投稿者「dipex-j」のアーカイブ

英国人の前立腺がんの語り

待合室での遅れによって生じた心配によるフラストレーションについて述べる

先生に診てもらうのが遅くなるのは嫌でしたね。待合室での遅れも嫌でしたよ。特に、生検の結果が出るのを、爪を噛みながら待ってるなんてときはね。だって私たちは誰でも「がん」ということばを聞けば恐ろしくて、人生の終わりを感じてしまうじゃないですか。そんな場面で、9時半の予約が、実際に専門の先生に会えたのは11時15分前、それから12時近くまで診てもらいました。その間ずっと、時間の遅れにイライラしっぱなし、不安が生じて、心配で、心配で。
もっともっと心配性の人もいるでしょうから、自分のことだけを話しますけど、その時はほんとうに不安でした、何が起こるか分からないんですから。

――大変でしたね

辛いですよ。だって自分でも知らないうちに、その医者をまるで自分の生死を宣告する神様みたいに思ってしまうんだから。ですから、その種の宣告のために長時間待たされるということは、かなりきついことですよ。待たされたイライラと、入っていったら何と言われるのかという不安ですよ。

英国人の前立腺がんの語り

彼は、カテーテルを除去した後、失禁を起こしていないことを知って喜んだ。仕事を休んだのはわずか4週間に過ぎなかった

病院のスタッフは、私をカテーテル抜去後一泊させたかったようですし、実際それを勧められました。結局一晩病院という安全な環境で過ごし、カテーテル無しで一晩膀胱がきちんと尿を貯めているという経験をすることが出来ました。医師達は、私が朝起きてからちゃんと排尿し膀胱を空にできるかチェックすることを望みました。それは結構、病院にもう一泊、楽しいね、大したことじゃない。翌朝にはすっきり早起き、動きやすくなっていました。驚いたことに、カテーテルを抜去した最初の夜もまったく失禁がなかったのです。これは予想もしていませんでした。むしろ、手術後やカテーテル抜去後には一般に奔流のような失禁が一定期間続くのはほぼ確実と思っていました。でも、除去後の初めての夜は失禁無し。それ以後はわずか2回の小さな失敗を例外として、毎夜問題はありませんでした。そして次の日の朝、痛みも無く不快な感覚も無く膀胱を空に出来ることをデモをした後退院しました。退院してからは、ますます健康になっていますよ。

――仕事を休んだのはどのくらいですか?

計4週間です。10日間はカテーテルが入っていて、カテーテル抜去後は約3週間の期間だったと思います。おそらくもっと早く仕事に復帰できたと思います。実際ある程度家で仕事を再開していましたね、Eメールや臨時の仕事に手を出していましたから。

英国人の前立腺がんの語り

彼はすぐに回復し、帰宅して2日後には短距離の外出ができるようになったが、薬を飲まなければならず、この薬は下痢を引き起こした

帰宅後の2日間は行動範囲を家と庭だけと制限していました。単に身体を動かす際に不快感があり、また男性特有の心理だと思いますが、近所に歩きに出たときに蓄尿袋は誰にも見られないことはわかっているものの、近所を歩いていて蓄尿袋が脚に縛りつつけられていることを意識するようになってしまいました。思い切って散歩するにいたるまで2日を要しました。でも、3日目からは、さらに遠くあまで歩くようになり、確か5日目にはゆっくりとですが、1日1マイルは歩くようになりました。ゆっくりとは言え1マイルは1マイルです。これ以上歩くことはなかったのですが、それは蓄尿袋に溜った尿をトイレに流すために戻る必要があったからです。時には手頃な木の根元を(立ち小便のように)利用できますが、実際には袋を空けるのに少々時間がかかりますね。

――回復について他に何かお話ししたいことはありますか?

最初の数週間は強力な抗生物質を服用していました。感染予防対策では間違いなくその作用を発揮していたと思いますが、一方で強力な消化器症状もありました。普通に飲食はできましたが、はっきりした便意亢進の徴候があり、身体が弱ってくる感じで不快感もありました。

――そうすると、下痢がときどきあったんですね?

