診断時:57歳
インタビュー時:60歳(2008年2月)
診断当時は、企業の管理職として多忙な日々を送っていた。妻との間に子どもが3人。首都圏在住。吐き気、足のしびれ、腰痛など、2年近く体調不良を訴えて複数の医療機関を受診したが診断がつかず、2005年にようやく前立腺がん(ステージIV)の診断を受けた。ホルモン療法にて体調が改善したが、2年余りで再びPSA数値が上昇しつつある。
プロフィール詳細
K.Jさんは、2005年7月に前立腺がん(ステージIV)の診断を受けた。その2年ほど前から胃のむかつきがあり、次第に不眠、吐き気、疲労感、微熱などの症状が強くなってきたため、2005年2月、近くの総合病院を受診したが、混んでいたため検査を受けることができず、「また時間があるときに来るように」と言われただけだった。その後、右足にしびれを感じるようになり、それが激しい疼痛になったため、整形外科にかかるが、原因はわからなかった。
健康保険組合が提供している電話医療相談で相談したところ、「慢性疲労症候群では?」と言われ、専門外来を持つ大学病院を2軒受診したが、結局同症候群ではないと言われただけで、症状の解決にはいたらなかった。その頃には、身体に触れられただけでも痛いほどの激しい腰痛となり、顔面神経麻痺も出て、食事ものどを通らない状態になった。心療内科にもかかったが、よくなる気配がなく、本人も心ではなく身体に問題があると感じていたため通院を中止した。
2005年7月、最後の頼みの綱で、某大学病院の東洋医学研究所を受診。そこで初めて血液検査をして、異常値が出たため、同大学の本院に検査入院となり、1週間後に同院の泌尿器科を受診して、ようやく診断がついた。医師から末期のがんであり、5年生存率は10%以下であると説明を受けた。10日間1クールのホンバン療法*を始めたところ、7日間で効果が出たので、そこで治療を中止。おおよそ痛みが取れたため、予定されていた放射線療法も取りやめて退院した。
退院後はカソデックスによるホルモン療法でかなり生活の質が向上していたが、2007年秋ごろからPSAの値が上昇し始め、再燃状態になっている。もともとホルモン療法では、ホルモン剤に対する耐性ができてしまっていずれは効かなくなるということが言われていたが、受診の際データが悪いとやはり気分が沈みがちになることは否めない。
診断を受けた当時は、流通関係の企業でクレーム対応の部署にいたため、非常にストレスが強かった。また、キャリアカウンセリングのNPO法人を立ち上げようとしていたので、極めて多忙な日々を過ごしていた。しかし、普段から健康に気遣っていて運動もしていたので、がんになると思いもよらなかった。会社は1年間の休職しか認めないので、退職せざるを得なかった。NPOのほうは一時退いていたが、体調がよくなったので再びできる範囲で関わっている。
キャリアカウンセラーとして心理学を学んできたことが、がんを受け入れる上で役立っている。大学病院も含め、何軒もの医療機関を回ったことについて、どうして見つけてくれなかったのか、という思いも確かにあるが、そうやって誰かを恨むことより、今はどうやったら自分が5年後に生き残る10%に入れるかということを考えているほうがいいと思っている。がんになってからの2年半は、妻や3人の子どもたちと濃密な時間を過ごすことができ、大変幸せな毎日を過ごしている。ただ、医療者には、病気だけでなく患者を診てもらいたいと思うし、がんの告知に際しては医学的な説明だけでなく、心理的なケアが欠かせないと考えている。
*ホンバンは現在使用されていません。
健康保険組合が提供している電話医療相談で相談したところ、「慢性疲労症候群では?」と言われ、専門外来を持つ大学病院を2軒受診したが、結局同症候群ではないと言われただけで、症状の解決にはいたらなかった。その頃には、身体に触れられただけでも痛いほどの激しい腰痛となり、顔面神経麻痺も出て、食事ものどを通らない状態になった。心療内科にもかかったが、よくなる気配がなく、本人も心ではなく身体に問題があると感じていたため通院を中止した。
2005年7月、最後の頼みの綱で、某大学病院の東洋医学研究所を受診。そこで初めて血液検査をして、異常値が出たため、同大学の本院に検査入院となり、1週間後に同院の泌尿器科を受診して、ようやく診断がついた。医師から末期のがんであり、5年生存率は10%以下であると説明を受けた。10日間1クールのホンバン療法*を始めたところ、7日間で効果が出たので、そこで治療を中止。おおよそ痛みが取れたため、予定されていた放射線療法も取りやめて退院した。
退院後はカソデックスによるホルモン療法でかなり生活の質が向上していたが、2007年秋ごろからPSAの値が上昇し始め、再燃状態になっている。もともとホルモン療法では、ホルモン剤に対する耐性ができてしまっていずれは効かなくなるということが言われていたが、受診の際データが悪いとやはり気分が沈みがちになることは否めない。
