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インタビュー時:51歳(2021年4月1日)
関係:母親
医療的ケアのある子:次男17歳
関東在住。夫と長男(22歳)、次男(17歳)、長女(13歳)の5人家族。
次男が出産時のトラブルにより脳性麻痺となったことをきっかけに看護師を退職。
次男は口腔・鼻腔吸引および胃瘻からの経管栄養が必要である。
自分で体を動かすことが難しいが、母親の声には目を動かすことがある。
最終的には小児慢性特定疾病医療制度の助成を受けられたが経済的負担を感じてきた。
医療的ケアが必要な子どもとの生活に不自由さはあっても我が子と触れあえる生活には幸せを感じている。
語りの内容
そのときすごく思ったのは、こういう経験をした人ってやっぱりなかなかいないと思うんですけど、でも、同じような人に会いたいなって。
そういう人がどうなっていっているのか、将来が少し見たいというか、そういう子ってどうなっていくのかなとか、そういう不安が漠然とあったんだと思うんですけど。
やっぱり、同じように障害を抱えたお母さんに会いたかったり、同じような状況の人はいないかなっていうふうに、すごくこう、思っていて。
その病院の行き帰りで、ちょっとベビーカー押して歩いてるお母さんとか見ると、赤ちゃん、ちょっと覗いて、誰かチューブ付いてる子いないかなとかね、ちょっとそんなことを、思って。
でもやっぱりみんな、(お母さんの)そばに赤ちゃんいるよね、そうだよねっていう。ちょっとそういうことでまた落ち込んだりとか、アップダウンが結構ありましたけど。
療育にも2歳が終わる頃、要は3歳ちょっと前ぐらいに通い出したんですけれども、療育の中でも割とうちはやっぱり重度のほうで。
今みたいにちょっと分離をして、療育できるようなところは1箇所もなかったので、やはり全部、行き帰りくっついて。
吸引が頻回なので、車の中もずっと吸引をし続けながら、運転をしながら左手で吸引をして、今でもそうなんですけれど、ほんとに、助手席に本人を乗せて運転をしながら、左手で吸引をして、でも顔だけは前を見てっていうような状況で。
道のり、片道1時間ぐらいかかる療育に通い始めて、週にまず2回ぐらいから。就学前は一応、週3回ぐらい行っていて。
そこでようやく、障害を持つ子の親同士つながって、いろんな話ができるようになって、私もお友達ができて、いろいろ家の中の工夫だったり、そんなことも聞けたりしたので自分的にもその辺りは安定してきたというか。
一生懸命だったんですけど、ちょっとこう、心には余裕が出てきたのかなっていうくらいの時期が、就学前ですね。
インタビュー17
- 障害児を抱えた生活では少しの外出にも準備がいる。PTAの役を断るために自分の状況を説明するのは気が重い(音声のみ)
- 次男の急変時にきょうだい2人は預け先もなく、病院のベンチに置き去りになり騒ぎになったこともある(音声のみ)
- 付き添いが負担で訪問籍にしようか何度も考えたが、学校のケア体制もよくなり何とか通学籍で高校を卒業できそうだ(音声のみ)
- 夫に仕事をしてもらわないと生活できない。夫も出世欲や向上心もあるだろうが、私一人でケアを担うのもつらい(音声のみ)
- 高校卒業後に障害児を支援する施設がほとんどない。重症度が高いと施設も限られ、卒業後の進路が不安だ(音声のみ)
- 訪問看護や介護、巡回入浴には感謝の気持ちはあるものの、他人が家に入ってくるストレスを家族がそれぞれ感じていた(音声のみ)
- どうして自分がこんな仕打ちを受けるのだろうと日々考えた。朝になると夢ではないことを思い知らされた (音声のみ)
- 同じ経験をしている家族に出会いたかった。子どもが将来どうなっていくのかという漠然とした不安があった(音声のみ)