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診断時:64歳
インタビュー時:71歳(2008年11月)
東海地方在住で、妻と2人暮らし。2001年2月に腰椎と頚椎を含む全身に転移した前立腺がんと診断された。ホルモン療法と転移部への放射線療法を受けるが、体力の低下から中断。疼痛緩和の治療も受けた。退院1年半後、普通の生活ができるまで回復。現在は服薬と注射によるホルモン療法で、3ヵ月に1回通院。窯業関係の職人として働いているが無理のない範囲で行い、絵描きなどの趣味を楽しんでいる。自立した息子と娘がいる。
語りの内容
―― あの、奥さまには、あの、どのタイミングでそのご自身がその前立腺がんだっていうことが分かったんですか。
わたしは、あの、主治医の先生に、聞かされたそのあとに、主治医の先生から、家族を呼んで何かそういう報告があったみたいですね。状況の、あの、説明がね、はい。で、その時点では、やっぱり、わたしよりも家族のほうが、あの、何ていうのか、その病気に対する心配はしていたみたいですね。はい。
―― ああ、それは、あの、どんなところから、そういうふうに感じられましたか。
あの、あとで聞きましたけど、やはり、病院の病室の部屋でいるその姿と、おうちへ帰ってからの家族子どもたちとの話の中で、あの、やはり、そういう暗い話というか、悲壮な話を、まあ、私がとにかく長く生きられないという、そのことを覚悟して、非常につらい思いをしたみたいですね。子どもも家内も、はい。で、それは、あくまでも、そのときはわたしは分かりませんでしたけど。あとで聞くと、とにかく、その明るくふるまえないと。つらい顔で、その仕事も従事しないといけないということで、精神的にかなりつらかったかなということは、あとで聞きましたけどね。わたしよりも、家族のほうがそういう思いが大きかったかなと思いながら、あー、でも、元気になら、なれたからよかったかなと、今は感謝していますけどね。
―― あとっていうのは、いつぐらいにそういうお話ができるようになったんですか。
えーとですね、1年ぐらいたったときに、ぽっと子どもが話してくれましたね。ええ。「あのときのお母さんは大変だったよ」って言って。
―― それまでは、じゃ、あまり、そういうご家族の話は。
うーん、だから、明るくふるまっていますから、まあ、それほどでもなかったかなと思っていたけど。それ聞いたときは、ああそうかと、うん、心配してくれたんだな、つうことは思いましたね。はい。
インタビュー38
- 腰が重く、痛みが出てきて車に乗るのも大変になり、整形外科にかかったが、痛みが引かなかったので総合病院を紹介された
- 病院に行くと即入院となった。前立腺がんで全身に転移があり、長くは生きられないと言われ「まさか」と思いながら治療が始まった
- 知人や親戚に勧められてアガリクスの錠剤を飲み始めた。問題(※)が起きて製造中止になったが、残っている在庫を量を減らしてのみ続けている
- 骨転移で腰椎や頚椎の一部が変形を始めていて、立って歩けず、寝ていてもつらいほどの痛みだった
- ホルモン療法を受ける傍ら、変形した腰と首を固定して放射線治療を受けたが、食欲がなくなり体力も落ちたので、治療をいったん中止した
- 入院した当初は、あまりに痛くて、痛みをとってもらうことが第一で、治療は後でもいいと思ったが、医者は痛みでは死ぬことはないという感じだった
- 退院して半年後に痛みが和らぎ、軽い痛み止めに変わった。歩けるようになると生活が全く変わり、1年半で痛みは完全になくなった
- 最初はPSA値が500だったのが、ホルモン剤でどんどん下がり、車椅子だったのが歩けるようになり、その後普通の生活ができるようになった
- がん細胞が42度で死滅するという話を聞き、1日2回、高めの温度のお風呂に入っていたら、次第に45度でも平気で入れるようになった
- 今後ホルモン療法が効かなくなったとしても、保険が利かない薬だと経済的負担が重すぎて病気どころではなくなってしまうので、無理だと思う
- 自営業で窯業を営んでいる。仕事が一度に固まった時が大変で、極力自分のできる量だけ受けるようにして、疲れたら休むようにしている
- 診断後すぐに入院になった。家族は自分の前では明るくふるまっていたが、長くは生きられないと聞いて相当につらかったと、後になってから聞いた
- リビングウィルについて話し合うようにいわれた。家族が悩まぬようにしたいとは思うが、家族と自分の意思をまとめるのは非常に難しいと思った
- がんになる前は何も将来について考えなかった。末期がんと言われて、自分の人生を振り返り、この世にいた証明を残したいと絵を描き始めた