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診断時:57歳
インタビュー時:58歳(2008年4月)
甲信越地方在住。観光関連会社の役員と市議を兼任して多忙な日々を送っていた2006年末、激しい腰痛で整形外科を受診したところ、MRI検査でがんが疑われ、がんセンターに紹介を受けた。当時PSA値は1,079。病期はD2で、ホルモン療法と転移部への放射線照射を受け、腰痛や全身の倦怠感は軽快し、PSA値も1以下に下がった。その後上昇の兆しが見られたため、飲み薬をやめたところ、再びPSAが下がっている。
語りの内容
―― 娘さんには、どうやってお伝えになったんですか。
あのね、ずうっと言わなかったんですよ。退院して、春休み、まだあのころ、ちょうど(大学)4年生になるときだったのかな。春休みに帰ってきて、そのときに駅まで迎えに行って、で、その迎えの車の中で、「実はな」という話をしたんですよ。「まあ大丈夫だから、あと、10年は死なないから」っていう話はしましたけどね。もう、もうびっくりしたでしょうね。「そうだったんだぁ」って、「痩せたもんね、急激にねえ」なんて話もしてたけどね、うん。
それから、この春、卒業して、うん、就職したんですよ。で、娘ともう一人の友達とね、卒業旅行だっていって、3人で、沖縄行ってきたんですよ。うん、そう、沖縄に友達っていうか、いますから。あのう、まあゴルフするときは、おまえたち、あの、レンタカーで、まあその近くに、こことこことここをナビ使って行ってこいって言って、それで現地の友達とね、うん、ゴルフプレーして、で、終わったら戻りなって。それだけ別行動、あとは全部一緒で行動してました。たった2泊ですけどね、2泊3日ですけどね。大阪に勤めちゃってね、こっちに来たって、また仕事もなかったんだろうし。残念ながらこっちに帰ってこれませんでした。
いや、あらかじめ、「絶対大丈夫なんだから」っていう話を前提にしておいて、うん、それで「実は」って話ししましたから。まあ本人、内心までは分からないけど、まあ多少そうでも、結構からっとしてましたよ。うん。「まあおまえがまず、来年卒業して就職ということがあって、だからといって、おまえの人生曲げることないから、どうしてもここへ帰ってこいなんていうのは考えなくていいから」っていう話までしましたからね。うん。でも、行く行くはお父さんとお母さんの面倒見なきゃならないなんて、殊勝なこと言ってますけどね。でも、分からないですけどね。それこそ、あっという間に彼氏を連れてきて「結婚します」なんて言うかもしれない。どこか行くかもしれない。まあ、日本だったらね、どこでも、まあしょうがないなと思っていますけどね。
インタビュー04
- 残尿感があったが、疲れたときに出ていたので、誰でもなるものと考えていた
- 持病だと思っていた腰痛が、2~3年前から激痛になり、意を決して有名な整形外科にかかったら、「整形の分野じゃない」と言われた
- 生検が非常に苦しかった。細胞を採る、その一つ一つが痛かった。腹の中にピストルを撃たれるような感じ
- セカンド・オピニオンを受けてみたいけれど、どこがよいかわからないし二股かけていると感じる。今の先生も悪くないし、どこでも同じだと思う
- リュープリンとカソデックスの投与でいったん下がったPSA値が、再び6まで上がったが、カソデックスを中止したらまた下がった
- ホルモン療法は男性機能をシャットアウトするので、「かわいそうに」と言われるが、もともと淡泊なほうだし、欲することもないから不自由はない
- 診断後すぐ、痛みを取り除く目的で、腰骨に放射線治療を受けた。この放射線治療で根本からがんを取り払えたとは思っていない
- 地元のラジウム含有温泉で湯治をしたり、そこの水を汲んできて調理用の水に使ったりしている。実際に元気でいられるのはそれでかなと思う
- 自分が知らないうちに、妻ががん保険の加入手続きをしていた。ホルモン療法は高額なので入っていて良かったと思う
- 大学生で家を離れている娘には心配をかけないよう、ずっとがんであることを言わなかった。帰省したときに絶対大丈夫だからと前おきしてから話した
- 診断を妻に伝えたら、ひどくショックを受けていた。冷戦中だったので、がんになったのは自分が原因かもと考えたようだ。以後、会話が若干増えた
- 漫然と長生きするより病気と並行して生きることで、設計図が描ける。自分では10年大丈夫と思って後悔のない生き様を描きたい