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インタビュー時:49歳(2019年11月)
関係:母
医療的ケアのある子:長女16歳(逝去時)
首都圏在住。夫、長男、長女の4人家族。
長女は生後まもなく、ぐにゃりと反り返る姿勢をとるなど、2つ上の長男とは異なる様子があった。
検査しても原因はわからず、1歳頃にたん吸引、4歳頃に胃ろうと経管栄養が必要になった。
24時間続くケアで安心して眠ることができず心身ともに限界だったが、当時は子どもを見るのは母親の仕事として、ヘルパーや訪問看護の利用がなかなか認められなかった。
あきらめずに説得し、制度利用を少しずつ認めてもらうようになった。
語りの内容
学校っていう空間がとても特殊な場所で、今は違うかもしれないんですけど、当時は学校看護師ができる医療的なケアということに非常に限りがありました。
私の(娘の)場合は医療的なケアがたんの吸引と胃ろうからの経管栄養だったんですけれど、ダンピング症候群を予防するためにトウモロコシでんぷんを入れるという作業が発生するということで、学校看護師はこれは対応できないというふうに言われてしまいまして。
本当にわずか5ccか10ccぐらいのでんぷんを溶いて、胃ろうという所に入れるだけの作業なんですけど、その当時の学校の規定にはなかったんですよね。
今は分かりません。
ただ、これは学校看護師でできる対応ではないというふうに学校長から言われてしまったもので、学校看護師は対応できないというかたちで言われてしまって。
ずっと付き添いが必要だったこと、特に1年間通学籍で通学をしていたもので娘のすぐ横に私がいてということを週3回学校に頑張って通っていたんですけれど、本当にトイレにも自由に行けないようなかたちの中で授業を受ける。
学校看護師がいても、うちだけ対応できないことがあるとお母さんはずっと教室にそのままいてくださいっていうふうに言われることが、ずっと続いてしまうと、私も非常につらいというか(笑)
24時間365日学校に行けるように、体調を整えるために家でもものすごく頑張って、学校でも教員や学校看護師の人たちが安心して娘のケアに当たってもらえるように教育を受ける環境も整えてということで、私なりに努力もしました。
ケアもいろんな人に手伝っていただきながらやっていたんですけど、全然体が休まる暇がないし当たり前ですけど2つ上のお兄ちゃんのことも考えながらの毎日で、気持ちを休める場所がなかったことがいつもいらいらしていたときかもしれないですよね。
インタビュー01
- お兄ちゃんはわがままを言わずに育ってしまった。サポートの学生ボランティアにわがままを聞いてもらうようにした
- 特別支援学校で娘のケアは看護師では対応できないと言われ、自分が付き添い、トイレも自由に行けず、気持ちを休める暇はなかった
- 懸賞論文が当たり、自分は文章を書くことが得意なのではないかとライタースクールに通い、今の仕事になった
- 夜間のスクールに通うため、周りの手を借りた。忙しかったが隙間時間を見つけやりくりする能力が身に着いた
- 制度やサポートについて行政に訴えるときには、なぜ必要なのかがわかるように情報を客観的に整理して伝えることが大切だと思う
- 身体障害児用車いすの費用補助のため1歳半頃に身体障害者手帳を申請した。抵抗はあったがその後多くの支援サービスを受けられた
- 2010年頃、短期入所の予約は申し込み方法が施設ごとに異なっていた。自らマネジメントしながら、予約申請するしかなかった
- 自分の身体を休ませ上の子と過ごすために宿泊の短期入所を利用したが、準備が大変で1週間あっても自由になるのは2、3日だった
- 経鼻経腸チューブが抜けると病院で入れ直してもらわねばならない。チューブに触らないようヘルパーに娘の手を握っていてもらった
- 夜中の体位交換や見守りのため夫婦で睡眠時間をずらしていた。自分の運転で娘を学校に送るので、寝不足にならないように注意した
- 娘は16歳で急変して亡くなった。いつかはと覚悟はしていたものの、その喪失感は大きくしばらく何をみても涙が止まらなかった