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診断時:57歳
インタビュー時:58歳(2008年4月)
甲信越地方在住。観光関連会社の役員と市議を兼任して多忙な日々を送っていた2006年末、激しい腰痛で整形外科を受診したところ、MRI検査でがんが疑われ、がんセンターに紹介を受けた。当時PSA値は1,079。病期はD2で、ホルモン療法と転移部への放射線照射を受け、腰痛や全身の倦怠感は軽快し、PSA値も1以下に下がった。その後上昇の兆しが見られたため、飲み薬をやめたところ、再びPSAが下がっている。
語りの内容
―― で、帰ってこられて、奥さまに、奥さまにこう話されたわけですよね。そのときの、その最初の反応っていうのは?
彼女はショックでしたよ。の、ようでしたね。すごいショックでしたよ。あのときねえ、あのう、ずうっと会話もないって、さっき話ししましたけど、冷戦中でしたからね、女房とね。それこそ、そんなのもあって、全然話もしなかったし。で、病院に行ったの分かってたから、帰ってきて、「どうでしたか」って言うか ら、「実は、こうこうこうでって、入院で、がんだよ」って言ったらもうショックだったでしょうね。うん。で、よよと、まあ、私の目の前では泣かないにしても、人には「私が原因だったかもしれない」みたいな話はしてたらしいですよ。だってそういう、ほら、冷戦中で会話もない。うーん、食事なんかもね、まあ一応用意はするけど、ただ、どんと置いてあるだけ、帰っても。で、それを一人でわびしく食べているわけだ、夜にしてもね、まあ朝にしてもさ。まあそんな状況でしたから、そういう、私は全然そう思ってなかったけど、彼女にしてみれば、それが原因でストレスで、なんて思ったのかもしれないね。うん、そんなことが ありましたですよ。でもまあ、私以上に彼女はショックだったかもしれない。
―― そのことで改めて、やはり2人の会話が増えてきたっていうのは……。
まあ若干ですけどね。増えてきましたよ。まあ時々、またあのときの同じ状況にはなるんですけど。まあその原因はまあ分かっているんだけど、あえてここでは申し上げないですけどね(笑)
インタビュー04
- 残尿感があったが、疲れたときに出ていたので、誰でもなるものと考えていた
- 持病だと思っていた腰痛が、2~3年前から激痛になり、意を決して有名な整形外科にかかったら、「整形の分野じゃない」と言われた
- 生検が非常に苦しかった。細胞を採る、その一つ一つが痛かった。腹の中にピストルを撃たれるような感じ
- セカンド・オピニオンを受けてみたいけれど、どこがよいかわからないし二股かけていると感じる。今の先生も悪くないし、どこでも同じだと思う
- リュープリンとカソデックスの投与でいったん下がったPSA値が、再び6まで上がったが、カソデックスを中止したらまた下がった
- ホルモン療法は男性機能をシャットアウトするので、「かわいそうに」と言われるが、もともと淡泊なほうだし、欲することもないから不自由はない
- 診断後すぐ、痛みを取り除く目的で、腰骨に放射線治療を受けた。この放射線治療で根本からがんを取り払えたとは思っていない
- 地元のラジウム含有温泉で湯治をしたり、そこの水を汲んできて調理用の水に使ったりしている。実際に元気でいられるのはそれでかなと思う
- 自分が知らないうちに、妻ががん保険の加入手続きをしていた。ホルモン療法は高額なので入っていて良かったと思う
- 大学生で家を離れている娘には心配をかけないよう、ずっとがんであることを言わなかった。帰省したときに絶対大丈夫だからと前おきしてから話した
- 診断を妻に伝えたら、ひどくショックを受けていた。冷戦中だったので、がんになったのは自分が原因かもと考えたようだ。以後、会話が若干増えた
- 漫然と長生きするより病気と並行して生きることで、設計図が描ける。自分では10年大丈夫と思って後悔のない生き様を描きたい