はい。主治医は、私の気持に関係なく、ラクツロースを服用し続けなければならないと強く指示しました。だから、強力な抗生物質と、比較的急性の下痢があるのでラクツロースを服用していました。とにかく、この下痢は約10日間続き、その後はかなり早く治まってきて我慢できる程になりました。せいぜい不便だったということですね。

英国人の前立腺がんの語り

患者は翌日ベッドから降り、異なる2種類のカテーテル袋を渡されて帰宅した

手術翌日、介助の必要がありませんでしたので、私は自らベッドをでました。そう勧められたのです。最初は少々自身を気遣いながらベッド脇の椅子に座っていました。身体の動きにつれて少し不快な感覚がありましたので。休んでいるときはとても快適でしたが、動く際には痛みが生じました。ドレーンを含み6ヶ所の切開部があったので、痛みには大して驚きませんでした。
少数の蓄尿袋2種類を持たされ、私は退院しました。ひとつは昼間用で伸縮性のあるヴェルクロテープで脚に取り付けるタイプで、750mL前後の尿を溜めることができます。袋には、下部に小さなバルブがついていて、そこからトイレに排出できるようになっています。もうひとつは、1.5~2Lの尿を溜めることができる夜間用の袋です。就寝1~2時間前に過度に水分を飲まなければ、一晩十分にもちます。
私は、蓄尿袋のスタンドやラック等の収納類を備え付けませんでしたし、その存在すら知りませんでした。病室には、椅子やベッドサイドに吊るすことができるタイプがありましたが、自宅には備えてありませんでした。ですので、夜間用の袋を使うときには、水は下~上に流れないという流体力学の基礎をもとにヒース・ロビンソン氏のような工夫をする必要がありました。工夫をする必要はありますよ。それで、自分自身のケースでそういう事を把握するには数夜かかりました。

英国人の前立腺がんの語り

手術は順調に行き、患者は麻酔から覚めたとき痛みを感じなかった

前夜半ら何も口にしていなかったので、手術当日は空き腹でした。10時頃、いや朝10時30分に手術室へ送られました。手術前の投薬はありませんでした。私には必要ありませんでした。手術に対して不安や焦燥が強い患者では前投薬が行なわれますが、私は落ち着いていたので、前投薬無しで手術室へ送られたのです。あらゆる事項がチェックされる間麻酔室で少しの間過ごしました。本人であることが確認され、すべて問題ないことが確認できると、ヴェンフロンカテーテルが片方の手に挿入され、眠りに就いてしまいました。
回復室で目が覚めたことを覚えています。どうしてこんなことが起こったのか、私には柄にも無いことなので想像出来ませんが、麻酔から覚めての第一声は、「チキンチャーメンとバドワイザーが欲しい」(笑い)だったそうです。普段、朝起きたときには普通要求はしないのですが。なにしろ麻酔回復室のことですから。手術後の回復室で思い出すは、全く痛みを感じなかったことです。おそらく、チキンチャーメンとバドワイザーのことがあったので少し多幸感であったからかな。全く痛みは無く、頭はさえていたと思います。
あとは、同室に別の患者数人がいました。何人かは遮蔽カーテンで隠されていましたが、体の大きな西インド系の女性はちゃんと遮蔽されて無く、正直、私が見てはいけないような極めて個人的な処置をされていました。つまり、プライバシーや品位を重要視しない状況がそこにはありました。病院としてあるべき心構えが一部の医師達にははっきり刻まれていないのだろうと考えています。
とにかく、麻酔から覚めるのは問題もなく比較的早かったですね。私は、午後3時に病室へ戻されていました。病室をでたのが午前10時30分、午後3時には戻ってきて数時間眠っていました。午後6時には完全に目が覚めてすっきりしていました。ちょっと吐き気があったが予想していたほどではありませんでした。手術後初日、私は飲食に対して細心の注意を払いました。紅茶を一口ずつ口にすることからはじめ、徐々に量を増やしていきました。初日に実際に何か口にするなんて思いませんでした。もちろん、やろうと思えばできました。看護師や医師達の意見は食べて行けない理由は無いとのことです。でも以前、麻酔から覚めてすぐ食事をしたときにもどしてしまって後悔した憶えがあったのです。

