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インタビュー時:40歳(2021年10月)
関係:母
医療的ケアのある子:長男11歳
首都圏在住。夫と長男の3人家族。
妊娠25週頃切迫早産で息子は生まれた。
生後まもなく人工呼吸器や経管栄養等の医療的ケアが始まったが、具体的な病名があげられるでもなく生後10か月まで入院した。
その間東日本大震災を経験した。息子は耳が聞こえず、話すことができないため、自分で人を呼ぶ手段を身に着けてほしいと思い、タブレットで意思表示する練習を親も勉強しながらしている。
将来は医療的ケアがあっても選択肢が持てるような社会環境を望む。
語りの内容
学校では最初にバスに乗りたいと言ってみたけど、検討しますという行政のよくあるお返事をいただいたまま今もかなわずで、あとは他の医療的ケアは吸引は結構早いうちに看護師さんがやってくれるようになったんですけれども。
注入は先生がやってくれるので、そのときの看護師さんが厳しかったのと先生がちょっとおっちょこちょいだったので(笑)、その注入が結構、時間がかかって、長くなりましたね。
酸素が通園のときは全然、看護師さんたちも酸素の流量変更とかできたんですけど、学校は酸素を常時使うことはできるけど、流量を変えたりということができなくって。
1年生の途中、酸素の値がちょっと不安定な時期があって、そのときに酸素を上げられないため、またずーっと付き添い、1回付き添いが少し解除されてたのが、また1日付き添いになったりとか、とにかく酸素に振り回された1年でした。
とても明るくていい先生だったんですけれども、給食のときに牛乳をこぼしたりとか。
んー、何て言うんですかね、牛乳とかこぼしても「ああ、やっちゃった」みたいな感じの先生で。
多分看護師さんがちょっと気に入らなかったのか、家ではそんなに厳しくやってないんですけど、シリンジに気泡が、1つでも入ってたら駄目とかすごい厳しく言われてたんですよね、そんなことで合格できないんですかってすごい思ってたんですけど。
――でも、文句も言えず。
そうです、そのときは言えなかったですね。
先生も文句は言わず、毎日一生懸命やってたけど、そういうところがあって、「全然合格できないんですよねー」って言って、そんな、なんか、ちょっと、そういう先生でした。
まあ、先生最後のほうはもうちょっと軽くうつ気味だったのかなって思うぐらい、諦めてたというか。
学校は「おうちと同じようにやります」って言うんですけど、でも結局マニュアル、マニュアルっていう感じで、ちょっと変更しても「マニュアル変更するからしばらく付き添いです」とか、そういう感じで。
数カ月はそういう感じで、最後のほうにそういう話は学校では文句は言ってなかったんですけど、訪問看護の人とかには言っていて、訪問看護さんがきっかけをつくってくれて。
学校と話し合いをしてくれて、そのきっかけで多分他の先生がケアをやってくれることになって、そこからはすごく早くて、他の先生だとすぐ合格できました。
――もっと早くそれがあれば、なんて。
今はすごく思いますけど、あのときはもう、ああ、よかったっていうぐらいで。