診断時:47歳
インタビュー時:63歳(2008年10月)
九州地方在住。1992年の夏、進行した前立腺がんと診断された。当時は、単身赴任中だったため、家族のいる故郷に戻って、治療を受けながら58歳まで仕事を続けた。最初は、家族にだけ、がんであることが告げられていた。ホルモン療法、化学療法、放射線療法、尿路変更術、緩和治療を受け、現在に至っている。診断当時小中学生だった子どもたちは、現在独立し、夫婦二人暮らし。
プロフィール詳細
J.Jさんが膀胱炎のような異常を感じたのは、1992年の夏だった。当時、首都圏の建設会社に勤務し、地下の厳しい環境の工事現場で作業していた。職場近くの大学病院を受診したところ、入院が必要と言われた。単身赴任だったため、故郷の病院に入院してホルモン療法を受けることになった。家族からは、「前立腺の良性の腫瘍」と言われていたが、医師は家族にだけ「手術のできない進行した前立腺がんで、あと5、6年の命」と告げていた。
3年後に主治医が変わった時、主治医が妻とだけ話しているのを不審に思って、主治医を問い詰めたところ、がんであると告げられた。しかし、体の不調を感じていなかったので、気持ちに変化はなかった。その後、ホルモン療法、放射線療法、化学療法を行いながら、14年が過ぎた。
2006年秋頃から血尿が出始め、この時初めてもう駄目だと感じた。抗がん剤を開始すると、血尿が止まり、最高値で3,399だったPSAが670にまで下がったが、1年半で効き目がなくなり、打ち切られた。
2007年秋、ホスピスに紹介された。血尿が出始めたころから、性器に痛みを感じていたので、痛みを緩和する治療を受けることになった。最初は飲み薬、その後パッチを使うようになり、現在もパッチを使ってコントロールしている。ホスピスでは、痛みの治療だけでなく、漢方薬やサプリメントなどを使った治療も受けている。
2008年夏には、前立腺が腫瘍で20倍の大きさに膨れており、このままだと膀胱の出入り口を塞いで尿が出なくなってしまう恐れがあると言われ、尿路変更術を受けることになった。ヘソの近くに開けた穴に、腎臓からつながっている管が通っていて、尿はそこからパックに貯まるようになっている。今も出血は続いていて、定期的に輸血を受けていなければならない。尿道から血液が排泄されるときは、身を絞るような強い痛みを感じるが、最近ではどうしたら少しは痛みが楽かとか、どのくらいでおさまるかとか、自分なりに痛みをやり過ごせるようになった。抗がん剤治療を打ち切った当時2,000台だったPSAは今、950で、骨などへの転移はないと言われている。
働き盛りでがんになり、家族には経済的にも負担をかけてしまい、申し訳なく思っている。58歳でリストラされ、年金をもらえる60歳までは、特に経済的に苦しい時期を過ごした。進学しないで就職してくれた息子に助けられた。息子をはじめ、妻や娘には長いこと支えてもらい、心から感謝している。抗がん剤治療が打ち切られたあと、生きようと思えたのは、娘の妊娠だった。元気に生まれた孫の顔を見られたのは、とてもうれしい出来事だった。次は、息子の子どもを見るまで頑張りたいと思っている。
3年後に主治医が変わった時、主治医が妻とだけ話しているのを不審に思って、主治医を問い詰めたところ、がんであると告げられた。しかし、体の不調を感じていなかったので、気持ちに変化はなかった。その後、ホルモン療法、放射線療法、化学療法を行いながら、14年が過ぎた。
2006年秋頃から血尿が出始め、この時初めてもう駄目だと感じた。抗がん剤を開始すると、血尿が止まり、最高値で3,399だったPSAが670にまで下がったが、1年半で効き目がなくなり、打ち切られた。
2007年秋、ホスピスに紹介された。血尿が出始めたころから、性器に痛みを感じていたので、痛みを緩和する治療を受けることになった。最初は飲み薬、その後パッチを使うようになり、現在もパッチを使ってコントロールしている。ホスピスでは、痛みの治療だけでなく、漢方薬やサプリメントなどを使った治療も受けている。
2008年夏には、前立腺が腫瘍で20倍の大きさに膨れており、このままだと膀胱の出入り口を塞いで尿が出なくなってしまう恐れがあると言われ、尿路変更術を受けることになった。ヘソの近くに開けた穴に、腎臓からつながっている管が通っていて、尿はそこからパックに貯まるようになっている。今も出血は続いていて、定期的に輸血を受けていなければならない。尿道から血液が排泄されるときは、身を絞るような強い痛みを感じるが、最近ではどうしたら少しは痛みが楽かとか、どのくらいでおさまるかとか、自分なりに痛みをやり過ごせるようになった。抗がん剤治療を打ち切った当時2,000台だったPSAは今、950で、骨などへの転移はないと言われている。
働き盛りでがんになり、家族には経済的にも負担をかけてしまい、申し訳なく思っている。58歳でリストラされ、年金をもらえる60歳までは、特に経済的に苦しい時期を過ごした。進学しないで就職してくれた息子に助けられた。息子をはじめ、妻や娘には長いこと支えてもらい、心から感謝している。抗がん剤治療が打ち切られたあと、生きようと思えたのは、娘の妊娠だった。元気に生まれた孫の顔を見られたのは、とてもうれしい出来事だった。次は、息子の子どもを見るまで頑張りたいと思っている。
インタビュー31
- 16年前診断を受けたとき、自分には良性だと伝えられていたが、家族には余命5,6年と告げられていた。最初の入院のときは家族・親戚全員が集まった
- 最初は2週間入院した。退院後、髪の毛が抜け始め、最後は剃ることにした。1年半治療したが、PSAが下がらなくなり、抗がん剤を中止した
- 診断から14年目に血尿が出て抗がん剤を始めたが、1年半で医師から「もう打つ手がない」と言われ、緩和ケアを選択した
- 前立腺の大きさが20倍になり、尿路(※)に障害が出て、痛みと血尿が止まらないので、尿路変更術をうけ、膀胱に尿が溜まらないようにした
- 尿路変更術を受けた後しばらくして前立腺から出血するようになり、今は週に1回輸血を受けている。それでも排尿の痛みを取るためには手術しかなかったと思う
- 58歳でリストラされて60歳で年金の半額をもらえるようになるまで、長男の援助をもらっていた。その2年間が一番苦しかった
- 妻とはいろいろ口げんかもしたが、そんなときに小学生だった娘が「好きで病気になったのではない」と言ってくれたのが嬉しかった。この夏、その娘に子供が生まれた
- 自分が入退院を繰り返し、将来的な収入がないため、息子は進学をあきらめて就職を、娘は奨学金で専門学校へ進んだ