英国人の前立腺がんの語り

泌尿器専門ナースは患者が骨盤底強化エクササイズのやり方を正しく理解しているかどうかの確認を行った

入院期間は3日間でした。1日は手術前日、手術当日、そして手術日翌日です。そしてこの日に退院しました。そう、手術後の翌日に退院しました。
手術前日のスケジュールは一般的なものだと思います。入院手続き、血液をはじめとした諸検査、書類への署名、麻酔科医の訪問、主治医の訪問、他の関係医師や看護師の訪問、です。例えば泌尿器科専門看護師に会いました。排泄ケア認定看護師には適切な骨盤底筋訓練法を正確に理解しているか確認されました。というわけで、署名、諸事項の説明、紹介や検査や注射といったそれぞれの担当スタッフが入れ替わりで訪問し、記憶のぼやけた初日でした。でも、相変わらずの不味い病院食以外はすっきりしていました。

英国人の前立腺がんの語り

手術の2週間前に、術前評価が行われた

3月下旬、私は術前の検査をしました。検査は2週間かけて行なわれ、身長、体重、血圧、血液検査、その他手術をするにあたって特に問題のないことを確認するための検査を行ないました。結果は問題なく、手術入院が決まりました。私は、手術前日2007年4月12日(木)に入院しました。なんと、4月13日(金)という不吉な日に手術をしたわけですが、もちろんそのような迷信は信じていませんよ。信じるとかえって悪運をもたらします。

英国人の前立腺がんの語り

どのように自分がこの新しいタイプの手術を受けることに決めたかを語っている

当時、私は12月の残りの期間、1月と2月のすべてを使ってインターネットや偶然にもすばらしい発見できた前立腺癌慈善団体、そしてNHSの様々な臨床家を含めた情報源から、貪欲に情報を収集しました。それから、いろいろな治療法の利点を独自で評価して、比較表を作成しました。
ですので、この表がどのくらい効果的に働いているか、さらに個々の相対的な比較がどの程度できるかということを、公平な観点で捉えることができたと思います。私にとって有用な科学的根拠や情報を可能な限り探して、選択可能な治療を採点しました。つまり、根治的前立腺全摘除術、腹腔鏡下前立腺全摘除術、ロボット支援術、高密度焦点式超音波による治療、高線量率組織内照射治療、外照射療法や、例えば比較的妥当性が欠けるもの含めると、明らかに私には適さない治療法として早々に除外した凍結外科手術といった治療法も調べました。詳しく調べて各々を評価した結果、最終的には二つの選択肢に絞られました。ひとつは時間的な制約のあるもので、基本的には何もしない、つまり監視的待機です。PSA検査や生検を定期的に行ない、治療の必要が生じた時点で治療を開始するという方法です。もうひとつが、ロボット支援手術でした。
最終的に考えると、2月の外来予約よりも前の時点で私は外科治療に傾いていました。理由は、監視的待機というアプローチは結局は外科手術に行き着くだろう、その時にはさらに年をとっているから手術時の麻酔のリスクが増すことになるであろうということ、また、病気の進行度をみる検査が的確かつタイムリーに行われることが自分の命運を左右するであろう、という2点でした。そして私は、監視的待機という選択が、麻酔のリスクを増大させるばかりでなく、病気が進行して、さらに恐ろしい状況になってしまう危険性に不安を感じたのです。

