった