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インタビュー時:43歳(2021年4月)
関係:母
医療的ケアのある子:次男17歳
首都圏在住。子どもは長男と次男の2人。
次男は妊娠34週に仮死状態で生まれた。
看護師として小児病棟での勤務経験もあったため、顔つきからなにか他の子とは違うと感じた。
次男は生後半年で気管切開と人工呼吸器を装着し、現在も胃ろうなどの医療的ケアがある。
重度の知的障害もあるが、将来は家族と離れ、他の人の助けを得て過ごすことが自立と考えている。
自身は次男が7歳のとき、正規雇用の看護職として復職している。
語りの内容
この子が(産まれる)破水する日まで働いてて(笑)。
仕事終わって、そのまま夜破水しちゃったんですけど。
そこから何のあいさつもせずに入院しちゃったので(笑)。
でも、もちろん復帰するつもりでいて。
当時って育休がマックス1年しか取れない、今3年ぐらい取れるじゃないですか。
でもそのとき1年しか取れなかったので、1年たつ頃に、私一応、市役所の保育課に行ったんです。保育園探すところ。
こういう子が入れるとこ、あまりにもうち(ケアが)あり過ぎて、(保育園)ありますかって言ったら、ありませんって。
で、「お母さん」って言って、「こういう子はおうちでお母さんの愛情の下で育つのが一番幸せなんですよ」って言われたときに、ふうん、そうなんだと思って(笑)。
ちょっとびっくりしちゃって。そういうふうに言われて。あー、そうなんだと思って。
この人は、自分の子に障害があったら同じことを思うのかなって思いもあって、もやもやしながら、取りあえずは無理なんだなと思って、一回退職しました。今の職場を。
――じゃ、育休を1年取って。
取って、そのまま預け先がないので、退職しますって言って退職して。
ただ、ずっと病院の付き添いをして、もう全然病院から出られない生活とかをしてる中で、もちろんこの子の母親として過ごすのも楽しかったんですけれども、ずっと悶々としてて。
何とかちゃんママだけの自分だったので、やっぱちょっと働きたいなって思って。
看護師だったので、派遣のバイトってあるじゃないですか。本当に短時間からで。
で、明日この仕事入れますかって電話が来て、明日入れますとか、そんな感じのすごく融通が効く、あ、明日は無理ですとかいう感じの仕事をして。
で、それで少しずつ、調子がいいときとか行き始めて。
で、ちょうどこの子が7歳のとき、2011年に復帰した感じです。正社員で。
少しずつ回数とかを増やしてって。はい。
――例えば午前中2時間来れますかって言われたときに、その2時間はどういうふうにやり繰りをするんですか。
家族だったりとか、大体、夜勤から始めたし。
当直のバイトだったりとか、昼間の半日からとか徐々に始めてって。
でも、家族に協力してもらって、時間作らせてもらって、行きました。
――それはパパさんだったり、お母さん。
そうですね。
――仕事復帰してから、パートタイムに復帰してから、もっと仕事したいみたいな気持ちに変わりましたか。
そうですね。仕事は仕事の大変さがあるんですけど、ずっと24時間子どもと向き合ってるよりかは…。
私の中では、健常な子であろうと障害のある子であろうと、子どもは好きなんですけど、お兄ちゃんのときも職場復帰してるので。
それとこれは別で。
仕事をガッとして、子育ては子育てでガッと向き合うっていう生活のほうが、多分合ってたのかな。
インタビュー19
- 長男が中学生になったころ、弟を学校に連れてきてほしくないと言ったことがある。その気持ちは親としても理解できた
- 復職を希望し保育園を探したが断られた。子どもとの生活も楽しかったが、仕事復帰の気持ちが強くなり、今はフルタイムで働いている
- 遠足でも付き添いを求められたが、親元を離れて過ごす経験のため粘り強く交渉し、自治体初の付き添いなしでの修学旅行が実現した
- 高校まではリハビリや、その子なりの課題に取り組み、職業訓練を意識した手厚い教育やサポートがあるが、卒業後が課題だ
- 療育を利用し、子どもと離れる自分の自由時間が初めてできたとき、近所のスーパー銭湯に行ったことは忘れられない
- 那覇マラソンに参加した際、日中預かり支援を利用できたり、地元ボランティアの温かい支援を受けたりした
- 染色体検査は正常だったが、周りの赤ちゃんと顔つきが違い、水腎症もあった。原因がわからず、悶々とした まま治療が進んで行った