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インタビュー時:54歳(2021年7月)
関係:母
医療的ケアのある子:長男15歳(逝去時)
九州在住。長男を2006年に亡くし現在一人暮らし。元夫とは離婚。
妊娠中に胎児に水頭症の可能性を指摘され自然分娩で出産した。
原因は不明なまま、入退院を繰り返し、口腔鼻腔内吸引、経鼻経管栄養、導尿など医療的ケアが増えていった。
10歳で気管切開と胃ろう、その後人工呼吸器も必要となった。
夫と離婚後は養育費と生活保護を受け生活していた。
長男が亡くなってから看護師を目指し、現在訪問看護師として働く。
語りの内容
――今、ご自身が訪問看護師として医療者になられたわけですけれども、訪問看護師になりたい、って思われたのは、どのぐらいのタイミングだったんですか。
最初からです。(息子と過ごしたいという)私の最後の願いをかなえてくれた、(訪問看護)ステーションのナースの姿勢っていうんでしょうか……。在宅で、私の経験を生かすとか、そういうことではなくてですね、私が受けた看護が、私の中にぐーっときたので、私はそういう看護師になりたいって。働くんだったら訪問看護師に行きたいなと思って看護師になりました。そこはもう最初からですね。訪問看護師に最終的にはなりたいなと思ってたので。
――お子さんがもう生まれて、小さい頃から、タイミングがあればなりたい。
それは(息子が)亡くなった後ですよね。主治医から、息子が亡くなった後の自分の生き方を考えときなさいって言われたんですよ。言われてたんですけど、「考えきれるわけないですよ、先生」って。「まだ生きてるもん」って。「嫌だ、そんなの考えるの」って言って。
でも亡くなった瞬間から考えていかないと、いつまでも生活保護をもらえるわけではないのでですね。ヘルパーの免許を先に取ったんですけど、やっぱり違うよなって思って。でも、勉強得意じゃないので、看護師になれないと思ったんですよね。だけど、やってみようかなって思って、人生で初めて勉強しました。はい。
――お幾つのときに。
40(歳)です。
――周りは20代の方が多かったと思うんですけど、看護学生時代のお話も教えていただけますか。
息子が4月に亡くなって、受験をしたのは翌年の2月です。おかげさまで入学をさせていただいて。ただですね、私は、長い間、障害を持つ社会っていうんですか、まあ世の中が100あったら、私は10、20ぐらいの中で生活をしてたもんですから。そして、私は息子の母親として、そこにはいられないわけですよね。
私の前にあったことは誰も知らない。自分の中で存在することが、とっても違和感があって、苦しくて。まず呼び名が違うんですよね。今までは、「何々ちゃんのママ」って本名で呼ばれない。この子のママで呼ばれる。でも、新しい今から生きていく社会では、名前で呼ばれることがすごく違和感があって。で、心を開けない…うん、それがほとんど学生の時代は続いてましたね。最後まで。だから、この子の社会に戻りたい戻りたいってずっと思ってましたし、何を人って考えてるのか分からんなって、いつも思ってました。
――実際、訪問看護師になられてからは心が開けない部分は変わったっていう。
私、罪悪感とかっていうことではないと思うんですけど、訪問看護師になるまで、ある大きい病院に勤めてたんですよね。4年か5年ぐらい。で、学生時代くらいまでは、自分がね、楽しむとか、おいしいものを食べるとか…そういうのができなかったんですよね。
しちゃいけないとかっていうことも思ってなかったと思うんですけど、無意識のうちに、どうしても自分に課してしまう性格があるのか、一方で両親の介護もしてたもんですからね。息子が食べれなかったので、あんまり食べるっていうことにも関心がなくて…とにかく一生懸命勉強して、看護師になりたいと思って。
卒業をして、訪問看護に行く前の、大きい病院に行って、そこで心がばーってほぐれていったような気がします。うん。ちょうど同じ年の仲間と仲良くなって、で、旅行に誘ってもらったりとか、韓国の化粧を教えてもらったりとか。楽しむっていうんですかね。もうそろそろ自分のために生きていいっていうのかな。もう、それから歯止めがかからなくなって(笑)。
インタビュー27
- 生活保護の申請時に、電子レンジ、冷房、車も所有できないと言われたが、どれも生活には必須で主治医が意見書を書いてくれた
- 息子が亡くなり40歳で看護学校に入学した。学生時代は人生を楽しむ気持ちになれなかったが、働き始めてから楽しめるようになった
- 息子と日本中を旅行した。ディズニーランドのホテルでは使い方が分からないシャワーに四苦八苦したのもいい思い出だ
- 息子の輸液をやめてお別れするときがきた。なかなか決断できない自分に、医師団が自分たちもその決断を背負っていくと言ってくれ決心できた
- 元夫は息子が亡くなるまでの最後の1週間毎日病院に来てくれた。夫婦としては全うしなかったが、父親として精一杯やってくれた
- 息子が生きているときは自分が強くいなければと泣けなかった。亡くなってから信頼できる人に息子の話をすることで心が癒されることに気づいた