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インタビュー時:58歳(2021年10月)
関係:母
医療的ケアのある子:長女29歳
四国在住。実母と娘の3人暮らし。
娘は出産時の回旋異常で重度の脳性麻痺となった。
当初は経鼻チューブから栄養を取っていたが、何度も練習し生後4か月頃から経口摂取が可能になった。
胃食道逆流症もあり口腔・鼻腔吸引、喘息のため吸入は今も必要。
娘は地元の小中学校の特別支援学級に通った。
娘が幼児期から、障がい児者の親の会の活動をしている。
娘が成人したとき、社会人としてどう生きていくかを考えた。
現在、児童館での交流や自分のできることを活かし、社会人として生きる娘を応援している。
語りの内容
中学3年の、みんな高校受験で忙しくなってきた頃に、娘に「どうしようか」って。
いよいよ、特別支援学校の高等部を考えないといけないかなっていうことで、家族でも話をしていたんですね。
今までも、幼稚園、小学校、中学校と来た経緯の中では、いきなりここから特別支援学校かっていうのがちょっとしっくり来なかったところがあって。
中3の春に、大阪のリハビリの理学療法士の先生から、「中3なったけど、高校どうするの?」って聞かれたんですね。
それで、「もう、特別支援学校しかないよねー」って言ったら、「いや、大阪はねー、そんなことないんだよ」って教えてくれたんですねえ。
特別支援学校に行きながら、日々、高校に通うっていうような特別支援学校もあるし、高校に知的障害のある人の受験枠があって、そこを受験して入っていく子もある。
あるいは、特別支援学校に行く子もあるし、普通に高校受験して高校の生徒になる子もあるし、就職する。
実際、高校に行かずに就職する子もあるしね。それだけ数えても5つの選択肢があった。
それを聞いたときにがくぜんとして、じゃあどうするっていうことになって、娘に「どうする、高校行きたいの?」って聞いたら「うん」って言うんですね。
決して、彼女は学力があるわけでもない、勉強ができるわけでもない。
みんなと一緒に、中学過ごして、楽しかったっていうことだけなんだと思うんですけど、でも、じゃあ「みんな今、受験勉強、夜もしてるよ。するの?」って言ったら、「うん」って言うんですね。
ああ、そうか、みんなと一緒に机を並べて過ごしたいんだなって思って、だったら、高校を受けるかっていうことになったんですね。
それを、中学校の先生に言ったら、とんでもないって話にもちろんなりました。学校の中でも、非常に波紋が広がり、県内でも、そういう前例のある人なんていなかったので、非常に注目されるようなことにもなったんですけれども。
でも、本人が勉強したい、みんなと一緒に高校で机並べて、勉強したいって思いがあるのは確かだったので、それは当たり前の希望だよねっていうことで、トライすることになりました。
インタビュー31
- 私の母は孫のケア、日常の家事も含め一番の応援団だ。祖母として常に愛情深く接してくれ私たち親子にとって心のよりどころだ
- 地元の友達を作りたいという思いで、幼稚園での交流を始めた。他のお母さんたちも応援してくれ普通小学校への入学が実現した
- 高校は特別支援学校かと思っていた矢先、普通学校を受験する選択肢もあると聞き、娘も望んだため、受験を決意した
- 普通高校を3回受験しすべて不合格だったが、定時制高校の校長先生が学校開放の制度を設け、娘が通える環境を作ってくれた
- 毎日親が付き添ったことで他の子たちとの交流が活性化し、プールに入ることも認めてもらえ、得られるものがたくさんあった
- 成人した娘が、児童館で子どもたちと交流する活動を社会貢献事業として認めてもらい、謝金を娘の口座に振り込んでもらっている
- 経鼻栄養は外れたものの、娘は食べることが苦手だった。あやして口が開いた瞬間に入れる形でなんとかペースト食を食べさせた
- 29歳の娘はぜんそくの発作や、コロナワクチン接種をきっかけに、小児科から大人の診療科の受診を勧められ、移行期間中だ
- 娘が成人して社会人としてどう生きていくかを考えた。最初に行ったのは選挙だ。コミュニケーション機器で投票を完了したときは感無量だった
- 修学旅行は秋芳洞の内部で集合写真を撮る予定だったが、車いすではいけない。周囲の保護者が別の所で撮ればよいと提案してくれた
- 障害に対する拒絶反応から思わず「障害児なんていらない」と口にしたが、子どもの懸命に生きる姿に何とか助かってほしいと願った