※写真をクリックすると、動画の再生が始まります。
診断時:60歳
インタビュー時:61歳(2008年8月)
診断時は首都圏で妻と二人暮らし。定期健診で精密検査となり07年7月に診断を受けた。ホルモン療法が唯一の治療と言われ様々な心労が重なりうつ状態に。定年後、再雇用制度で継続勤務予定だったが病気を理由に更新を拒否された。故郷九州に戻り信頼できる医師と出会い諦めていた放射線治療が可能と言われ08年2月から併用治療を受けた。将来転移再燃の不安はあるが現在は安定。知人の和尚さんとの対話に多くを学ぶ日々である。
語りの内容
「ああ、がんか。がんならイコール死ぬことや」って。「ああ、死にたくないや。なら…死ぬまでに何か片付けとかないかん。身辺整理、あれせにゃいかん、これせにゃいかん」。そっちのほうばっかりですね。要するにパニックですね。
朝、宿舎から出ていく前に顔洗って、歯磨いてやっとくと、すぐ近くに電車が、通勤電車が通っとるんですけども、あっこは丘陵地帯なんで、トンネル多いんですね。で、トンネルに、電車が行き交うのにゴーってな音があって。もうその音聞いただけで、こっちでいう、おぞけづいて。「もう、もう、もう駄目や」と。もう、もう地獄のほうに引きずり込まれるんじゃなかろうかっちゅう、そんな感じで。大体、元気印で行け行けどんどんで今までやってきたんですけどもね、職場で。大学出て約40年…38年ですか…で、やってきたんですが。「あー、こんなにおれは弱い人間やったんかな」というふうなことと、もう一つのこっちのほうの自分で「頑張れ、頑張れ」っちゅうような。それの繰り返し。「あー、何とかやらないかん。でも駄目や」っちゅうような。まあ早い話が現実逃避というか、尻に帆かけて逃げたかったということですね。で、逃げても、がん=(イコール)死というのが、もう今も頭の片隅にはありますけども、どうしても先ほどの、周りで見たおやじ(父親)のこととか、職場の上司のことと、だぶってきますので「もうおれは死ぬんや」と。…でも、死にたくない。人間はもう必ず100%、間違いなく死ぬというのは、それはもう当たり前のことですし、頭のどっかじゃあ分かっとるんですが、それが現実、目の前に、「もうあんた、確実に死にまっせ」というふうに突きつけられた。でも、死にたくない。何とか助かりたいという。まあ、その繰り返しでしたね。
インタビュー22
- 診断を受ける約2年前から、下腹がしぶる感じがあったり、お酒を飲んだ後、尿意を我慢できなくなることもあった
- 生検後の夜の痛みがひどかった。尿道カテーテルの挿入部がずきずき痛み、抜いた後も血尿が出たり、1週間ほど排尿痛がひどかった
- 閉所恐怖症なので、MRI検査の時に発狂するかもと思った。担当技師が、つらかったらボタンを押すよう笑顔で言ってくれ、安心して受けられた
- 診断を受け、地獄に引きずり込まれるようだった。がんなら死ぬ、でも死にたくない、その繰り返しでパニック状態だった
- 最初は服薬、それから注射の2本立てで、しばらくしのぐことになったが、父親が胃がんで外科手術を受けていて、薬だけで効くのか心配だった
- ホルモン療法は効かなくなると本で読み落ち込んだが、5年で効かなくなっても別の薬でまた5年と繰り返していけば平均寿命だといわれて救われた
- 最初の病院ではホルモン療法しかないと言われていた。放射線治療を受けられて、5年生存率が5割以上に上がったと希望が持てるようになった
- 診断後、気落ちのため全く仕事にならず雇用継続を断られてしまった。65歳前の年金受給を希望したが「身体が動くなら支給対象にならない」と言われてしまった
- 考えても解決するわけではないが、病気が長引くことで、今後お金をどう工面したらいのか、経済的な不安を感じる
- 治療への不安と通院、新しい仕事が重なりパニック状態に。上司に相談したものの、特別扱いという訳にはいかず、段々うつ状態になってしまった
- 診断を受けて落ち込む自分に妻は発破をかけたが、「がんばれ」と言われるときつかった。自分の落ち込みがうつってしまい、妻も参ってしまった
- 和尚様に「死にたくない」と訴えた。「今は底。頭の中でこねくり回さず、気持ちを預けて信じることで光が見える」とヒントをもらい、少しずつ元に戻ってきた