※写真をクリックすると、動画の再生が始まります。
インタビュー時:52歳(2021年4月)
関係:母
医療的ケアのある子:長女18歳
九州地方在住。長男(26歳)、次男(23歳)、長女の母親。実母は同居。
長女は出生直後にNICU(新生児集中治療室)に入室。生後1ヶ月で再入院し、1歳5ヶ月頃に筋病(先天性ミオパチー:乳児重症型)と分かった。
人工呼吸器、気管切開、胃ろうが必要な状態で2歳3ヶ月で退院後は、自宅で生活している。
長女は高校を卒業して自立支援センターに通い、1人暮らしをしたいと希望している。
自分の仕事は着物リメイクの自営業で、親の会の活動もしている。
語りの内容
生後1歳3ヶ月のときかな。筋生検をやっとやりまして。それで、やっと診断名がその2ヶ月後についたんですけど、結局、先天性ミオパチーの乳児重症型っていうふうに診断されました。
そのときに、自分の中でどこか覚悟してた部分と…うーん、やっぱり、そういうことが私の人生に起こるのかなっていう、やっぱり。そういう気持ちもどこか捨て切れなくって。
5歳ぐらいになったらみんなとおんなじように成長が追いつくんじゃないかなって。そういうふうに心の中でどこか思ってたとこがあったんですけど。
やっぱり診断名がついたときに、うん、「ああ、やっぱり」って。自分の中で、うん、こう、何ていいますかね、決心というか覚悟というか、そういうものがついた感じでした。
もちろん、そういうふうに診断名を告げられたときには、すごくやっぱり悲しくって。すごく大泣きしましたけど。
でも、もう病室に戻るとやっぱ娘が小さい体で一生懸命こう生きてるっていう姿を見て、母親としてやっぱりこう何ができるのかっていうのを考えなきゃっていうふうに、すぐに。
やっぱ娘の姿を見たらすぐに前向きになれたというか。くよくよしてられないなって。
何だろう、いろいろネットとかで調べると、1歳前後で亡くなるケースが多いみたいなことが当時書かれてて、せっかくこの世に生まれて、そんな悲しい人生で終わらせたくないっていうのがすごくあって。
まあ、元気な体に産んであげられなかったっていう自分のことを責めるっていうのもあって、何としてでもやっぱり、たとえ短くても、太くて濃い人生をこの子には送らせてあげるんだっていう…決心をそのときにしました。
インタビュー20
- 気づいたら小4の長男が娘の吸引をしてくれていた。次男もケアを自然に覚えた。きょうだい間の信頼だと思う(音声のみ)
- 普通学校に入学したが、2年生の終わりに吸引や休憩は待機室で行うよう言われ、悔しくて学校に行けなくなり支援学校に転校した
- 娘がお兄ちゃんと同じ普通学校を希望した。市の担当者が学校のトイレ改修や看護師資格をもったアシスタントを探してくれた
- 自分でできる仕事を模索していた矢先、着物リメイクの先生に出会い、地元で起業した。やりがいのある仕事で地域にも貢献したい
- 人工呼吸器をつけていたが、個別対応看護師の導入や文科省支援事業で体制整備が進み、最後は本人の意思が尊重されて待機が外れた
- 小学校に入るとき友達や保護者の反応はすごく気になったが、周りの子たちは順応性が高くあっという間に友達になった(音声のみ)
- 娘はICTツールを使って、スケジュールと金銭の管理もしているほか、高校卒業後は母の仕事を手伝っている(音声のみ)
- 「ファッションの仕事や1人暮らしがしたい」という娘に合った施設を探し、今は自立サポートセンターに通っている(音声のみ)
- 娘は手先が器用でiPadに原稿を打ち込み、人工呼吸器ユーザーのスピーチコンテストに出場し最優秀賞をいただいた (音声のみ)
- 子どもが退院し家族5人で暮らせることが本当に嬉しかったが、上の子の行事や子どもの健診をどうするかなど新たな問題もあった(音声のみ)
- 娘はカニューレのリーク(空気漏れ)で発話ができる。管の乾燥やつまりを娘本人が理解し、介助者に水分を積極的に要求している
- 娘は今、一人暮らしの夢をもつ。ヘルパーさんと意思疎通をする手段として会話が必要だと頑張って会話するようになった(音声のみ)
- 自分の地元で暮らし、昔からのつながりがありがたい。子ども同士が無邪気で大人のほうが気遣いばかり、とも感じる (音声のみ)
- 仲間内で会を立ち上げ、地域の医療的ケア児と家族が楽しく暮らせるようなイベントや勉強会の実施、会報の作成などをしている (音声のみ)
- 台風で停電し救急車を呼んだが、道路の浸水で立往生した。電源の安定した県病院に移動するにも普段20分のところ2時間かかった
- 診断を告げられたときは悲しく大泣きしたが、娘の一生懸命に生きる姿を見て前向きになれた
- 経鼻チューブの挿入は「苦しい」と娘が訴えるので、就学前に見た目がすっきりして管理しやすい胃ろうの造設に踏み切った