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インタビュー時: 52歳(2021年2月)
関係:母
医療的ケアのある子:長女7歳(2016年逝去)
首都圏在住。夫、長男21歳、次男20歳、義母の5人家族。自営業。
長女は2歳半頃まで元気に育っていたが、3歳で発達障害、睡眠時無呼吸症候群と診断され、マスク型人工呼吸器が必要になった。
その後、感染症で呼吸状態が悪くなり、気管切開、経鼻経管栄養、吸引も必要になった。
5歳で中枢性肺胞低換気症となり、さらに呼吸状態が悪化し7歳の時に亡くなった。
特別支援学校のスクーリングで楽しそうにしていた長女を思い、今は特別支援学校を作る活動を行っている。
語りの内容
このまま呼吸器で行くかというようなことになったのが、本当に小学校入学直前の3月でした。
そこで24時間呼吸器になってしまったんですけれども。
もう療育も卒業なので、学校どうしようっていうときに。本当は近所に県をまたぐんですけれども、15分ぐらいのところに、肢体の支援学校があるので、そっちに行きたいなーと思って。
あの「入学したいんです。」っていうことで。
要望書を出して、ちょっと運動してたんですよね。
そこに「行きたいんです、15分なら何とか通わせてほしい。」っていう形で言ってたんですけれども、東京都から断りが来たのが2月の下旬だったんですね。
もう入学(直前)の、2月の下旬に断られて、3月の上旬に大学病院に入ってしまって。そこから1カ月間ぐらい入院してたので。一体どこの学校に通えばいいんだろうっていうことで。
教育委員会と相談して「もうとりあえず、こんな状態だし、お子さんに行ける学校はないから、もう遠くても県の支援学校の訪問教育ということにしましょう。」ということで。
本当に、具合が悪かったので、どうなるかも分からなかったので、とりあえず訪問教育受けますという形で。
学校の先生に、病院まで来てもらって、訪問で「あ、いろいろできるね」なんて言われながら、いろいろ楽器なんか持ってきてくれて、楽しそうにもしてたので。「訪問教育でいいです。」っていう形で。
小学校1年生は訪問教育で受けますということにしました。
インタビュー14
- 通学にタクシーを利用するしかないが補助の範囲を超えると経済的負担が大きすぎて、訪問教育を選ばざるを得なかった
- 24時間呼吸器が必要になり、学校をどうしたらいいか悩んでいたところ、県の支援学校の先生が病院に通う形で訪問教育が始まった
- 訪問教育でしかできなかった学びや体験ができ先生には感謝しているが、訪問籍では通学の機会は月1回だけで不平等なようにも思う
- 入院中は院内での帳簿つけも気分転換になった。漫画やドラマの続きを楽しみにし、時には友達とテニスをすることもあった
- 亡くなって半年は何もする気になれなかったが、当時、地域に通える特別支援学校を切望していたことを思い出し、現在設置にむけた活動をしている
- 子どもは嚥下ができず、唾液が肺に入り込んでしまう状態で、感染症でICUに入ることを繰り返すうち、人工呼吸器が必要になった