英国人の前立腺がんの語り

ロボット装置は、外科医の手の震えをなくし、きわめて精緻な動きを可能にしたと説明している

それはロボット支援腹腔鏡前立腺切除術といいます。ロボット支援という言葉は、少し誤解を生じると思います。というのは、いわゆる意志を持ち固有のプログラムを備えた本物のロボットではないからです。いわば、マジックハンドのシステムです。つまり、執刀医はコンピュータの操作卓に着席します。これは子供のコンピュータゲーム機のようなものですが非常に高価で数百万ポンドはしますよ。手術助手達は全部で6カ所、いや失礼5カ所に小さな切開窓を作りそこから器具類を差し込み、あるいは実際に双眼顕微鏡を装着します。
これで執刀医は患者に差し込まれたこれらの器具を手で操作することができます。そして自分の動きをロボットの動きに合わせて大きくも小さくも動かせます。それでたとえば自分の動き2mmをロボットの動きとして0.2mmに変換でき、執刀医はスクリーンに3次元画像を見ながら極めて精細な動きが出来ます。ロボット装置のもう一つの利点は、外科医の手の震えを除去することにあります。もちろん、これはそもそも私がこの手技に惹かれた理由の一つです。様々な機能、とりわけ勃起機能、を司る非常に重要な神経の周りをいじくり回すのであれば、当然震えのない極めて精密な動きが必要になります。このように、これは基本的にはマジックハンドロボットシステムで、ロボットアームを手動で差し込んでから執刀医がその操作をコンピュータ操作卓で引き継ぐのです。

英国人の前立腺がんの語り

前立腺摘除術は、思っていたほど痛くなかった

病院の職員や看護職員、どの職員もとても親切で思いやりがありました、おかげで私はとても心地よく感じ、職員のことについては心配ありませんでした。それに、私に通常以上に情報を、何も隠さずに、与えてくれました。担当の麻酔科医に会いました、彼は前立腺の手術で多数の麻酔剤を患者に使っていました。おそらくこの国で彼ほど前立腺の手術に多数の麻酔剤を使う医師はいないだろう思いました。私たちは前立腺手術での麻酔の問題点についてざっくばらんに話し合いました。おかげでとても安心しました。そうそう、麻酔前投薬は使わないということだった。見落とした事柄はほとんどなかった。彼としては自分の担当する手術では麻酔前投薬を使うのを好まないということを知りませんでした。それで私はしっかり目がさめたまま手術室に向かいました。それから導入麻酔がなされ、麻酔科医は私にこう言いましたね、“まあ、これはまさにシャンパンをちょっと飲み過ぎて酔っ払ったようなものですが、とても楽しい気分になりますよ”って。私は導入麻酔でもたらされた気分にはまったく関心がありませんでした、それで私は、“このシャンパンはかなりひどいシャンパンだね、もし麻酔から覚めなかったら今の言葉は臨終の言葉となるでしょうね”、と言いました。

――ところで麻酔は注射でしたか?

ええ、そのとおりです。そのあと私は集中治療室で目覚めました。

――集中治療室はどのようなところでしたか?

そうですね、予想していたよりもはるかに良いところでした。目を覚ますと誰もが痛みについて尋ねてきました、どの看護師も部屋にやってきて患者の傍らにすわって話しかけてくれました。痛みに付いてはみなさんにお知らせしておきたいと思います。外科医と麻酔科医も忠告してくれたことでした。麻酔で寝むらされるときに、目覚めたときには相当な痛みを感じるに違いないと思っていました。ところが目覚めると不快な感じがあるだけでした。投与されている鎮痛剤の量を自分で調節して、量をもっと増やしたければ増やすこともできましたが、これ以上増やす気持ちはありませんでした。その当時、かなり沢山の点滴と、もちろん、酸素吸入を受けていました。まさに通常の集中治療手順です。それと、ものすごく愛想の良い男性看護師が私の専属でした、彼はこれ以上は無いほど手際が良かったと思います。ひっきりなしにあれやこれを調節したり、点滴のラインになんだかわからないものを入れたりしていました。

――一般病棟に戻ってくるまで、どのくらい時間がかかりましたか?個室と一般病室のどちらに入りましたか?

私は個室に入りました、集中治療室には24時間ちょっといてから上の階の病棟に移りました。手術中に出血していたので血圧と血中酸素に問題あり、何単位もの輸血を受けました。一般病棟に、つまり自分の病室に、戻ったときでさえヘモグロビン値は7だったことからも相当な量の出血をしたことがわかりました。