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インタビュー時:49歳(2019年11月)
関係:母
医療的ケアのある子:長女16歳(逝去時)
首都圏在住。夫、長男、長女の4人家族。
長女は生後まもなく、ぐにゃりと反り返る姿勢をとるなど、2つ上の長男とは異なる様子があった。
検査しても原因はわからず、1歳頃にたん吸引、4歳頃に胃ろうと経管栄養が必要になった。
24時間続くケアで安心して眠ることができず心身ともに限界だったが、当時は子どもを見るのは母親の仕事として、ヘルパーや訪問看護の利用がなかなか認められなかった。
あきらめずに説得し、制度利用を少しずつ認めてもらうようになった。
語りの内容
そのときだけは、もう本当に1年ぐらい前から、私が夜間、学校に行けるように体制を整えて、夜の学校は夜7時から始まるんですけれど、1時間ぐらい前には、私が自宅を出ないと学校の授業に恐らく間に合わないだろうっていうこと。
6時に出られるようにするためには、それまでに娘のいろんなケアとかを、ある程度人に任せていたり体調も落ち着いていないと駄目だよねっていうことで、ヘルパーさんとか、訪問看護師さんとか、いろんな人たちにお世話になって、その時間までにある程度体調を整えて。
私が出掛けて、主人はだんだん時間が早く帰ってくるようになったんですけど、やっぱりどんなに遅くても9時ぐらいだったんです。
でも、その時間だと私は出られないので、その(スクールの)ときだけは夜遅くても7時までに帰ってくるようにっていうかたちにスケジュールを組んで。
それでも6時から7時はどうしても空き時間が出てしまう。
お兄ちゃん1人には任せられませんので、そこだけは、ちょっと遠くに住む義理のお父さんやお母さん、私の両親にも手伝ってもらい、主人が帰ってくるまでのほんのわずかな時間だけ、見ていただくような体制を整えて何とか通えるようにしましたねえ。
課題も出るんですけど、課題をする時間が取れなかったり、最初は結構その時間をつくるのがなかなかね、思うようには。
行ったら行ったで授業を受けても、1週間に1回あるので、次の週までには幾つか課題が出るので、その課題もしなくちゃいけない。
でも、その課題をこなす時間、どうやって取るんだろうっていうことを、もうとにかく時間を確保するのがすごく、自分にとっては問題で、それこそ課題で(笑)。
そのうちにだんだん空き時間を見つけるのが上手になっていくんですよね。
そうか、ここの注入と注入をしている間はヘルパーさんにお願いして、私は別の部屋で少し、1時間だけ時間をもらおうと。
空いているこの1時間で、私がこの間、やった取材のテープ起こしをしようとか、この1時間で原稿を書くまでのラフを考えようとか、そういっていろいろと仕事の手順を細分化して、その一つ一つこなすためのスケジュールっていうかたちの管理を考えましたね。
インタビュー01
- お兄ちゃんはわがままを言わずに育ってしまった。サポートの学生ボランティアにわがままを聞いてもらうようにした
- 特別支援学校で娘のケアは看護師では対応できないと言われ、自分が付き添い、トイレも自由に行けず、気持ちを休める暇はなかった
- 懸賞論文が当たり、自分は文章を書くことが得意なのではないかとライタースクールに通い、今の仕事になった
- 夜間のスクールに通うため、周りの手を借りた。忙しかったが隙間時間を見つけやりくりする能力が身に着いた
- 制度やサポートについて行政に訴えるときには、なぜ必要なのかがわかるように情報を客観的に整理して伝えることが大切だと思う
- 身体障害児用車いすの費用補助のため1歳半頃に身体障害者手帳を申請した。抵抗はあったがその後多くの支援サービスを受けられた
- 2010年頃、短期入所の予約は申し込み方法が施設ごとに異なっていた。自らマネジメントしながら、予約申請するしかなかった
- 自分の身体を休ませ上の子と過ごすために宿泊の短期入所を利用したが、準備が大変で1週間あっても自由になるのは2、3日だった
- 経鼻経腸チューブが抜けると病院で入れ直してもらわねばならない。チューブに触らないようヘルパーに娘の手を握っていてもらった
- 夜中の体位交換や見守りのため夫婦で睡眠時間をずらしていた。自分の運転で娘を学校に送るので、寝不足にならないように注意した
- 娘は16歳で急変して亡くなった。いつかはと覚悟はしていたものの、その喪失感は大きくしばらく何をみても涙が止まらなかった