診断を受けた当時は、流通関係の企業でクレーム対応の部署にいたため、非常にストレスが強かった。また、キャリアカウンセリングのNPO法人を立ち上げようとしていたので、極めて多忙な日々を過ごしていた。しかし、普段から健康に気遣っていて運動もしていたので、がんになると思いもよらなかった。会社は1年間の休職しか認めないので、退職せざるを得なかった。NPOのほうは一時退いていたが、体調がよくなったので再びできる範囲で関わっている。
キャリアカウンセラーとして心理学を学んできたことが、がんを受け入れる上で役立っている。大学病院も含め、何軒もの医療機関を回ったことについて、どうして見つけてくれなかったのか、という思いも確かにあるが、そうやって誰かを恨むことより、今はどうやったら自分が5年後に生き残る10%に入れるかということを考えているほうがいいと思っている。がんになってからの2年半は、妻や3人の子どもたちと濃密な時間を過ごすことができ、大変幸せな毎日を過ごしている。ただ、医療者には、病気だけでなく患者を診てもらいたいと思うし、がんの告知に際しては医学的な説明だけでなく、心理的なケアが欠かせないと考えている。
*ホンバンは現在使用されていません。
インタビュー02
- がんだとわかる約2年前から胃のむかつきなど、身体からのメッセージに気づいてはいたが、どの病院でも異常は見つからなかった
- 症状はひどくなり、しびれや痛みも出てきて、会社に行けなくなるほどだったのに、どの病院でも「わからない」と言われてしまう
- 直腸診を受けた後に、生検をしないと確定診断は出来ないけれど、触った感じで表情が厳しい、立派ながんだと言われた
- 担当していた心理学の研修を通じて幸か不幸か、自分にとって大切なものが何かよくわかっていたので、気持ちを切り替えるようにした
- 告知を聞いたときは一人だった。家族は後から医師に呼ばれて診断を聞いたが、家内がとても明るかったので気持ちは楽だった
- 5年生存率10%という数値は統計にすぎない。その10%に入ればいいと自分は受け止めた。だけど、こうした告知の仕方はいかがなものかと思う
- 言い出しにくかったが、フィーリングの合う医師に主治医を替わってもらった。自分の考える治療法や話を聞いてくれる医師を選ぶことが大切だと思う
- 自分の場合は病期がステージ4で、手術や放射線療法はできないので、がんの勢いを落とすためにホルモン療法を使った
- ホルモン療法で胸が出て女性のようになり、ジムで裸になってシャワーを浴びるときに男性の目が気になり、プールにも行きづらい
- 統合医療の医師に第二の主治医としていろいろ相談している。いつも触診があり、話をよく聞いてくれるのが素晴らしい
- 再燃してPSAが100を超え、そのデータの重みから気持ちも重くなるけれど、家族が笑顔になるように助けてくれる
- 再燃状態にあるけれど、骨折に気をつけながら慎重に体を鍛え、数値が高くても元気でやっている仲間の存在を支えに頑張ろうと思う
- 末期の患者にとっては食事療法はたくさんあって迷うし、作る人にも負担がかかるので、がん患者のためのレシピ集があったらいいと思う
- 午後10時から午前2時までの細胞が再生される時間帯に睡眠をとることで免疫力が高まるというが、もともと夜型なので直すのが難しい
- ママチャリをマウンテンバイクに乗り換えて、近所の公園のグラウンドを走って鍛えている。運動すれば筋肉もつくし達成感が得られる
- 免疫細胞療法を受けてみたいが、ワンクール100万以上かかる。家族に何も残せないのに、わずかなお金すら自分のために使わせるのは、と悩む
- 進行がんの場合は特に、患者サポートの一つとして、経済的なアドバイスが出来る専門家が医療チームにいてくれるといいと思う
- 中小企業だったため休職期間が短く、退職後は手当を受け取れなくなった。末期がんで、闘病が長く続くような場合には社会的にサポートしてほしい
- ホルモン療法が著効した時期、パートででも仕事に戻りたかったので復職を職場に交渉したが、辞めて欲しいと断られた
- NPOの仕事を一旦は辞めたが、周りの支えがあったのと、キャリアコンサルタントとして成長し続けたいという思いから再開した
- 末期がんの診断をきっかけに、家族との時間を大事にしようと思った。幸い前立腺がんは時間があるため濃密な時間を過ごすことができている
- 病状と年齢のこともあって、夫婦関係(性生活)は棚上げになっているが、時間を共有することを目的に結婚したのだし、別にどうっていうことはない
- 同居中の実の両親が、たまたま不在で一緒に医師の説明を聞けず、後から聞くことになり、「あの時は随分疎外感を味わった」と言われてしまった
- 子どもには財産は残せないが、今、自分が幸せだということを伝えたい。恰好よくはないが、悩みながらも明るく生きる自分の姿が、唯一残せるものだと思う
- 末期がんであっても、捨てたものじゃない。幸せになる種はたくさんある。気持ちを切り替えることが大切だと思う