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インタビュー時の年齢:50歳(2020年12月)
関係:母
医療的ケアのある子:長男7歳
首都圏在住。長男との2人家族(長男3歳の時に離婚)。
妊娠中に子どもがダウン症候群の疑いがあることがわかった。
妊娠30週台の時に緊急帝王切開で出産した。
現在、長男は気管切開、吸引、胃ろうによる経管栄養、睡眠時に人工呼吸器を装着し、週に4〜5日特別支援学校に通っている。
水頭症とてんかんと診断されている。
親の会に参加したのをきっかけにそれまで受け身だった自分自身に気付き、積極的に居住地における医療的ケア児に関わる課題の解決に仲間とともに取り組んでいる。
語りの内容
シングルに(なったことに)対してですね。
私は最初結婚生活9年で正直、結婚して子ども授かりたいと思ったけど、結婚してすぐ離婚したいって思っちゃうくらい、その夫との関係が厳しい状態で。
わが子を出産したらもうシングルになろうかなってちょっとよぎるときもあったんですけど、それは健常児、またはただのダウン症児だったらシングルでやれんのかなと思ったけど、まさかの重症心身障害児で医療的ケアも必要だから、あ、これは無理だわと思って。
夫もNICU毎日通ってくれたし、職場からね。
それで息子に愛情いっぱいに関わってくれて。
それでもちょっともう耐えられなくなったときに、でも医療的ケア児と重症心身障害児は人の手があって初めてね、在宅が成り立つくらいですから、無理だって思っちゃったんですけれど。
ただ、本当に私自身が我慢してて、自分の力が発揮できない状況が続くんだったら、やってみようって。
それも、周りの人がそういうチャンスをくれたっていいますかね。
それで、実際やってみたら、自分の足で立って生活するってことがすごい心地のいいものだって思いました。
誰のお伺いも立てずに自分の責任で両足で立って。
だから貧乏だって問題なくて、むしろその精神の自由を勝ち得たことがとても大きかったですね。
私が夫婦生活のことで悩んで療育センターのケースワーカーに相談に乗ってもらってたときも、「あなた、本当離婚してからすごいよくなったわ」とかね、お褒めの言葉いただいて。
――ありがとうございます。離婚されたのは、お幾つのときですか。
はい、3歳になったときですね。
ちょうど障害児保育園に内定を決まったときでした、はい。
――それ以降は、お父さんとは、関わりというのは何か続いているんでしょうか。
はい。
やはり元夫が息子が大変なときに支えてくれたっていうご恩はすごいありますので、面会交流を私が立ち会わない形で、第三者を介して交流するってことを続けています。
ただ、今コロナで会えない状態で、本当に息子もパパが大好きなので息子にとっても元夫に対しても会わせられないのは本当心苦しいなと思います。
インタビュー10
- 重症心身障害児を一人で看る困難を思い、悩んだが、最終的に離婚し気持ちが軽くなった。元夫と息子の面会交流も続いている
- 重症心身障害児となるかもと聞き、重い気持ちで参加した妹の結婚式で父が子どものがんばりを親戚に伝えてくれて皆から励まされた
- 支給されたタクシー券は通学ですぐに使い切ってしまい、往復5,000円の経済的負担を考えると回数を減らすしかなかった
- 非正規雇用ながら、やりがいのある専門職だった。再雇用や保育園も決まっていたが、生まれた子の障害がわかり、仕事復帰を諦めた
- 学校の付き添いが外れ仕事復帰した。放課後に居宅児童発達支援を利用するが、いつ呼び出されるかと考えると本格復帰はまだ難しい
- コロナ禍で家にいると昼夜逆転し子どもの機嫌も悪かったが、学校で緊張する時間が長くなると体力消耗し家でも落ち着けるようだ
- 医療的ケア児のブログで親の会を知り、そこでリアルな仲間と出会って意気投合し、必要なことを訴える強さを身に着けた
- 目が見えず難聴の子のため、ケアを開始するときは身体に触れて伝える。吸引のときは口を開けて待ってくれるときもある
- 家ではあまり表明のない息子が学校ではスイッチを使い返事をしたり、やりたいことの意思表示をしていると聞き驚いた
- 息子は人工呼吸器をつけ体調が安定したが、呼吸器の装着が不快で自ら外してしまい夜中もアラーム音が鳴り響く
- これから補装具を作る子に、補装具を付けて歩く様子を見せてほしいと息子が頼まれ実演したとき、息子の表情が誇らしげで嬉しかった
- 区の福祉センターに医療的ケア児を受け入れてほしいと活動し、実現した。引っ越し先の他区でも重症児のデイサービスを作る活動をする
- 高齢妊娠で羊水検査を勧められ、命の選択のためではなく万全の態勢で子どもを迎えるためと言われて受け、ダウン症が分かった