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インタビュー時:49歳(2019年11月)
関係:母
医療的ケアのある子:長女16歳(逝去時)
首都圏在住。夫、長男、長女の4人家族。
長女は生後まもなく、ぐにゃりと反り返る姿勢をとるなど、2つ上の長男とは異なる様子があった。
検査しても原因はわからず、1歳頃にたん吸引、4歳頃に胃ろうと経管栄養が必要になった。
24時間続くケアで安心して眠ることができず心身ともに限界だったが、当時は子どもを見るのは母親の仕事として、ヘルパーや訪問看護の利用がなかなか認められなかった。
あきらめずに説得し、制度利用を少しずつ認めてもらうようになった。
語りの内容
リフレッシュをできるだけしようと思って、短期入所を利用することを、割と他の親御さんたちよりも早い時期から考え、積極的に利用をしていました。
東京都にある施設で、特に23区内の療育施設で短期入所ができる施設というのはごく限られていました。
奪い合いと言ったら失礼な言い方かもしれないんですけど、非常に希望者が多い状態で、特に入学式とか卒業式のような、決まったタイミングではどうしても希望者が集中してしまいます。
そういった時期以外は、できるだけ私は利用するようにして、たった3日間でもいいから体を休ませる時間をわざとつくるようにしました。
例えば1週間短期入所の期間があったとしても、前半の1日と最後の1日っていうのは、本当に前半の1日は預け入れるだけにものすごく時間がかかってしまいます。
もう行って、帰るだけでへとへとになってしまって(笑)、最初の2日間とか3日間は寝っ放しなんですよね。
最後の日も、あ、いよいよと思いながらも、ちょっとのんびり過ごす時間にしていて。
そうなってくると正味動ける時間って、1週間休みがあっても1日か2日ぐらいになってしまうんですけど、その時間にできるだけリフレッシュするように心掛けて、美容院に行くとか(笑)、そういうようなこともしたりとか。
あとは、お兄ちゃんもいたので、できるだけお兄ちゃんと向き合う時間を取るようにして、そういうときに外食に行くようにしたりして、できるだけゆっくり話を聴けるように、時間を取るように心掛けていましたね。
短期入所は、月1回取るように心掛けてはいたんですけれど、23区内の施設が非常に限られていました。
大きくなってきて少し体力も出て来たら、23区外の東京都の西部の地域にもいろいろな療育センターがあったので、そういった療育センターにも行く希望も出しました。
最大で6カ所、毎月希望を出して、そのうちどこか1つが当たればラッキーぐらい(笑)、の感覚でいましたねえ。
それでも、6カ所、どこも取れないときもありましたし、逆に重複して取れたときもあります。
そういう所を利用しながら、あえて休む時間もつくるようにして、リフレッシュしながら介護と向き合っていましたね。
インタビュー01
- お兄ちゃんはわがままを言わずに育ってしまった。サポートの学生ボランティアにわがままを聞いてもらうようにした
- 特別支援学校で娘のケアは看護師では対応できないと言われ、自分が付き添い、トイレも自由に行けず、気持ちを休める暇はなかった
- 懸賞論文が当たり、自分は文章を書くことが得意なのではないかとライタースクールに通い、今の仕事になった
- 夜間のスクールに通うため、周りの手を借りた。忙しかったが隙間時間を見つけやりくりする能力が身に着いた
- 制度やサポートについて行政に訴えるときには、なぜ必要なのかがわかるように情報を客観的に整理して伝えることが大切だと思う
- 身体障害児用車いすの費用補助のため1歳半頃に身体障害者手帳を申請した。抵抗はあったがその後多くの支援サービスを受けられた
- 2010年頃、短期入所の予約は申し込み方法が施設ごとに異なっていた。自らマネジメントしながら、予約申請するしかなかった
- 自分の身体を休ませ上の子と過ごすために宿泊の短期入所を利用したが、準備が大変で1週間あっても自由になるのは2、3日だった
- 経鼻経腸チューブが抜けると病院で入れ直してもらわねばならない。チューブに触らないようヘルパーに娘の手を握っていてもらった
- 夜中の体位交換や見守りのため夫婦で睡眠時間をずらしていた。自分の運転で娘を学校に送るので、寝不足にならないように注意した
- 娘は16歳で急変して亡くなった。いつかはと覚悟はしていたものの、その喪失感は大きくしばらく何をみても涙が止まらなかった