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インタビュー時:51歳(2021年4月1日)
関係:母親
医療的ケアのある子:次男17歳
関東在住。夫と長男(22歳)、次男(17歳)、長女(13歳)の5人家族。
次男が出産時のトラブルにより脳性麻痺となったことをきっかけに看護師を退職。
次男は口腔・鼻腔吸引および胃瘻からの経管栄養が必要である。
自分で体を動かすことが難しいが、母親の声には目を動かすことがある。
最終的には小児慢性特定疾病医療制度の助成を受けられたが経済的負担を感じてきた。
医療的ケアが必要な子どもとの生活に不自由さはあっても我が子と触れあえる生活には幸せを感じている。
語りの内容
生まれて1週間か10日ぐらいたったときに、脳波とMRIとか、その画像で先生が説明をしてくれて、低酸素の影響がかなり大きくて、脳のダメージもとても広いと。
運動機能に関してはもう、ちょっと望めないかなと思いますと。感情面に関してはこれから、発達をしていく中でどう変わっていくかは、ちょっとそこは未知数なので分かりませんが、ちょっとそういう状況で、障害が残りますというような話をしてくれて。
それを聞いて、夫は…私はもう、分かっていたようなところもあったので、まあ、ショックですけれども、やっぱりなっていうところで…。
夫はそれを聞いて、その日、家帰ってきてから、ソファーに横になって、もう目の上にタオルを載せて、まあ、天井をこう、ずっと見たような状況で寝てるみたいな状況で、ずーっと動かずに。
まあ、でも、しばらくそうしてたかと思うと、「まあ、こりゃあ、もう戻らないんだね、じゃ」っていう一言で、「じゃあ、分かった」みたいな感じで。
まあ、そこから何かこう、自分で何かを消化したのか、普通に会社にも行きますし、病院にも行ったりっていうところで、生活がスタートした感じですね。
まあ、そうですね。障害児の母となったときの思いとしては、やっぱりどうしてこういうことが起きたのかなっていう。まず、なぜ私にそんなことが起きたんだっていう。
みんな危機的状況にあるとそういうことを言うと思うんですけど、なんか私、今まで看護師で一生懸命、人のため世のため動いてきたのに、どうして私にはこういう仕打ちが来たんだろうかとか、何か悪いことしたっけ、私? とか。
そういうことをすごく日々、思って、でもなんか、よくよく考えてみると、じゃあ私そんなにいい人間だったかなとか、そんなことも思いながら。
ああ、小さいとき飼ってた犬、満足に育ててあげてなかったなーとかね。あの患者さんにはなんかこういうちょっとこういうことをして、あんまりいい看護師じゃなかったなとか。
もうほんとにそういうちっちゃいことをいろいろ思い出しては、そういう自分だからこういうこと起きちゃったのかなとかね、そういうことをちょっと日々考えて。
夜になるとほんとに、夢かな、これってとか。でもやっぱり隣のベビーベッドに子どもがいないし、自分は生んだわけだから、ああ、夢じゃないなって、朝になるとやっぱり、思い知らされるというか。
そんな感じを毎日過ごしながらも、昼間はほんとにもうNICUに通い続けて、もうどれだけ長くいてあげられるか。もう面会時間、目いっぱいずっとそばにいたような状況でしたね。
インタビュー17
- 障害児を抱えた生活では少しの外出にも準備がいる。PTAの役を断るために自分の状況を説明するのは気が重い(音声のみ)
- 次男の急変時にきょうだい2人は預け先もなく、病院のベンチに置き去りになり騒ぎになったこともある(音声のみ)
- 付き添いが負担で訪問籍にしようか何度も考えたが、学校のケア体制もよくなり何とか通学籍で高校を卒業できそうだ(音声のみ)
- 夫に仕事をしてもらわないと生活できない。夫も出世欲や向上心もあるだろうが、私一人でケアを担うのもつらい(音声のみ)
- 高校卒業後に障害児を支援する施設がほとんどない。重症度が高いと施設も限られ、卒業後の進路が不安だ(音声のみ)
- 訪問看護や介護、巡回入浴には感謝の気持ちはあるものの、他人が家に入ってくるストレスを家族がそれぞれ感じていた(音声のみ)
- どうして自分がこんな仕打ちを受けるのだろうと日々考えた。朝になると夢ではないことを思い知らされた (音声のみ)
- 同じ経験をしている家族に出会いたかった。子どもが将来どうなっていくのかという漠然とした不安があった(音声のみ)